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第一章 前編



    1



「△△駅で発生しました人身事故の影響により、当列車は約四十分遅れて運転しております」


 無機質な声が、三度目の同じ文言を繰り返す。ホームに、ため息と苛立ちの気配が広がった。



 事故。



 その言葉だけが、耳の奥に残る。

 (ゆき)は、なぜか海を思い出した。黒くて、底の見えない水。息ができなくなる感覚。そして、差し伸べられた手。

 無意識に、鞄の紐を強く握る。

 今日は高校の入学式。早めに家を出たはずなのに、予定より大きく遅れてしまっている。

 スマートフォンで、時間を確認しながら唇を噛み締めた。

 ホームは混み合い、列が長くなる。電話口に向かって頭を下げ続けるOL。しかめ面の女子高生。隣では、中年のサラリーマンの舌打ちが聞こえた。

 数分後、ようやく滑り込んできた快速電車に、雪は()()()()()()()()乗り込み、潰されないよう必死でつり革にしがみついた。車両の中には、同じように張りのある新しい制服を着た新入生らしき姿が、ちらほらと見え隠れしている。

 今日は、何年も待ち望んできた日。見た目も一新した。二日前、都心にある有名な美容室で散髪をし、眼鏡も新しいデザインのものに変えた。初日が大事だから、少しでもいい印象を残せるように、できる努力はしてきた。

 入学式に向かう車窓からは、通り過ぎる街並みに、ぽつぽつとピンク色の桜の木が立っている。咲きこぼれる花びらが風に揺れ、春の空気に淡く滲んでいた。しかし、その穏やかな景色は、事故のあった駅に差しかかった瞬間、唐突に途切れる。ホームの端に、数人の警察官が立っていた。黄色い規制テープが、風に揺れている。青いシートはすでに畳まれているが、端がめくれ、裏の赤い面が一瞬だけ覗いた。

 事故。

 その言葉が、はっきりと形を持つ。しかしホームの反対側では、次の列車を待つ人々が、もう整列していた。誰かがスマートフォンを見下ろし、誰かが欠伸をする。

 電車は徐行のまま、低い唸りを残して駅を抜ける。光景は後方へ流れ、やがて桜の色に塗り替えられていった。まるで、何もなかったかのように。

 息が、少しだけ詰まる。

 雪は鞄の中に忍ばせてあった、一冊の図鑑を手に取った。

 ()()()()()()()。分厚くて、ハードカバーで、表紙には青く神秘的なクラゲの写真が印刷されている。その青は、どこか冷たく、けれど温かさを秘めた光を放っており、それが昔見た海の色と重なって見えた。

 変わっていると思われるかもしれないが、自分にとってはお守りのようなものだった。

 開くだけで、いつかの優しい日々がふっと戻ってくる。気持ちが、ほんの少しだけ穏やかになる。そういう、スイッチみたいな存在だった。

 電車に揺れながら隣に立つ、背の高いスーツ姿の若い男性を、雪はそっと横目で見た。

 つり革ではなく、上のバーに軽く手を添えている姿が、妙に大人びて見えた。

 健康的な肌に、黒髪のアップバング。決めすぎていない、ほどよくラフなスタイリング。爽やかで清潔感があり、スーツの肩から腕にかけてのラインがしっかりしていて、体を鍛えていることがうかがえた。背筋はまっすぐに伸びていて、たとえ無言でも、どこか目立ってしまうような存在感があった。

 電車が急にブレーキを踏んだ。人の群れが波のように揺れる。

 雪はよろけそうになり、()()持っていた図鑑を「ぽとり」と足元に落としてしまった。

 拾おうと手を伸ばした瞬間――それよりも早く、隣の男性の長い腕が伸び、落ちた図鑑をひょいと拾い上げた。

「はい」


 低くて落ち着いた声だった。


「……ありがとうございます」


 雪は図鑑を抱きしめるように受け取った。

 すると、その図鑑を見下ろしていた男性の視線が、自分とぴたりと重なる。


「てか、その図鑑」

「はい?」

「俺も持ってるよ。一番、好きな図鑑なんだ」

「へぇ、そうなんですか。僕もこの図鑑、好きです。初めて買った図鑑で……()()()()()()()()()()()()()()()買ったんです。写真がとても綺麗で、癒されるんですよね。だから、緊張するイベントの前とか、必ず持ち歩くようにしてるんです。気持ちを落ち着かせたくて……」


