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Chapter 1: Skip Tutorial

表紙イラストはこちら:

https://imgur.com/TXalZf0

 白。


 すべてが白く、ぼんやりと光っていた。薄い霧が、あらゆる方向へとのんびり漂っている。


 壁はない。


 床もない。


 天井もない。


 ただ、どこまでも続く白だけ。


 それが、男が最初に気づいたことだった。


 そしてすぐに、ある嫌な予感が頭をよぎった。


 ここ……天国か、アップルストアのどっちかじゃないか?


 自分がアンドロイドユーザーであることを考えると、どう考えても前者の可能性のほうが高い気がした。


「クソ……」


 男はぼそりとつぶやいた。


「俺……マジで死んだのか?」


 彼は自分の人生を思い出そうとした。


 だが――


 特に誇れるようなことは、何一つ思い浮かばなかった。


 犯罪者ではなかった。


 それはまあ、いいことだ。


 だが、聖人君子というわけでもない。


 三十四年間のほとんどを、画面を見つめながら過ごしてきた、ただのミレニアル世代の男だった。たまに画面から目を離して、食べて、クソして、働いて、寝るくらいのものだ。


 ……いや。


 たぶん最初の三つは、画面を見ながらやっていた気もする。


 やがて、最後の記憶が浮かび上がってきた。


 日本。


 そう、日本旅行だ。


 フリーのオンライン記者という、平均的すぎる収入しかない彼にとっては、なかなかの達成だった。別にオタクというわけではないが、日本のメディアはかなりの量を消費していたので、旅行自体は本当に楽しかった。


 本当は五日間の予定だった。


 だが、三日目に――


 あの瞬間を、彼ははっきり覚えている。


 交差点。


 一匹の猫が道路を横切る。


 そして、猛スピードで近づいてくるトラック。


 その状況を見た瞬間、彼は理解した。


 長年インターネットに浸かってきた人間なら、誰でもわかる展開だ。


 長年の考えすぎで鍛えられた彼の脳は、すぐに二つの選択肢を提示した。


 選択肢一。


 猫を助ける。


 悲惨に轢かれる。


 高確率で死亡。


 低確率で異世界転生。


 あるいはもっと最悪のパターン――生き残って、日本の病院で目を覚ます。保険なし。破産確定。


 選択肢二。


 何もしない。


 猫は死ぬ。


 罪悪感を受け入れる。


 人生を続ける。


 統計的に言えば、アメリカでは毎年およそ五百四十万匹の猫が交通事故で死んでいる。


 現実的に考えて、彼は選択肢二を選んだ。


 そもそも、彼はどちらかと言えば犬派だった。


 彼は数歩後ろに下がり、日本でよく見る赤い郵便ポストの横に立った。


 自分の人生の傍観者でいることに、すっかり慣れていたからだ。


 だが残念ながら――


 そのトラックの運転手は、日本の厳しい運転免許試験に合格した人物だった。漫画やアニメに出てくるようなドライバーとは違う。


 ブレーキが間に合わないと判断した運転手は、即座にハンドルを切った。


 郵便ポストの方向へ。


 なにしろ、日本のペットの飼い主に訴えられるよりは、そのほうがずっと安上がりだからだ。


「え?」


 男と運転手の目が合った。


 ほんの一瞬。


 現実とは思えない、奇妙な一瞬だった。


 そして――


 ―――


「クソがああああ!! トラックくぅぅぅん!!」


 男の絶叫が、光り輝く虚無の中に激しく響き渡った。


 ようやく現実が追いついたのだ。


 つまり。


 彼は、死んでいた。


「……ああ、哀れな勇者よ……困惑に包まれているのですね」


 甘く、美しい声が響いた。


 男は反射的に振り向く。


 上空から、まばゆい光に包まれた人影がゆっくりと降りてきていた。神々しい輝き。優雅な立ち姿。そしてその衣装は――多くの男がコスプレイベントに通う最大の理由としか言いようがないものだった。


 やがて光がゆっくりと薄れていく。


 男の顎が、がくりと落ちた。


 美しい。


 理不尽なほど美しい。


 かつて日本人の男が二次元キャラと合法的に結婚する気にまでなったレベルの美貌だ――ただし今回は、しっかり三次元だった。


(やばい。やばい。やばい)


(異世界転生って……マジであるのかよ!?)


