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Chapter 19: Beyond The Sea

 ムリカ第一艦隊、旗艦《HMSバハムート》ブリッジ。


 ヴァンドリア人たちが正しかったことが、ひとつだけあった。


 ムリカは、確かにハッタリをかましていた。


 ただし――

 なぜハッタリをしていたのかについて、彼らはまったく理解していなかった。


 あの手の込んだ「恐怖ショー」は威嚇のためではない。

 物流のためだった。


 モニーは、ヴァンドリアの艦隊をできるだけ無傷で確保したかったのだ。そうすれば、ラヴェンドーンがそれらを貨物船として再利用できる。


 まともな港湾インフラをゼロから整備するには、数か月はかかる。

 だが、鹵獲した船なら――話は一瞬で済む。


 その結果。


 長い間、まともな虐殺イベントから遠ざけられていたムリカ海軍は、非常に具体的な命令を与えられていた。


 手加減しろ。

 全部吹き飛ばすな。


 ラサルカ提督はブリッジの手すりにもたれかかり、わざとらしく疲れ切ったため息をついた。


「はぁぁぁぁ……キャプテン」


 彼女は遠くの敵艦隊を眺めながら言った。


「昨日、連中がMOAB撃ったって聞いた?」


「はい、提督」


 キャプテン・ケトゥスがきびきびと答える。


「実に幸運なことです。彼らにとっては」


 ラサルカは舌打ちした。


「たまに思うんだけどさぁ……」


 彼女は腕を組んだ。


「なんで私たちって、陸タイプの悪魔じゃなくて水タイプの悪魔に生まれちゃったんだろうね?」


 彼女は腰に手を当てて振り向いた。


「水タイプだからって理由だけで、自動的に海軍送りってさ……これ普通に人種差別じゃない?」


 少し考える。


「これ、ペンタゴンの人事部にクレーム入れるべきかな? 差別は差別だよね。うん……うん。やっぱ言ったほうがいい気がする」


 キャプテン・ケトゥスは前を向いたままだった。


 一時間の制限時間。


 それが永遠のように感じられた理由は、敵ではない。


 上官のノンストップ愚痴トークに耐える訓練など、どこの海軍士官学校でも教えていないからだ。


 そのとき――


 アラームが鳴った。


 TING.


「一時間経過」


 ケトゥスが即座に言った。心の底から感謝しながら。


「敵の状況は?」


「報告します、サー」


 水兵が答えた。


「敵艦に白旗は確認できません。なお、依然として前進を続けています」


 水兵は少し言いにくそうに続けた。


「えーと……どういうわけか、現在二十四ノットで航行しています。さっきまでの三倍の速度です」


 ラサルカ提督は眉間を押さえた。


「はぁぁぁ……あのバカども……!」


 ケトゥスはすぐに背筋を伸ばした。


「申し訳ありません、提督。すでに下の甲板でチームを待機させています」


「いいよいいよ」


 ラサルカは手をひらひらさせた。


「キャプテンのせいじゃない。命令は命令だし」


 彼女はまた大きなため息をついた。


「でもさぁ……」


 ぼそりと言う。


「スタンに約束しちゃったんだよね。もしまたこうなったら、サイレン女王モードで完全に部族化してボコるって」


 彼女は出口に向かって歩き出した。

 肩には、非常にやる気のない責任感が乗っていた。


「下に行く。あとは任せた」


「了解、提督」


 ケトゥスが敬礼する。


 ドアが閉まった瞬間、彼は静かに息を吐いた。


「……やっとか」


 ―――


 ヴァンドリア対魔王討伐艦隊。


 ロレンツォの指揮のもと、艦隊は無茶な速度で突撃していた。


 一隻につき十人の魔法使い。


 彼らは帆に向かって休みなく風魔法を叩き込み続けていた。


 荒れ狂う突風はまるで嵐のように船を押し出し、本来の設計限界を完全に無視した速度へと叩き上げていた。


 数十人の水兵が補強ロープにしがみつき、必死にマストを支えていた。筋肉が悲鳴を上げ、腕が震える。それでも、折れれば終わりだと誰もが分かっていた。


 バキィン!