 思わず、言葉が早口になってしまったけれど、相手の男性は「なるほどな」と、笑って、また車窓に目を戻した。


「てか、混んでますね……僕、この時間は電車に乗ったことがなくて」


 辺りをチラリと見回しながら、ぽつりとこぼした。

 隣の男が微笑する。


「そうだな。人身事故の影響もあるだろうけど、ちょうど通勤ラッシュの時間帯だから……もしかして、新入学生かい?」

「はい、この春から高校に……」


 雪は胸元に目を落とす。

 制服の襟には、校章が輝いている。それを見た男の視線が、ふとそこに留まった。


「その校章……俺が勤めてる高校じゃないか」

「えっ」

「俺、そこで数学の教師をしてるんだ」


 男は唇の端をゆるく上げた。


「そうだったんですね」


 驚きとともに、わずかに姿勢を正した。

 男はやわらかい笑みを浮かべながら、


「ちょっと早いけど、入学おめでとう」


 と、声をかけてくれる。


「あ、ありがとうございます……」


 小さく頭を下げる。気づけば、唇がゆるんでいた。


「……まずいな」


 低くつぶやいた男は、腕時計を一度だけ確かめる。その表情に、隠しきれない焦りの色が差していた。


「時間、やばいんですか?」


 声をかけた雪に、男は苦笑いを返す。


「ああ……。さっき学校には連絡したから、式自体は大丈夫だろうけど。新入生迎える側がこれじゃな……」

「準備とか、先生はいろいろありますもんね」


 雪の言葉に、男は柔らかく微笑んだ。


「……まあ、君が気にすることじゃないさ」


 そう言いながら、ズボンの後ろポケットからスマートフォンを抜き取る。指先で画面をなぞる。

 メッセージを確認する横顔を見て、雪は眉をひそめた。


「……SNS、ですか?」


 男は二回ほど瞬きをみせた。


「ん? 職員の人だけど……どうして?」

「いえ、何でも……ないです……」


 気まずくて目を伏せる。持っていた図鑑を鞄にしまった。

 そうこうしているうちに、電車は目的の駅へ到着した。二人は人の波に紛れながら、ホームに降り立ち、男が「じゃあ、学校でな」と、さりげなく別れようとする。


「あの!」


 雪は反射的に声を上げていた。男は振り返る。


「……一緒に登校してくれませんか」

「え?」

「僕、方向音痴で……ちゃんと高校にたどり着けるか、不安で……でも、急いでますもんね」


 声が、わずかに上ずっていた。

 男は腕時計を確認したあと、ためらわずに頷いた。


「大丈夫。じゃあ、一緒に行くか」

「いいんですか?」

「生徒が不安がってるんだ。断るわけにはいかないよ」


 白い歯を見せて笑う男のまなざしは、すごく優しかった。



 高校へと続く一本道には、満開の桜が均等に並び、風に揺れていた。花びらが舞うたびに、空気に淡い香りが溶けてゆく。まるで、自分たちの入学をそっと祝ってくれているようだった。

 彼のとなりを歩きながら、雪は口を開いた。


「あの、先生って呼んでいいですか?」

「ああ。今日から同じ高校に通うんだし、それでいいよ」

「それと……先生の名前を教えてください。僕の名前は、真壁(まかべ)雪です」

「俺は、芹沢(せりざわ)(あおい)

「芹沢……蒼、先生……」


 その名前を口にした瞬間、胸の奥にひんやりと、懐かしい風が吹いた気がした。

 雪は微笑みながら、ぽつりとこぼす。


「やっぱり、僕たちの名前……白と青のようですね」


 蒼は目を細めて、わずかに考えたあと、うなずいた。


「確かに。俺が青で、君が白。そんな感じがする」

「……はい」


 ふと足元を見ると、蒼が自分の歩調に合わせてくれているのが分かった。目線の高さからして、二十センチくらいは差がありそうなのに、無理なく隣に並んで歩いてくれていた。歩幅も、呼吸も、優しく揃えようとしてくれる。それだけで、蒼という人の人柄がわかるような気がした。

 正面に大きな校門が見えてきた。鉄製の門扉は開かれ、その脇に立つ二人の教師が、生徒たちに軽く会釈を送っている。校門が間近に迫るにつれて、胸の奥に微かな緊張が走る。すれ違う新入生たちもまた、緊張の面持ちで足早に歩いていく。同じように、これからの高校生活にわずかな希望と不安を抱えているのだろう。

 雪は視線を下げたまま、無言で歩を進めた。

 ふいに蒼が自分の前に立った気配がした。視線を戻すと、校門の前でやわらかく腕を広げていた。


「ここが、今日から通う君の高校だ」


 雪は、ショルダーベルトをぐっと握る。


「ちゃんと、着きました……」

「当たり前だろ? 俺がついてたんだし」


 蒼はいたずらっぽく笑った。


「……ですね。ありがとうございます」

「じゃあ、入学式、頑張ってな」


 そう言って、先に歩いていく蒼の背中を、じっと見つめた。

 あたたかくて、まっすぐで、少しだけ遠い人。あの名前も、声も、忘れるはずがない。



    2



 体育館の中は、独特な匂いに包まれていた。ワックスの染みついた床のにおい。どこか埃っぽい空気。新しい制服や制汗剤の香りが混ざり合い、いよいよ高校生活の始まりを告げていた。