 彼の脳内が悲鳴を上げる。


 目の前に立っているのは、あらゆる異世界作品に登場する“ポスターガール”そのものだった。


 そして演出たっぷりに――


 女神はゆっくりと目を開いた。


「ようこそ、女神の領域へ。我が運命に選ばれし、神聖なる勇――者?」


 彼女は止まった。


 微笑みが凍りつく。


 その目が、男の全身をじっと観察した。


 三十代の男。


 軽く出始めたビール腹。


 後退し始めた生え際。


 醜くはない。


 だが、格好良くもない。


 ただ――平均的。


 痛いほどに平均的。


 努力すれば多少は改善できそうな平均だが、その努力には金が必要だった。


 そして彼の見た目は、彼の財布事情をそのまま反映していた。


「……勇者よ」


 女神は無理やり神々しい笑顔と口調を取り戻した。


「我が名はセレス。さあ、運命に選ばれし勇者よ。そなたの名を教えてください」


「えっと……アレックス・ソロモンです」


 男は少し肩をすくめた。


「でもソロって呼ばれるほうが好きです。アレックスって名前、もう多すぎるんで……」


 女神の眉がぴくりと動いた。


 彼女が指を軽く弾くと、女性の天使秘書が突然ぽんっと現れた。


 女神は即座にその天使を掴み、ぐいっと引き寄せて耳元で激しく何かをささやき始める。


 ソロは黙ってその光景を見ていた。


(……なんか、めちゃくちゃプロトコル崩壊してないか?)


 神聖な召喚儀式とは思えないほど、ひどく不自然でプロ意識に欠けている。


 そんな印象を、彼は静かにメモしていた。


 数秒後。


 天使は再び消えた。


「失礼しました」


 女神は咳払いをする。


「こほん……アレックス・ソロモンよ。すでに察しているかもしれませんが、そなたの前世の人生は残念ながら終わりを迎えました。ですが宇宙は、その神秘的な摂理によって、ええと……その……」


 女神が長々と説明を続ける中で、ソロはあることに気づいた。


(これ……普通ならスキップボタン連打する場面だよな)


 だが――


 目の前にいるのは、実物の女神だ。


(……まあ、たまにはチュートリアル最後まで見てもいいか)


 女神は優雅に手を振った。


 すると、空中に扉の形をしたポータルが現れる。


 頂点には巨大なクリスタルがゆっくり回転しており、回るたびに輝きが強くなっていく。


 やがて枠の中の空間が揺らめき――


 一つの惑星の映像が映し出された。


 青と緑に輝く星。


 だが、それは間違いなく地球ではなかった。


「そしてこれが――」


 女神は誇らしげに言った。


「惑星タルヴァリス。美しく豊かな世界。魔法があり、ドラゴンがおり、エルフが住まう地――しかし魔王によって脅かされています。ゆえに我は、運命の勇者であるそなたを選びました。タルヴァリスとその民を、滅亡から救うために」


 ソロはその惑星をじっと見つめた。


 大陸の形が……妙に見覚えがある。


 ギザギザの海岸線。


 変な位置にある内海。


 何度も「ランダム生成」ボタンを押したような地形。


「で、あそこが魔族の領域ってやつですか?」


 ソロは南側の小さな大陸を指差した。そこだけは常に黒い雷雲に覆われている。


「その通りです、賢き勇者よ……」


 ソロはゆっくり息を吐いた。


 前世の人生が、頭をよぎる。


 家族。


 友人。


 仕事。


 平凡で、刺激も少なかった。


 だが、決して悪い人生ではなかった。


 もしこの世界で新しい目的が見つかるのなら――やり直すのも、悪くないかもしれない。


 女神は両手を合わせた。


 すると光の柱がソロへと降り注ぐ。


「さあ、勇者よ」


 彼女は高らかに宣言した。


「今より、そなたに三つの祝福を授けます」


「一つ目は宇宙そのもの――すなわちシステムからの贈り物。前世の人生によって形作られた、唯一無二のスキルです」


 ソロの目の前に、光るパネルが現れた。


 心臓がドクドクと高鳴る。


(攻撃スキルか?)