 一本のマストが限界を迎えた。


 激しく折れ、甲板の男たちを押し潰しながら海へと叩き落ちる。


「止めるなァ!」

 船長が怒鳴った。

「魔法使い! 詠唱を続けろ!」


 そのとき、見張りが上から絶叫した。


「敵接近! ヘル・ドラゴンフライ八機!」


 四機のヴァイパー。

 二機のヴェノム。

 二機のシーホーク。


 ヴェノムの機体下には、巨大な拡声器が吊り下げられていた。


「バリスタ準備! 迎撃戦闘!」


 弩砲が一斉に発射された。


 だが――


 矢はすべて、はるか手前で海に落ちた。


「距離が遠すぎる!」

 誰かが叫ぶ。


 そして――


 まるで侮辱するかのように。


 ヴェノム二機が、艦隊のど真ん中の真上にゆっくりと停止した。


 完全に――

 手が届かない高度で。


 次の瞬間。


 拡声器から、ラサルカの声が炸裂した。


「テスト、テスト……ワンツー、ワンツー。おーいクソども! 一時間終わったのに、まだ突っ込んでくる気かァ!?」


 ロレンツォ提督はわずかに眉をひそめた。


「……また挑発か?」


 小さくつぶやく。


「艦隊司令官! お前はバカだァ!!」


「……は?」


「お前を産んだ母親もバカ! その母親を産んだ祖母もバカ! ついでに言うと、お前の家系図は全部バカで埋まってる!」


 ロレンツォは空を見上げたまま、しばらく固まった。


 ほんの一瞬。


 非常に困惑した思考が頭をよぎる。


 史上最も恐ろしいとされる悪魔海軍の司令官が……

 もしかして十六歳くらいの少女なのでは?