 入学式が始まる。生徒たちは皆、落ち着かない様子だった。となりの男子は鼻を擦り、何度も姿勢を正している。斜め前の女子は、胸に手を当て深呼吸していた。

 新品の布地が肌にこすれる。制服の襟はまだ硬く、まるで背中をピンと伸ばすように命令してくるようだった。

 そんな中、静かに周囲を見渡す。

 スピーカーから、校長の低くしゃがれた声が響きだす。長く伸びる挨拶は、体育館の高い天井に反響し、やがてぼんやりと耳の奥へ消えていった。

 ある一角で視線を止める。



 見つけた。

 ちゃんと、そこにいる。



 蒼は、体育館の端で、他の教員たちと横一列に並び、背筋をまっすぐに伸ばして立っていた。

 やはり、ほかの男性教員と比べても頭ひとつ分、背が高い。肩幅も広く、凛とした立ち姿はどこにいても目を引いた。



 視線が重なる。



 雪は、思わずお辞儀をする。蒼は柔らかく目許を緩めて、笑顔で応えてくれた。

 数百人もいる新入生の中、自分だけが、彼の視界に入っている。その事実が、雪の心を静かに満たしていく。

 すでに校長の言葉は、遠く霞んで聞こえていた。意識は、別の方向へ引き寄せられ、胸の内側だけが、あの日の海のようにざわめいている。雪は、その音をなだめるように、そっと胸に手を当てた。

 式が終わり、席を立って一礼すると、生徒たちはぞろぞろと体育館を出ていく。

 外廊下を歩く。校庭の光に目を細めた。春の陽射しは眩しく、白く光っていた。空の色は淡く、ほんのり霞がかっている。校庭の周りには、満開の桜が並び、優しく舞い落ちる花びらが制服の肩に乗った。その一枚を、雪はそっと指先で払う。

 前を向き、わずかに顎を引く。

 新しい季節が、ほんとうに始まったのだと、改めるように背筋を伸ばした。




 掲示板で名前を確認し、Bクラスの教室へ向かう。

 廊下を歩きながら、自分を追い越していく同級生たち。そんな背中を見ながら、心の内では、期待と不安がせめぎ合っていた。

 教室に入ると、自分の名前が記されている席に座った。場所は、前から二番目の窓際。できれば後ろの方が良かったが、窓際というのがせめてもの救いだった。

 鞄をそっと机に掛け、周囲に目を走らせる。

 当たり前だが、見知らぬ顔ばかりが並んでいた。誰もが様子をうかがっているようで、会話のない教室は、妙に静まり返っていた。空気が澱んでいるわけではないのに、どこか音を出してはいけないような……そんな緊張感が漂っている。

 チャイムが鳴る。教室のドアが開いた瞬間――瞳が大きく見開く。

 教室に入ってきたのは、蒼だった。教卓に向かって歩いていく彼を、ただ目で追った。



 まさか、こんな形で――



 驚きと嬉しさと、どこか焦るような気持ちが、胸の奥からせり上がっていく。言葉にできない感情が、波のように押し寄せてくる。

 蒼は資料とタブレットを教卓に置いた。チョークを手に取り、黒板に名前を書く。振り返り、教室を見渡すと、はきはきとした声で自己紹介を始めた。


「はじめまして。今日から担任を務めることになった芹沢蒼です。数学を担当します。まだ教師になって二年目で、慣れないことも多いけど、できる限りみんなの力になれるように頑張ります。高校生活、楽しいことも大変なこともいろいろあると思うけど――一緒に、少しずつ前に進んでいけたら嬉しいです。困ったことがあったら、勉強のことでも、それ以外でも、気軽に声をかけてください。よろしくお願いします」


 それを聞いて、生徒たちも一斉に「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 教室の空気が和らぐと同時に、周囲の女子たちがささやき合う。熱を帯びた視線が、雪の心をざわめかせた。

 出欠が始まり、名前を呼びながら一人ひとりと挨拶を交わす蒼を見つめる。

 自分の番が来ると、



「ま……かべ……」


 タブレットを覗き込む蒼の声が、微かに揺れる。


「はい」


 雪の返事に、蒼が顔を上げる。

 目が合う。彼の表情がわずかに変わり、口元がほんの一瞬だけ、言葉を探すように動いた。


「……真壁雪」

「はい」


 もう一度、落ち着いた声で答える。

 蒼は頬を緩めた。


「これから、よろしくな」


 タブレットに視線を戻し、再び出席を取り始めた。



 これは、偶然なんかじゃない。運命だ――そう思った。



 開け放たれた窓から、春のそよ風が吹き込む。雪の前髪をふわりと揺らした。



    3



 その日から、蒼は雪の中で「先生」になった。けれど、心の奥では、あの電車の中の穏やかなやり取りや、並んで歩いた桜並木……そして、《《あの春の海》》も――ずっと特別なまま残っていた。

 授業が始まり、生活が少しずつ動き出す。満開をすぎた桜の木は色を変え始めていた。花びらが散ってしまった隙間から、緑葉が目立つようになり、歩道には淡いピンク色の絨毯(じゅうたん)が敷きつめられている。