(チートステータス?)


(時間停止?)


(頼むから“死に戻り”だけはやめてくれ……あのアニメ、めちゃくちゃ鬱だったんだよ……)


 パネルの読み込みが終わった。


 ソロは画面を見つめる。


 そして。


 その表情が、困惑と裏切りの中間のような顔に歪んだ。


 女神はすぐに気づいた。


「勇者よ」


 彼女は慎重に尋ねる。


「システムから授かった能力は、どのようなものですか?」


「えっと……これは……」


 ソロは目を細めた。


「……グーグル?」


 彼の目の前に浮かんでいたのは、見慣れた画面だった。


 シンプルなグーグルのホームページ。


 白い背景。


 カラフルなロゴ。


 そして中央に一つだけある検索バー。


 ダークモードですらなかった。


「せ、説明には……“地球のネットワークにアクセスできる能力”って書いてあるんだけど……」


 ソロは宙に浮かぶ検索バーを、恐怖の目で見つめた。


「いやいやいや、ふざけんな! これ完全に“スマホ持ち込みスキル”系じゃねえか! 俺に何しろってんだよ!? ダンジョンから脱出するのにGマップ使って、星一レビューでも書けってのか!?」


「ご、ご心配なく、勇者よ」


 女神は笑顔を保ったまま言った。


 だが、その笑みは明らかに引きつっている。


「まだ女神から授けられる祝福が二つ残っています」


 その瞬間。


 彼女の神聖なる心に、初めて疑念が芽生えた。


(……これ、もしかして……間違いだったのでは?)