「これで私にやらせたんだからな! 言っとくけど、私これ大っ嫌いなんだからな!」


 ロレンツォには、何一つ理解できなかった。


「ワン……ツー……ワンツースリーフォー――」


 音楽が流れ始めた。


 軽やかで滑らかなジャズの旋律。

 《Beyond The Sea》。


 その音は、帆を押し続ける暴風の魔法に乗って、艦隊全体へと流れていく。


「……なんだこれは」


 誰かが呟いた。


「……音楽?」


 ヴァンドリアの兵士たちは、誰一人としてその曲を聞いたことがなかった。


 そして――


 澄みきった、美しい歌声が響いた。


「♪サムウェア・アンダー・ザ・シー、

 サムウェア・ウェイティング・フォー・ミー……♪」


 作業していた手が止まる。


 怒鳴り声が消える。


 風魔法を維持していた魔法使いたちさえ、詠唱を途切れさせた。


「……きれいだ……」


「本当に……きれいだ……」


「女神みたいな声だ……」


「♪サムウェア・アンダー・ザ・シー、

 シー・イズ・ゼア・ウォッチング・フォー・ミー~♪」


 一人の魔法使いが、ぼんやりと微笑んだ。


「……あの下に……

 誰か美しい人が……待ってる……」


「お、おい!?」

 別の魔法使いが肩を掴んで揺さぶる。

「何やってる!? 二人とも、風魔法を続けろ!」


 だが――


 最初の魔法使いは、一歩前に出た。


 もう一歩。


 そしてそのまま。


 船の縁から足を踏み出した。


 彼は海へ落ちた。


 まっすぐ――

 待ち構えていた悪魔ザメの群れの中へ。


「何してるんだァ!?」


 誰かが絶叫する。


 次の瞬間。


 男たちが次々と海へ飛び込んだ。


 船から船へ。


 体が水へと落ちていく。


 仲間の水兵たちは腕を掴み、ロープを投げ、必死に引き止めようとする。


 だが――


 すべて遅すぎた。


「し、司令!」

 一人の船長が叫んだ。規律を保っていた声に、ついに恐慌が混じる。

「兵が海に飛び込んでいます!」


 甲板の端で、女性魔術師が悲鳴を上げた。目に浮かんだのは、ようやく理解した者の恐怖だった。


「歌よ! あの歌! 幻惑攻撃だわ!」


 ―――


 ムリカ第一艦隊、旗艦《HMSバハムート》音楽スタジオ。


 艦内の一室は、完全防音の音楽スタジオへと改造されていた。


 磨き上げられた木製パネル。

 吊り下げられた高級マイク。

 重たいベルベットのカーテン。

 そして、小さいながらもやけに本格的なステージ。


 その中心で、ラサルカ提督はサイレンたちのバンドと共に歌っていた。


 不本意ながら。


 しかし――


 プロとして。


 彼女の歌声は、滑らかに流れていく。


 布ではなく、もっと危険な何かから織られた絹のような音色。


 一音一音が正確で、呼吸すら計算されている。


 その歌を聞けば――


 心の弱い男など、簡単に船の縁まで歩いていき、そのまま海へ身を投げて溺れ死ぬ。


 そして。


 心の強い男は――


 まあ。


 結果は同じだ。


 少し音量を上げて、少し長く聞かせればいいだけの話である。


 ずっと昔。


 彼女はスタンの提案を受け、ムリカ海軍の司令官になった。


 ただし、条件が一つあった。


 もう二度と、昔ながらの方法で男を溺れさせなくていいこと。


 今日――


 祖国は、その約束を裏切った。


 それでも彼女は、次の高音を完璧に決めた。


 ―――


 ヴァンドリア対魔王討伐艦隊。


「♪浜辺の下で きっと会える~♪」


 女性魔術師たちが甲板を駆け回り、叫びながら防御魔法を展開する。


「集中して! 音障壁を維持して!」


 RATATATATAT――


 ヴァイパー攻撃ヘリが容赦なく甲板を掃射した。


 歌に対抗しようとする魔術師を、優先的に撃ち抜いていく。


 ロレンツォ提督は両手で耳を強く押さえた。


 歯を食いしばり、精神力のすべてでメロディを拒絶する。


 それでも。


 歌は頭の中へと染み込んできた。


 周囲では、男たちが次々と海へ飛び込んでいく。


 一人。


 また一人。


 赤く泡立つ海と、旋回する背びれの中へ消えていった。


 上空ではヴェノムが静止している。


 手が届かない。


 届くはずもない。


 止める術など、どこにもない。


 その一機の中で、女性副操縦士がダイヤルを回した。


「音量、もう少し上げといて」


 音楽がさらに膨らんだ。


「♪疑いなんてないわ ああ この胸は~♪」


 ロレンツォの部下たちは、一人また一人と歌に屈していく。


「……艦長」


 ロレンツォはかすれた声で言った。


 両手はまだ耳を押さえたままだ。


「白旗を上げろ」


「……閣下?」


「祖国を守るためなら、喜んで死ぬ」


 また一人、兵士が手すりを越えて落ちていく。


「……だが、これは」


 彼の視線は、海へ落ちていく男たちを追っていた。


「……何の意味もない」


 そしてついに。


 白旗が掲げられた。


 ―――


 ムリカ第一艦隊、旗艦《HMSベヒモス》ブリッジ。


「……キャプテン。敵艦隊、白旗を掲げました。降伏です」


「音楽を止めろ」


「了解」


 数秒の沈黙。


 メロディが完全に途切れた。


「それと……提督に伝えておけ。作戦は成功だと」