 蒼は、生徒として接してくる雪に、特別な反応を見せることはなかった。教室では、黒板に板書する姿。廊下では、無防備に誰かに呼び止められ、気さくに返事をしている姿。そのどれもが、自分の知らない()()()()()()()だった。



 遠い、と思った。



 あの春の海は、まるで昨日のことのように思い出せるのに……。

 雪は、その遠さに胸を締めつけられながらも、蒼から目を離せずにいた。




 ある日の昼休み。トイレから教室へ戻る途中、廊下の角を曲がると、正面から来た蒼と視線がぶつかる。


「先生……こんにちは」


 深くお辞儀をする。その拍子に、眼鏡がふわりと滑り落ちた。慌てて拾おうとしたが、つま先がレンズに触れてしまい、眼鏡は床を滑って前方へ転がった。


「……ん?」


 蒼は眼鏡を拾い上げ、レンズを確認するように傾けた。


「壊れてはなさそうだ」

「すみません。ちょっと、サイズが合ってなくて……」


 苦笑いをする。


「高校入学の前にネットで買ったんですけど、少し緩くて」


 渡された眼鏡を受け取りながら、蒼の顔を見る。

 すると、彼の口からこぼれた一言が、空気を伝って心に触れた。


「眼鏡をかけていたから気付かなかったが、真壁はすごく整った顔してるんだな」

「え……」

 言葉が喉につかえた。視線を落とし、手許の眼鏡を見つめる。悪ふざけしたくなった。その眼鏡を蒼の耳にかけてみる。


「お、おい……?」

「先生は、眼鏡かけていてもイケメンですね」

「えっ、いや……そういうつもりじゃなかったんだ。すまん、言い方が悪かったよな。お前だって、眼鏡似合ってるぞ。――ほら」


 慌てたように笑いながら、蒼は眼鏡を外して差し出す。雪はそれを受け取って一礼した。


「……あの、先生」

「ん?」


 ほんの少し、声を落とす。


「僕にも……かけてくれませんか?」


 再び差し出された眼鏡に、蒼は目を丸くする。

 一瞬だけ戸惑いが見えた。彼は廊下の左右を静かに見渡してから、わずかに息を吐く。


「……わかった」


 その声には、どこか照れのようなものが滲んでいた。

 そっと雪の前に立ち、両手で頬の横に指を添える。柔らかな手つきでフレームを耳にかけ、鼻あての位置を丁寧に整える。視線を合わせるのをためらうように、目許でふと動きが止まった。


「……これで、いいか?」

「はい、ありがとうございます」


 蒼は、眼鏡のずれを直しながら、何度か視線が交差する。


「やっぱり、ちょっと大きいかもな」


 声は低く、わずかに掠れていた。


「もう十分です。それじゃあ、失礼します」


 雪は鼻を擦り、その場を離れた。

 胸の奥が、わずかに高鳴る。

 背後で、蒼がまだ戸惑ったように立ち尽くしている気配がした。

 くすりと笑う。

 反応は、想像していた通りだった。

 教室に戻ると、後ろの席の向井(むかい)陽斗(はると)が、弁当片手に声をかけてきた。

 髪型はスパイキーショート。顔立ちは、お世辞にも良いとは言い難いが、全体的に爽やかで、長身で引き締まった身体には憧れる。それに、笑ったときに左の八重歯が覗くその表情は、どこか無邪気な大型犬を思わせ、ちょっとズルいくらいに可愛いかった。