 だが女神は姿勢を正し、ゆっくりと息を吸った。


 そして、どうにか“プロらしさ”と呼べるものを取り戻す。


 再び優雅に手を振ると――


 空中に、RPGのようなアイコンが次々と出現した。


 剣。


 盾。


 杖。


 そして、希望に満ちた輝きを放つスキルシンボル。


「さあ、勇者よ」


 彼女は無理やり儀式的な口調に戻した。


「そなたの旅に最もふさわしいと思うスキルを、二つ選ぶが――」


 そのとき。


 天使秘書が突然、再び出現した。


 彼女は慌てて女神の耳元に近づき、何かを必死にささやく。


 女神の動きが止まった。


 そして――


 次の瞬間、爆発した。


「やっぱりじゃねえかあああああ!!」


 彼女は腕を乱暴に振り払った。


 アイコンが、まるで現実から叩き落とされたかのように消え去る。


 空気が震え、生の魔力が波のように広がった。


 女神はドスドスと足音を立てながらソロへ歩み寄る。全身から、灼熱のような怒りが放たれていた。


「おい!」


 彼女は唸った。


「そこの人間! 答えろ!」


「お前、日本人か!?」


 ソロは瞬きをした。


「え? いや……違うけど? 日本には旅行で来てただけだよ。なんで?」


「くっっっっそがああああ!!」


 女神は宙に浮かんでいた祭壇を蹴り飛ばした。


 祭壇は砕け散り、光の破片となって宙に散る。


 もはや神々しさなど欠片もない。


 天使が慌てて駆け寄った。


「で、ですが女神様!」


 天使は必死に言う。


「今回はいつもと違う勇者がいいとおっしゃっていましたよね!? いつもの勇者タイプではなく――」


「そうよ!!」


 女神は絶叫した。


「でも日本人の高校生って部分まで無視しろとは言ってないの!!」


「アイツらは純粋! バニラ! 童――いやまあ、とにかく中二病でもファンタジーのテンプレには従うのよ! 私のルールに!!」


 彼女はソロを指差した。


「でもこいつは何!?」


「三十年分のポルノ履歴を持った成長済みの豚じゃない!!」


「ちょっと待て、それ普通に失礼――」


「黙れ、このクソ豚」


 灼熱の神光がソロに叩きつけられた。


 衝撃で彼の体が吹き飛ぶ。


 床に激突した瞬間、肩に大穴が開き、血が噴き出した。


「ぐああああ!! なにすんだこのクソ女あああ!!」


「私をクソ女と呼ぶ気!?」


 さらにもう一発。


 光線が彼の胸に直撃し、煙が爆発的に広がる。


 煙が晴れると――


 何かがおかしかった。


 体の感覚が、おかしい。


 大きい。


 重い。


 それに……


 緑色だ。


「……ブヒ?」


 彼は自分の体を見下ろした。


 光る床にうっすら映る影。


 そこには、巨大で緑色の体があった。


 オーク。


 彼は――


 完全にオークに変えられていた。


「ブヒブヒ――おい――ふざけんなあああ!!」


 女神は腹を抱えて笑い出した。


「ふふふ、落ち着きなさいよ、豚」


 涙を拭きながら言う。


「見た目、ほとんど変わってないじゃない」


 くすくす笑う。


 ソロは突進した。


 新しく緑になった血管に怒りが沸き上がる。


 一直線に女神へ突っ込み、拳を振り抜いた――


 だが。


 何も当たらない。


 キィン、と光が弾けた。


 魔法のシールドが出現し、彼の拳を完全に止めていた。


 ソロは何度も殴りつける。


 だがバリアには、かすかな波紋が広がるだけだった。


「め、女神様……」


 天使が震える声で言った。


「そんなことに力を使うべきではありません……」


「関係ないわ!」


 女神は怒鳴った。


「ここは女神の領域よ! 消費なんてほとんどゼロ!」


 彼女はくるりと天使へ振り向く。


 目が怒りで燃えていた。


「いいから早く新しい勇者を探しなさい!」


「それと、この豚を選んだオペレーターは処刑よ!!」


「り、了解です女神様! で、ですが……その……現在の――豚はどうしましょう?」


「消しなさい」


 セレスは冷たく言った。


「残ってる神力は、ちゃんとした勇者のために使いたいの」


 ソロの目が見開かれた。


 消す。


 その言葉を聞いた瞬間――


 本能が叫んだ。


 彼は周囲を見回す。


 果てしない白。


 壁もない。


 出口もない。


 隠れる場所もない。


 ――一つを除いて。


 巨大なポータル。


 選択は簡単だった。


 ソロは全力で走り出した。