 キャプテンは、そこで一瞬言葉を切った。


「……いや。今の命令は取り消しだ」


 キャプテンは小さく息を吐いた。


「……あの人に、いつものアイスクリームを持っていってやれ」


 ―――


 DMZ。


 昨日、ゲートを巡る戦闘が行われた荒れ果てた平原では、ムリカ兵たちが淡々と後始末をしていた。


 捕虜は整列させられ、待機しているトラックへと護送されていく。


 重機は地面に転がる死体を機械的にすくい上げ、処理用コンテナへと放り込んでいた。


 ムリカは、自分の玄関先をゴミだらけにしておくのが嫌いだった。


 その近くで、エイブラムス戦車の乗員二人が砲塔の上に腰掛けていた。


 ブーツを装甲の外にぶら下げ、完全にリラックスした姿勢だ。


「今日、海軍がヴァンドリア艦隊と戦ってるらしいな」


 砲手が言った。


「らしいな」


 装填手は背伸びをしながら答えた。


「昨日の俺たちくらい、楽しんでるといいけどな」


 彼は、連行されていく捕虜たちの列を顎で指した。


「ところでさ。あの捕虜、どこに連れてくんだ?」


「さあな。刑務所か、処理工場じゃないか?」


 装填手は少し考えた。


「……でもさ、食う前にCDCの検査とか必要じゃないのか?」


「そうなんだよな」


 砲手は肩をすくめた。


「でも、うちの連中の中には気になって、まだ新しそうな死体を試食した奴もいるらしいぞ」


 装填手の顔が歪んだ。


「生で? うわ、きっしょ……」


 彼は首を振る。


「文明的な悪魔になれよ。いつの時代に生きてるつもりだ?」


 そのとき、戦車のハッチから車長が顔を出した。


「移動するぞ。代替戦車が来た。帰って夕飯だ」


 周囲を見回す。


「モルソフはどこだ?」


「いま来る」


 戦車の後ろから、モルソフが登ってきた。


 口元を拭きながら。


 唇には、まだ血が残っていた。


「うわ、モルソフ」


 装填手が顔をしかめる。


「お前、人間の死体食ったのか? きっしょ」


「へへ……」


 モルソフは気まずそうに笑った。


「ごめん。祖先のやり方、ちょっと試してみたくてさ」


「毒で死ぬなよ」


 砲手が言った。


「お前、まだ俺に二百ドル借りてるんだから」


「またその話かよ……」


「雑談は終わりだ」


 車長が言った。


「モルソフ。帰るぞ」


 モルソフは運転席に滑り込んだ。


 だが。


 エンジンをかけない。


「……またか?」


 彼は小さく呟いた。


「……ま、また……?」


「おい」


 車長が身を乗り出す。


「モルソフ?」


 次の瞬間。


 モルソフの体が激しく痙攣した。


 筋肉が膨れ上がる。


 骨がバキバキと音を立てて軋む。


 制服が裂け、体格が一気に巨大化していく。


「これかァ!?」


 モルソフが咆哮した。


「またこれかァァァ!? グアアアアア!」


 顎から牙が突き出す。


 手から鋭い爪が飛び出した。


「うおおお!?」


「きゃああ!」


 車長は即座に拳銃を抜いた。


 砲手と装填手は悲鳴を上げながら彼にしがみつく。


「な、何だ!? モルソフ! お前どうした!?」


 二人は完全に怯えた子供のように車長にくっついた。


「モルソフ! 落ち着けって!」

 砲手が叫ぶ。

「これ二百ドルのせいか!?」


「グオオオオオオ!」


「ぎゃあああ! 悪かった! 返さなくていい! 返さなくていいから!」


「お前ら……」


 車長は小声で言った。


「……ゆっくり、ここから離れろ」


 砲手と装填手は、できるだけ静かに、できるだけ速くハッチから外へ這い出した。


「モルソフ……」

 車長は後ずさりしながら言った。

「落ち着け。落ち着け……」


「グオオオオオオオ!」


 モルソフが飛びかかった。


 車長は間一髪でハッチから飛び出す。


「グアアアア!」


 モルソフが追いかけようとした瞬間――


 ドン!


 重たい軍靴が彼の頭に叩き込まれ、体は再び運転席の中へ押し戻された。


 そのままハッチが叩き閉められる。


 ガチャン!


 次の瞬間。


 内部から激しく叩く音が響いた。


 ドン! ドン! ドン! ドン!


 金属が震える。


 戦車がわずかに揺れる。


 そして――


 突然、静寂。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 砲手が肩で息をした。


「モルソフ、この野郎!」


 彼は戦車に向かって怒鳴る。


「モンスターになろうが何だろうが! お前まだ俺に二百ドル借りてるんだぞ!」


 そのとき。


 RATATATATATATATATATATA


 機関銃の連射音が響いた。


 乗員たちは音の方へ振り向く。


 DMZの向こう側。


 そこには――


 モルソフと同じような怪物たちが、何体も暴れながら走ってきていた。


 まっすぐ。


 捕虜たちの列へ向かって。


 ムリカ兵たちは慌てて射撃を開始し、必死に防衛線を作る。


 捕虜たちを守るために。


「……ジーザス」


 車長が呟いた。


「……一体、何が起きてるんだ……?」

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