 陽斗とは入学してすぐ、「シャーペンを貸してくれ」と言われたのがはじまりで、気づけば自然と仲良くなっていた。



  ***



「なあ……」


 後ろから指でツンツンと肩に触れられた。振り返る。


「すまん、シャーペン余ってたら貸してくれねえか」


 彼の掴んでいたものを見て、二回ほど瞬きする。


「いいけど、筆箱あんのに書くものないとか不思議なんだけど」

「いや、家で宿題した時、そのまま筆箱に入れるの忘れたみたいでさ……」

「なるほどね」


 そう一言返すと、持っていたシャーペンを差し出す。


「いいのか?」

「ああ、もう一本あるから」

「さんきゅ!」


 陽斗は白い八重歯を見せて、掴んでいたシャーペンを受け取った。

 黒板の方に向き直る。蒼が数学の授業を進めながら、こちらに視線を向けていた。

 背筋を伸ばす。

 蒼の口許がわずかに緩んだのがわかった。



  ***



「おい、聞いてるか?」


 陽斗が顔の前で手を振っている。雪は、ハッと我に返り、視線を戻した。


「ん? なんだっけ」

「いや、一緒にベランダで飯食おうって」

「あ、ああ……いいよ」


 苦笑いをして、自席に向かう。 

 この頃は、特に蒼の姿が頭から離れなくなっていた。心を掴まれてしまったような感覚が、段々と強くなっていく。それはわずかに苦しくて――でも、嫌ではなかった。

 ベランダの床に腰を下ろし、白米を頬張る陽斗が話しかけてきた。


「仮入部期間もう直ぐ終わるけど、部活どうするか決めた?」

「ああ、吹奏楽部に入るよ」

「やっぱり吹奏楽か。いつからピアノ弾いてんだっけ」

「四歳の頃から。だから、自分で言うのもなんだけど結構弾ける」

「すっげえ、じゃあもう十年以上? そっちの道に進むのか?」

「まだわかんね。でも、音楽の道に進むのも悪くないかな」


 雪は壁にもたれ、遠くを見つめる。

 陽斗が、ベランダから見える蒼穹を仰ぎながら「ピアニストの雪か……」と、つぶやいた。


「うん、似合ってる! つーか、絶対いいよ。そっち進めって」

「似合ってるかな」

「雪は、外見だけで言えば繊細で……綺麗っていうか……」

「綺麗……?」

「ち、違う! 変な意味じゃなくて……えっとー……透明感……そう! ピアノ弾いてそうな感じ!」


 雪は小さく笑う。


「んでも、言うほど甘くないよ。音楽で食っていくのは努力と……運もいる」


 そこで言葉を切り、あぐらをかく。


「ま、じっくり考えてみるよ」


 今朝コンビニで買った菓子パンを口に運ぶ。


「つうか、俺のことも聞けよー」


 言いながら、陽斗が肘で軽くぶつかってきた。


「わかったわかった。陽斗は部活どうすんの?」

「俺はバスケ部! 将来はプロの選手になる!」


 立ち上がり、箸を剣のように掲げる。決まったとばかりに頷き、静かに腰を下ろした。


「せいぜい頑張れ。一応、応援はする」

「一応ってなんだよ! ちゃんと応援してくれよ!」


 肩を揺すってくる陽斗の腕を掴む。


「わかったから、ちゃんとするから」


 陽斗は満足げに笑うと、また白米を口いっぱいに頬張った。

 ふいに、後ろの窓から声が飛び込んでくる。


「二人で何話してるの?」


 明るい響きのある女子の声だった。

 二人は振り返る。陽斗は箸を咥えたまま何かを考えていた。


「うーん、えっと……」

(いぬい)芽火(めいか)だよ!」

「ああ、乾さんだ」


 芽火は、毛先までよく手入れされた長い栗色の髪を綺麗に巻いている。ぷるっとした艶のある唇に、マスカラで伸ばされたまつ毛。整えられた前髪の隙間から見える、シンメトリーな眉毛。誰にでも気さくに話しかけ、デコレーションされたスマートフォンを片手にキャッキャッと笑ってることが多い女子だ。