「め、女神様! あいつ――!」


「ダメええええ!!」


 セレスはさらに天使たちを召喚した。


 だが、その頃にはもう遅かった。


 ソロはすでに、頭からポータルへと飛び込んでいた。


 頂点にある巨大なクリスタルが狂ったように回転し始め、ポータル全体が激しく震え出す。


「このクソ豚があああ!! 私のポータル!! やめろおおお!!」


 次の瞬間。


 ソロの体がふわりと浮き上がった。


 光のビームが彼を捕らえ、タルヴァリスへと強引に引きずり込んでいく。


 背後では、女神のヒステリックな絶叫が領域中に響き渡っていた。


 自分が何をやらかしたのか、正確にはわからない。


 だが少なくとも――


 女神を激怒させる才能だけは、この死後の世界で新たに手に入れたらしい。


 空中を引きずられながら、ソロは体をひねった。


 どんどん小さくなるポータルへ向き直る。


 そして――


 誇らしげに中指を立てた。


「絶対殺してやるぞ、このクソ汚ねえ豚があああ!! 絶対に殺してやるからな!!」


 女神の領域。


 天使は慌てて、いくつもの宙に浮かぶパネルを操作していた。


 それはまるでコンピューターの操作画面のようだった。


「め、女神様! ポータルエネルギーがあと八十秒で枯渇します! まだ接続は残っています! 今なら彼を消去できます!」


 セレスの歪んだ表情が、ゆっくりと変わっていく。


 そして――


 邪悪な笑みへと変わった。


 彼女は手を上げ、抹殺命令を出そうとした。


 だが。


 その動きが止まる。


 笑みが、さらに深く広がった。


「……いいえ」


 彼女は低くつぶやいた。


「そんな簡単に終わらせるのはつまらないわ。もっといい方法を思いついた」


 セレスは自分のこめかみを指で軽く叩く。


「まだ神力は残っているわよね? あの豚に“残り二つの女神の祝福”を与えるだけの分は」


「よく聞きなさい」


「一つ目の祝福――レベルアップを不可能にしなさい」


「……完了しました!」


「二つ目――勇者の武器で殺されない限り、絶対に死ねないように」


「……完了しました!」


「いいわ。それと召喚座標を魔族領に変更しなさい」


「更新中……完了しました」


「ポータルエネルギー残量……三……二……一……」


 クリスタルの回転がゆっくりと止まった。


 ポータルの光が弱まり、やがて完全に消える。


 静寂が、領域を満たした。


「……タルヴァリスとの接続が切れました、女神様」


 天使が静かに報告する。


「お聞きしてもよろしいでしょうか……そのご計画とは?」


 セレスは、くくくっと低く笑った。


「ふふふ……簡単なことよ」


「レベルアップできない弱いオークにしておけば、魔族領では何もできないでしょう?」


「それに勇者の武器で殺されない限り死ねないんだから……」


 彼女は笑った。


「魔族たちが“無限の食料”として使うでしょうね」


「何度も、何度も。あはははは!」


「なんと素晴らしいご発想でしょう、女神様! だから魔族領へ送ったのですね!」


「まあ、それもあるけど――」


 セレスは手をひらひら振った。


「エルフ領に迷い込んで、勇者の武器を見つけて自殺されても困るからよ」


「それより再計算しなさい。ポータルはいつ再起動できる?」


「少々お待ちください……計算中……」


 天使は一瞬、言葉に詰まった。


「女神様……ポータルを再び開くための神力が回復するのは、およそ……百三十年後になります」


 セレスが固まった。


「……は?」


「な、なんで!? なんでそんなに長いのよ!?」


「じ、女神様」


 天使は慎重に説明する。


「今回は魔王国上空の“神聖結界”を解除していないため、魔族の侵攻は起こりません」


「世界規模の戦争が起きない場合、神力の回復は非常に遅くなるのです」


「……あらまあ」


 セレスは小さくつぶやいた。


「とんだミスね……」


 舌打ちを一つ。


 そして大きく息を吐く。


「まあいいわ」


「少なくとも、あの豚が私の予定よりずっと長く苦しむのは確実だもの」


 彼女の目が細くなる。


 声には、どす黒い憎悪が滲んでいた。


「アレックス・ソロモン……」


「私を“クソ女”なんて呼んで、ただで済むと思わないことね」


「百三十年の地獄を楽しみなさい」


「最後には、自分の惨めな命を終わらせてくれと、私に泣きつくことになるわ」


 ―――


 ――百三十年後


 マルヴォラス大陸