 雪はそういう、すぐ距離を詰めてくるタイプが、あまり得意ではなかった。


「もしかして、男同士で恋バナ?」

「いや、部活の話だよ」


 陽斗が答える。


「そうなんだ。私はバスケ部入ろうかなって思ってる!」

「マジ? おんなじじゃん! 俺もバスケ部!」

「やった。じゃあ、これから仲良くしてね」


 芽火は手を前に差し出し、陽斗がそれに応じる。

 嬉しそうな笑みを浮かべて、握手を交わす彼を見て、思わず、心の中でつぶやく。



 こういう女が好きなんだ。



 それは、すごく冷えた声だった。

「芽火? なにしてんのー。さっきの話の続き! C組の誰だっけ、イケメンなんでしょ?」


 教室の中から、女子特有の鼻にかかった声が響く。

 芽火はちらりと後ろに顔を向け、「待って、すぐ行くー」と返事をすると、こちらへ向き直った。


「じゃあ、バスケ部でよろしくね――あと……真壁くん、だよね?」

「うん」

「真壁くん、マジ私の好きな顔なんだよね。めっちゃ繊細な作りしてるっていうか……。肌も白くて綺麗だし、眼鏡かけててもイケメンなの、私ちゃんと見抜いてるから」

「い、いや、僕は別に……」


 雪が言いかけると、


「ねえ、芽火ー! はーやーくー!」


 教室の中の女子が痺れを切らして、芽火の腕を掴む。

 芽火は「わかったから」と笑って応じると、そのまま教室の中へと連れていかれた。



 助かった。



 嵐が過ぎ去ったかのように、雪はほっと胸を撫で下ろした。


「おいおい、芽火ちゃん……お前に興味あんじゃね?」

「ねえだろ」

「いやだって、好きな顔って言ってたし」

「どうでもいいよ。僕には、関係ない」


 雪があっさりと答えると、陽斗はがっくりと肩を落とし、わざとらしく嘆きはじめた。


「くっそー、芽火ちゃんは、雪狙いかー。俺にもとうとう春が来たかと思ったのに……」

「いや違うだろ。つか大丈夫。高校生活は始まったばかりだろ。きっと、いい子が見つかるよ」

「でもなー、俺なんてイケメンじゃないし、頭も悪いしなー」


 口を尖らせながらぼやく陽斗の肩を、苦笑しつつ軽く叩いた。


「んなら、バスケ部で結果出せば? 女子の目に留まるかもよ」

「……あ! そうか! 俺にはバスケがあったわ!」


 陽斗の声が明るくなる。思いついたように叫んで、勢いよく卵焼きを頬張っていた。

 単純だな、と内心で呟きながらも、雪はその豪快な食べっぷりに、どこか癒されていた。


「そういえば、担任の芹沢って、バスケ部の顧問らしいぞ?」

「え……?」


 思わず、手にしていたパンをぎゅっと握りしめる。

 吹奏楽以外、ほかの部活の情報は、関心の埒外(らちがい)にあった。


「芹沢、なんか高校時代インターハイに出たって噂だぜ。優勝したとか」

「ああ……」

「ん? 知ってたのか?」

「……いや、そうなんだ」

「今度、芹沢にインターハイのこと聞いてみようかな。俺も出場できるかもしれないし、どんな雰囲気か知っときたい」

「……そうだな。聞いてみろよ」



 芽火と、同じバスケ部。



 それは、あまり都合がよくない。しかし、顧問は男女で別のはずだ。



 でも――あの女。



 念のため、警戒しておいた方がいいかもしれない。

 雪はパンを頬張りながら、空に浮かぶ飛行機雲をじっと見上げた。

 次の日、雪は眼鏡ではなく、コンタクトで学校に来ていた。教室に入ると、周囲がざわついたのが分かった。気づかれた――と心のどこかで思いながらも、表情を崩さずに自席に向かう。


「なあ、どんな心境の変化だ?」


 後ろの席から陽斗が身を乗り出してきた。


「なにが?」


 次の授業の教科書を出しながら、雪は振り返らずに応える。


「眼鏡だよ。今日、かけてないじゃん」

「ああ……ある人に褒められたから」

「ある人? 誰だそいつ。もしかして女子か?」

「教えない」


 くるりと振り返り、雪はニヤリと笑って見せた。


「もしかして、昨日、お前のことイケメンって言ってた芽火ちゃんの影響か?」

「それは絶対に違う!」


 思わず語調が強くなる。


「まあ、いいけど……抜けがけはダメだかんな?」

「はいはい」

「てか、入学してすぐ春が訪れるとか最高すぎねえか? ダブルで春味わえてんじゃん!」

「ダブルって、笑える」

「いや、笑えねえし!」


 軽いやり取りが続く中、朝のチャイムが鳴り響く。ガラガラと音を立てて教室の扉が開かれた。教卓に向かう蒼を、雪は窓際の前から二番目の席。そこから、そっと見つめた。

 出席を取り始め、蒼が「真壁」と名前を呼ぶ。その声が鼓膜に心地よく響いた。


「はい」


 返事をしながら、笑みを浮かべる。視線が交差し、一瞬、蒼の瞳がわずかに見開いたのを雪は見逃さなかった。



 きっと、気づいてくれた。



 彼の表情からそれが見て取れた。

 ホームルームが終わると、蒼が教卓の荷物をまとめながら生徒に声をかける。


「じゃあ、気をつけて。一限目は、生物だから教室移動して」


 そのまま足早に教室を出ていく背中を、雪はすぐに追いかけた。

「先生!」


 蒼が立ち止まり、振り返る。


「真壁か、どうした?」


 ちょうど、雲の切れ間から太陽の光が廊下に差し込み、二人を照らし始めた。

 雪は一歩、また一歩と距離を詰めながら得意気に微笑む。


「今日の僕、何か違いますよね?」


 試すように訊いてみる。


「ああ、すぐに分かった。眼鏡してないんだな」

「はい。昨日、先生に褒められたので」

「え? それだけで?」

「それだけじゃありませんよ。僕にとっては、大事なことなんです。それに……」


 雪はそこで言葉を切り、また微笑む。


「すぐに気づいてくれて、嬉しいです」


 ニッと歯を見せる。

 わずかに動揺する蒼の目をじっと見つめたあと、瞬きをする。


「そういえば、先生って身長、何センチですか?」

「たしか……百八十五くらいかな」

「へぇ……じゃあ、僕とちょうど二十センチ差か……」


 雪はおもむろに背伸びをして、自分の手を頭上にかざす。


「背伸びしても届かないや……先生、やっぱり大きいですね。羨ましいな。僕も背、高くなりたいです」

「まだ高一だろ? そのうち伸びるさ」

「そうなら、いいな」


 その言葉とともに、顔を寄せる。距離は十センチにも満たない。間近に迫った雪の瞳に、蒼が小さくたじろいだ。


「先生、僕の顔、好きですか?」

「なっ……!?」

「好きなんですね?」

「べ、別に……そういうつもりじゃ……」

「冗談ですよ」


 雪は笑って、距離を戻す。声色を変えて、


「授業、頑張ってくださいね。先生」


 くるりと(きびす)を返し、涼しい顔で教室に戻った。

 思ったより、簡単だ。

 雪は唇の端をわずかに上げて、次の授業に向かう準備を始めた。

 放課後、ある場所へ向かっていた。今週で仮入部期間は終わる。その前に、一度見ておきたい部活があった。

 第一校舎の脇を歩く。校庭では野球部がキャッチボールをし、サッカー部のボールを蹴る乾いた音が風に乗ってくる。遠くでは陸上部が校舎の周りを走っていた。テニス部の女子二人が、ラケットを肩にかけ、笑い合いながらすれ違っていく。

 体育館に近づくにつれ、空気がわずかに熱を帯びていた。中から、ボールの弾む音が響く。スニーカーが床を擦る鋭い摩擦音。笛が短く鳴り、すぐに誰かの笑い声が重なった。

 雪は、開け放たれた体育館のドアの外で足を止めた。ズボンのポケットに手を入れたまま、中を見渡す。

 奥では女子バスケ部が練習していた。ボールを追う軽い足音と、弾けるような声が体育館の天井に反響している。手前では男子バスケ部がウォーミングアップ中だった。そのさらに奥、壁際に蒼の姿があった。

 雪は一歩だけ足を踏み出したが、すぐ止める。

 芽火が女子エリアから男子側へと横切り、まっすぐ蒼の方へ駆け寄っていく。何かを話しかけると、彼はすぐに笑顔で応じていた。

 二人の距離は、思ったより近い。芽火が何かを言うたび、蒼の肩がわずかに揺れていた。

 胸の奥が、ざわついた。

 ふいに、バスケットボールがこちらへ転がってくる。乾いた音を立てながら床を滑り、足先に軽くぶつかった。


「あれ、雪じゃん!」


 奥から、陽斗が駆け寄ってくる。


「もしかして仮入部? だったら芹沢に声かけてやろうか」


 そう言ってボールを拾い上げると、陽斗は軽くドリブルを始めた。手の中でボールが生き物みたいに弾む。リズムよく床を叩き、体の横をすり抜ける。その動きは自然で、見ているだけで上手さが伝わった。

 雪は小さく首を振る。


「いや、やめとく」

「そっか、雪はピアノ弾いてるもんな。突き指したらまずいか」


 陽斗は指先でボールをくるくると回し始めた。


「それもあるけど、かっこ悪いところ見せたくないから」

「え、誰に?」


 陽斗が聞き返す。

 回していたボールをひょいと上げてキャッチする。

 その時、体育館の奥で蒼の視線がこちらを向いた気がした。しかし彼の隣には、まだ芽火が立っていた。

 雪は答えず、体育館に背を向けた。ポケットの中で、指先がゆっくりと握り込まれていく。


「おい! 誰にだよー!」


 後ろから陽斗の声が飛んでくる。それでも振り返らなかった。胸の奥が落ち着かない。ざわざわと、波みたいに感情が揺れている。

 体育館の中では、ボールの弾む音が変わらず続いていた。



 いらつく。



 雪はその場で立ち止まり、靴底で地面を強く踏み鳴らした。

 見上げると、雲ひとつない空が広がっていた。やけに晴れた空が、目に刺さるほど眩しかった。



    4



 窓際の席で、雪は静かにペンを走らせていた。ノートの隅に、ふわりと揺れるクラゲの絵を描いていく。薄い触手、透けるような傘。描き慣れた、小さな海の生き物。


「それ、クラゲ?」


 隣の席から、そっと声が落ちてきた。

 雪は一瞬だけペンを止め、顔を横に向ける。

 涼原(すずはら)紗英(さえ)だ。

 口元を隠しながら、ノートを覗き込んでいた。

 彼女はときおり、ふと話しかけてくる。陽だまりのような笑顔と、血色の滲む白い肌が印象的で、黒髪のショートが涼しげによく似合っていた。確か、部活はバドミントン部。体育の授業で跳び箱をした時、軽やかに飛び越える姿に感心したのを覚えている。分け隔てなく、誰にでも同じ態度で接している彼女を見ていると、たまに自分の人間としての未熟さを痛感する時がある。


「……うん」

「クラゲ、好きなの?」

「ずっと前から」

「へえ……」


 紗英は微笑んで、小さな声で続けた。


「私はね、海の生き物だったらヒトデかなあ」

「ヒトデ?」

「うん。だって、切れても再生するんだよ?」

「……強いんだな」


 その一言に、紗英がくすくすと笑う。つられて、雪の頬もわずかに緩んだ。


「てか、詳しいの?」

「ん?」

「海の生き物」

「ヒトデの話は芹沢先生から聞いたの」

「へぇ……」

「――こら、真壁! それに、涼原も!」


 前の方から叱責(しっせき)の声が飛んできた。二人は慌てて背筋を伸ばす。


「ノートの落書きは家でやれ!」

「……すみません」

「ごめんなさい」


 紗英は小さく肩をすくめながら、「バレちゃったね」と目で合図を送ってきた。雪は無言で目を伏せると、そっとノートの角を折り、クラゲの絵を隠すように閉じた。

 午後のホームルームが終わると、椅子を引く音や生徒の声々が教室に響く。そんな中、紗英は真っ直ぐに教卓へ向かい、荷物を整理している蒼のそばに立った。


「先生、今日の授業でわからないところがあって……今、少しだけ時間ありますか?」

「ああ、少しなら」


 紗英は席に戻り、数学のノートを手にすると、軽い足取りで蒼のもとへ向かった。

 その光景を、雪はじっと見つめていた。

 二人の距離感は、前から気になっていた。生徒と教師というより――まるで、兄妹、恋人のような近さがあった。視界に映る二人の姿。言葉のやり取りは自然で、笑顔も交わしている。ノートを覗き込む蒼。肩に軽く触れて「なるほど」と頷く紗英。