 帝暦一三一二年


 レイヴンドーン王国


 ルクストル王は城のバルコニーに立ち、眼下を見下ろしていた。


 そこでは、将軍たちが“戦争準備”と呼び張っている何かが行われていた。


 兵士たちは下で動き回っている。


 だが隊列はばらばら。統率もない。


 命令は叫ばれ、無視され、繰り返され、誤解される。


 そこに緊張感はない。


 ただの作業。


 まるで、結末が最初からわかっている悲劇の芝居をリハーサルしている役者たちのようだった。


 王の目には、もはや情熱は残っていなかった。


 かつてレイヴンドーンは、尊敬される国だった。


 その軍は戦場で鍛えられ、規律があり、恐れられていた。


 魔族の侵攻が始まれば、レイヴンドーンは盾となった。


 最前線。


 世界の防壁。


 タルヴァリスの諸国は、この王国に資源を惜しみなく送り込んだ。


 武器。


 食料。


 黄金。


 援軍。


 魔族軍を少しでも遠ざけるために。


 だが――


 百三十年前。


 神聖結界が守り切った。


 史上初めて。


 それはルクストルの曾祖父の治世の時代だった。


 奇跡だと、教会は宣言した。


 そして世界は変わった。


 侵攻は来なかった。


 一度も。


 神託官たちは言った。


 人々の祈りが女神を強めた証だと。


 信者たちは歓喜した。


 大陸中で鐘が鳴った。


 だが――


 その後、請求書が届いた。


 存在しなかった戦争のために、各国は国庫を使い果たしていた。


 失った財を取り戻すため、彼らは互いに牙を向けた。


 レイヴンドーンは、その犠牲者の一つだった。


 領土を削られ。


 影響力を奪われ。


 少しずつ解体されていった。


 最後に残ったのは――


 誰も欲しがらない南方の土地だけだった。


 そして彼らは、それを統治することを“許された”。


 ヴァンドリア王国の属国として。


「父上。私は出発します」


 ルクストルは振り返った。


「頼む、息子よ」


 彼は静かに言った。


「考え直してくれ。前線に出る必要はない」


 鎧は古びていたが、ルクシウス王子は堂々と立っていた。


「いいえ、必要です」


 彼は答える。


「王族の誰も現れなければ、ヴァンドリアは我々の功績を認めないでしょう」


「功績だと!?」


 ルクストルは怒鳴った。


 眼下の野営地を指差す。


「あれを見ろ! “援軍”だと!? 錆びた装備の奴隷兵と、指揮もできない下級貴族ばかりじゃないか!」


 ルクシウスはわずかに微笑んだ。


「ヴァンドリアは約束しています」


「魔族軍の侵攻を止めることができれば、我が国の属国 status を解除すると」


「これが我々の機会です」


「もしかしたら、女神が再び我々を祝福してくれるかもしれません」


「あるいは……侵攻そのものが起こらないかもしれない」


 彼は深く一礼した。


「行って参ります、父上」


「勝利を携えて戻れますように」


 ルクストルは息子の背中を見送った。


 視界が滲む。


「……女神よ」


 彼は小さくつぶやいた。


「私は何度もあなたを呪ってきた」


「だが、どうか……どうか」


「息子を帰してくれ」


 ―――


 ソリス大陸


 セレステ神聖帝国


 天上宮殿・大広間


 魔王国の国境から遠く離れた場所。


 天上宮殿の大広間で、巨大な魔法陣が輝き始めた。


 その中心に立っていたのは、若い巫女。


 イザベル。


 彼女の声は、あまりにも清らかで神聖だった。


 召喚の詠唱が広間に響く。


 背後では、役人たちが緊張した面持ちで直立していた。


 手を組み、沈黙を守っている。


 光が爆発した。


 まばゆい輝きが広間を満たす。


 何人もの貴族が腕で目を覆った。


 やがて光が消えると――


 魔法陣の中心に、一人の青年が立っていた。


 黒髪。


 現代的な服装。


 この部屋で、唯一“場違い”に見える人物。


 しかも顔立ちは整っている。


 だが本人は、それをまったく自覚していないようだった。


 まさに教科書通りの異世界主人公。


「こ、ここはどこだ?」


 青年は言った。


(よっしゃあ。異世界転生きた!)


 イザベルは素早く前に出た。


 必ず自分が最初に見える位置に立つ。


「異世界より来た勇者様」


「セレステ神聖帝国へようこそ」


「そんな国、聞いたことないな」


(やった。可愛い聖女だ)