 心が軋む。



 どうして、あんなに自然体でいられるんだ。



 自分とは違う。全然、違う。あの距離感、あの笑顔、あの触れ方。自分には()()、届かないものばかりだった。

 気づけば、雪の手は机の端を握りしめていた。



 ダンッ!



 鈍い音が教室に響くと、周囲の視線が一斉に集まった。

 顔を上げられない。

 そのまま立ち上がる。唇を噛んだまま、カバンを掴んで教室を出た。



 やってしまった。



 急に、あんな態度をとったら不審に思われる。次に会う時、どうしたらいい。どんな顔して会えばいい……。

 廊下を早足で進みながら、雪は眉をひそめる。



 でも、あの二人……本当に普通の教師と生徒なのか?



 足取りは、徐々に重くなっていく。


「なんで……紗英には……」


 誰にともなく呟いたその言葉には、羨望(せんぼう)と嫉妬と、もう一つ――名のない孤独の色が混じっていた。

 トランペットの音が微かに聞こえてきた。窓の外、遠くの音楽室から響く旋律が、雪の耳を通り過ぎていく。

 立ち止まり、壁を蹴るようにして拳を打ちつけた。


「……くそっ」


 吐き捨て、また歩き出す。

 廊下を歩く足音がやけに響く。自分の情けなさがじんわりと胸に染み込んできた。

 クラリネットを手に椅子へ向かう。だが、腰を下ろす直前で、動きが止まった。


「……譜面、ない」


 思わず、ひとりごちた。

 勢いで音楽室まで来てしまったが、譜面を入れた手提げを教室に置いたままだった。

 曲はまだすべて覚えていない。

 戻るしかなかった。



 誰も、いませんように。



 心の奥でそう願いながら、B組の教室へと戻る。ドア窓から中をそっと覗くと、蒼と紗英――ふたりだけだった。紗英は教卓に肘をつき、顎を軽くのせて柔らかい笑みを浮かべている。蒼はノートに指をさしながら、真剣に何かを説明していた。

 その距離は、あまりにも近かった。



 まただ。



 胸の奥に、じわじわと焼けるような違和感が広がっていく。

 息を吐きながらドアを開ける。視線は交えない。まっすぐ自席へ向かい、譜面入りの手提げを取る。しかし、その背に声がかかった。


「真壁。さっきはどうした?」


 足が一瞬止まる。

 静かなトーンだ。しかし返事はせず、肩に手提げをかけたまま歩き出す。


「……おい、真壁」


 今度は、蒼の手が肩を掴んできた。強くはない。しかし、逃れられない。雪は肩越しに声を漏らす。


「二人の時間、邪魔して……すみません」


 掴まれた手を払った瞬間、


「あ、私もう行きますね」


 澄んだ声が響いた。


「先生、お疲れさまでした。真壁くんも、また明日ね」


 紗英は鞄にノートをしまうと、いつも通りの笑顔で、お辞儀をして教室を出ていった。

 扉が閉まり、静寂が訪れる。遠くから、部活の掛け声。音楽室からはトランペットの音。しかし、教室の中は、しんと張り詰めていた。


「……真壁。お前、さっきからちょっと様子が――」

「先生のせいですよ」


 蒼の言葉を遮るように、雪がぽつりと落とす。感情がうまく隠しきれない。


「俺のせい……?」


 蒼が訊き返した。


「なんで紗英を、あんな目で見るんですか」

「あんな?」


 雪は蒼の方を向き、眉をよせた。


「僕にはわかるんです。先生、紗英のこと、特別に見てる」

「いや……それは誤解だ。ただ、教師として――」

「言い訳しなくていいです」


 語気が、思わず強くなる。蒼は沈黙し、ゆっくりと手を差し出してきた。

 雪はその手から、まるで毒でも持っているかのように後ずさった。


「す、すまん……」


 蒼はすぐに手を引っ込め、目を伏せた。

 雪は背を向けると、扉へと向かった。教室の外に出た瞬間、ぐらりと感情が傾く。廊下に差し込む西日が、長く歪んだ影を落としていた。

 自分でもわかっていた。これは八つ当たりだ。わがままだ。先生を困らせたいわけじゃなかった。

 それでも、止められなかった。

 廊下の奥から聞こえてきた生徒の笑い声が、やけに遠く感じた。

 雪はその場で屈み込み、前髪をかき上げる。


「まるで、子供だ」


 言葉が落ちる。自嘲(じちょう)するような乾いた笑いが口元から漏れた。

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