 皇帝が一歩前へ進み出た。


「勇者よ」


 彼は厳かに言う。


「私はグレゴリー王。この城の主だ」


「我がささやかな城へようこそ」


「どうか名を聞かせてくれ」


「僕は空信之ノブユキ・ソラです」


 青年は答えた。


「日本から来た高校生です」


「あなたをこの世界から連れてきてしまったことを、深く詫びよう」


 グレゴリーは言った。


「だが我々の世界は、今まさに危機に瀕している」


「この瞬間にも、はるか南方では人類連合軍が――」


「恐るべき魔族軍の侵攻を迎え撃つ準備をしている」


 彼は一度言葉を切った。


 そして静かに続ける。


「だが……」


「その軍が勝てると信じている者は、ほとんどいない」


「……私も、その一人だ」


 ―――


大魔門


 正式名称は「人類連合軍」。


 だが、その名のわりに――


 人間は驚くほど少なかった。


 隊列を埋めている兵士の大半は、さまざまな種族の獣人だった。


 毛に覆われた者。

 羽に覆われた者。

 角を生やした者。


 彼らが持つ装備は、どう見てもすでに二つの戦争を経験し、しかも両方負けてきたような代物だった。


 錆びついた剣。


 ひび割れた革のベルト。


 そして――本来なら絶対に鳴るはずのない音を立てる鎧。


 隊列の後方。


 レイヴンドーン王国の皇太子ルクシウスは、その軍を眺めていた。


 まるで、すでに答えの分かっている計算問題を頭の中で解いている男のような表情で。


 書類上では、この軍の編成はこうなっている。


・歩兵 三〇〇〇

・弓兵 八〇〇

・魔術師 一五〇

・騎兵 四〇〇

・ワイバーン騎兵 八〇

・鳥人戦士 一二〇

・バリスタ 三五


 だが現実は――


 かなり“柔軟”だった。


 伝令がルクシウスの元へ全力で走ってきた。


 敬礼。


 そして、息もつかずに早口でまくし立てる。


「殿下! 傭兵部隊がすべて消えました! おそらく長い行軍の途中で逃亡したと思われます!」


 ルクシウスは鼻の付け根を指でつまんだ。


「金にしか興味のない臆病者どもめ……」


「ヴァンドリア軍は? どこにいる」


 伝令は一瞬、言葉に詰まった。


「ええと……その……一応、来てはいます」


「一応?」


「はい。その……使者によれば、正規軍は現在“予期せぬ事態”への対応で忙しいとのことでして……」


「代わりに、この戦争に志願した勇敢な民兵を送ったそうです」


 ルクシウスは、伝令の震える指の先を見た。


 隊列の端。


 そこには、ばらばらに集められた農民たちの集団が立っていた。


 彼らは露骨に震えている。


 手に持っているのは――


 熊手。


 シャベル。


 農作業用の鎌。


 そして一人だけ、なぜかフライパンを握っている男。


「……それは村人だ」


 ルクシウスは平坦な声で言った。


「はい、殿下」


「戦争のために集められた」


「……はい、殿下」


 ルクシウスはゆっくり息を吐いた。


 こうして、人類連合軍の編成は更新された。


・ 歩兵 三〇〇〇 → 二二〇〇

・ 弓兵 八〇〇 → 五〇〇

・魔術師 一五〇

・ 騎兵 四〇〇 → 二五〇

・ ワイバーン騎兵 八〇 → 六〇

・鳥人戦士 一二〇

・バリスタ 三五

・+三〇〇  農民 → 民兵


 誰もその変更を口に出して宣言しなかった。


 全員が、まるで最初からこういう計画だったかのように振る舞った。


 ―――


魔王国の国境は、一目でわかった。


 マルヴォラス山脈が前方にそびえている。


 それは大陸を真っ二つに裂く、鋭い石の壁だった。


 まるで決して癒えることのない傷跡のように。


 その中央にあるのが――


 魔族領への入口。


 大魔門。


 巨大だった。


 古代の建造物。


 門全体には、歪んだ悪魔の彫刻がびっしり刻まれている。


 牙を剥き。


 顔を歪め。


 永遠に悲鳴を上げ続けているような姿。


 もし現代の地球人が見れば、おそらく“モルドールの門”を思い出しただろう。


 だがここにいる者たちが思い浮かべたのは――


 死だった。


 軍全体が門を見上げる中。


 祈りが隊列の中を野火のように広がっていく。


 小さなつぶやき。


 必死の取引。


 そして、最後の懺悔。


 長いあいだ沈黙している女神へ向けた祈り。


 誰一人として――


 門が開くことを望んでいなかった。


「見ろ!! あそこだ!!」


 誰かの叫び声が緊張を切り裂いた。


 空の高み。


 そこに、青く輝く球体が現れた。


 神聖なエネルギーを震わせながら、ゆっくりと降下してくる。


 希望が走った。


 だが――


 次の瞬間。


 その球体は神聖結界に激突した。


 見えない壁が一度だけ波打つ。


 そして――


 砕けた。


「結界が……」


 誰かがささやいた。


「崩れている……」


 光の破片が、燃え尽きる火の粉のように空気の中へ溶けていく。


 最後の輝きが消えたとき。


 軍の視線は再び――


 大魔門へ戻った。


 沈黙。


 そして――


 VOOOOOOOOOOOMMM


 この世のものとは思えないラッパの咆哮が、門の向こうから轟いた。


 骨と魂を震わせる音。


 続いて――


 重い金属音。


 古代の機構が動き出す。


 門が――


 動いた。


 巨大な扉が左右へ分かれる。


 石と石が悲鳴を上げるような音を立てながら、ゆっくりと開いていく。


 地面を擦る金属が、激しい砂煙を巻き上げた。


 灰色の霧が戦場へ押し寄せる。


 そして――


 ついに、規律が崩壊した。


 兵士たち――特に民兵は、隊列を破って逃げ出した。


 武器が地面に落ちる。


 叫び声は悲鳴へと変わった。


 ルクシウスは、その光景を無表情で見ていた。


 逃げる者たちには、何の反応も示さない。


 彼は残った兵士たちへ向き直った。


「全員!」


 彼は叫んだ。


「武器を構えろ!」


 残った者たちは武器を握り直す。


 弓が引き絞られる。


 魔法陣が、震える手で展開される。


 汗が止まらない。


 門は、すでに完全に開いていた。


 だが砂煙のせいで、その向こうは見えない。


 そして――


 HRUUUUUUUUUUUMMM


 BATA-BATA-BATA-BATA-BATA


 門の奥から音が溢れ出す。


 奇妙な音。


 機械のような。


 規則正しいリズム。


 砂煙の中から、影が現れた。


 それは――


 どんどん大きくなる。


 近づいてくる。


 そして、数が増えていく。


 ―――


セレステ神聖帝国

 天上宮殿・大広間


 伝令が大広間へ飛び込んできた。


 息を切らしている。


「陛下! 人類連合軍からマナ通信による報告です!」


「申せ」


 グレゴリー皇帝が命じた。


「神聖結界が崩壊しました。大魔門が開き始めています」


 広間にどよめきが走った。


「魔族軍が進軍中です」


 伝令は震える声で続けた。


「巨大で地獄のような魔物、そしてこれまで記録されたことのない兵器のようなものを伴っています。数百の魔族兵が同一の制服を着用し、奇妙な魔族の杖を装備しています」


「さらに数十の地獄の戦車と魔象が進軍しており、それぞれ魔族の騎手が乗っています。上空には、複数の地獄のトンボのような存在が編隊を組んで浮かんでいます」


 イザベルは身震いした。


「魔象……? 地獄の……トンボ?」


「そんな生物の記録はありません。魔王が地獄から新種の生物を召喚しているのでしょうか?」


 伝令は唾を飲み込んだ。


「そ、それから……魔族軍を率いているのは……魔公の一人……レ、レヴィアタンです」


 その名が、部屋の中で爆発した。


 恐慌。


 ざわめき。


 顔から血の気が引く。


 ソラは周囲の反応を見つめていた。


 腹の奥に、嫌な感覚が広がる。


(俺……ハードモードの異世界に転生したのか?)


「そして最後に」


 伝令が言った。


「これがレヴィアタンからの伝言です」


 ―――


 大魔門


 砂煙の中から、一人の男が静かに歩み出た。


 背が高い。


 身だしなみは完璧。


 滑らかな現代的ビジネススーツを着て、眼鏡をかけている。


 武器は持っていない。


 だが――


 その背後には、魔族の歩兵部隊が整然と行進していた。


 彼らは慣れた手つきで M4A1ライフル を構えている。


 さらに数十台の ハンヴィー が前進してきた。


 車上には M2ブローニング .50口径機関銃 が搭載され、鈍く光っている。


 その後ろでは、M1エイブラムス戦車 の小隊が重々しい轟音を響かせながら進んでいた。


 上空では――


 四機の AH-64アパッチ が静かにホバリングしている。


 男は軽く咳払いをした。


「聞け! 聞くのだ!」


 その声は、戦場全体へ自然に響き渡った。


「我が名はレヴィアタン!」


「魔王国の言葉を届けるためにここへ来た!」


 彼は両腕を広げた。


「タルヴァリスの民よ」


 静かな声で言う。


「我々は――」


「平和のために来た」

作者よりお知らせです。


 本作は、作者が英語で執筆しているWeb小説

『Building World Peace with my Bloodthirsty Demon Army』の日本語翻訳版です。


 原作は海外のWeb小説サイト「Royal Road」にて連載されています。


 この日本語版は、AI翻訳を補助として使用しつつ、作者本人が内容を確認・調整しながら作成しています。

 そのため、日本語として読みやすくするために表現や文章構成を一部調整している場合がありますが、物語の内容自体は原作と同じです。


 もし英語版に興味がある方は、ぜひ原作の方もチェックしていただけると嬉しいです。


 日本語版も楽しんでいただければ幸いです。

 よろしくお願いします。

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