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第九話『触れた瞬間』

あとに残された透と正司。透がつぶやいた。


「日和…。どうしたんだ、一体……」


正司はすでに見えなくなった日和が走って行った方向を見つめたまま、静かに言った。


「透……。実はな、俺もなんだ」


「え?」


「俺も最近変なんだ。物忘れがすごくてな。最初はうっかりしているだけかと思ったが、どうやらそうではないらしい」


「──言うか迷ったんだが。どうせお前も日和も、ニュースとか見ないだろ?」


正司はポケットからスマホを取り出し、少し操作したあと、透に見せた。画面に映っているのはニュース記事のようだ。タイトル文字を透はそのまま読んだ。


「ナギノニュース?」


「地元ニュースに特化したアプリだ。住んでる地域を設定すると、その地域のニュースが集まるようになっている。この記事を読んでみろ」


「凪ノ町で謎の流行病の可能性──。主な症状は激しい物忘れや記憶違いで、町内の若年層を中心に広がっている。原因などは現在わかっていない。症状の疑いがある人はまずはかかりつけ医に相談を──」


「どうやら、この町で変な病気が流行っているらしい。もしかすると俺や日和も……」


(これってもしかして……!)


これまでも透は、その気配を感じていた。だが、そうなってほしくないという思いから、なるべく考えないようにしていた。──そして今、とうとうそれが現実になったのだと感じた。


「正司、このあと予定あるか?」


「いや、特には」


「ちょっと、会ってほしい人がいるんだ!」


透はスマホを取り出し、電話をかけた。


三十分後。


駅の前で待つ透と正司の前に、一台のワゴン車が停車する。運転席の窓から顔を出したのは理人だった。ハコは同席していない。


「君が正司くんだね?透くんから話は聞いている。さぁ、乗って」


ワゴンに揺られている間、理人も透も口を開かなかった。正司は聞きたいことが山ほどあったが、尋ねられるような雰囲気ではなかった。


白凪宅に到着し、三人は玄関に入る。


正司は廊下の散らかり具合を見て、少し身の危険を感じた。


理人はリビングではなく、家の一番奥にある部屋へ案内した。その部屋に入るのは透も初めてだった。理人が扉を開いて三人は中に入る。


「なんだここは?」部屋の中を見た正司は目を丸くした。


部屋の中央には、見たこともない銀色の巨大装置が据えられていた。装置からは筒状の突起があちこちに伸びており、床のコードは足の置き場がないほど散乱している。壁際のデスクには、パソコンと出力用モニター、黒い小型の機械が並ぶ。そしてデスクの横には、白のシーツがかけられた簡易的なベッドが置かれている。


理人はあたりを見回している正司へ顔を向けた。


「──自己紹介が遅れて申し訳ない。僕は白凪理人。量子物理学者で、ここは僕の研究室だ」


「量子物理学者…研究…」


正司はぶつぶつと復唱した。


「正司くん。いきなりで申し訳ないが、そこのベッドに腰掛けてくれ」


正司は素直に言うことを聞いた。透もその場にいたし、理人が悪人には見えなかったからだ。


「じゃあ、これをつけるよ。脳波を計測する装置だ。少しひんやりするかもしれない」


理人はデスクから白いヘッドホン型の装置を持ってきて、正司に被せた。軽量なフレームが正司の頭を覆っている。フレームの先端から伸びる複数のアームには円形のセンサーが取り付けられており、額のあたりに軽く接触するようになっている。


「そのまま、じっとしてて──」


デスクの小型機械からロール紙が出てきた。その細く長いロール紙は、止まることなくゆっくりと吐き出され、波状の線を描き続けている。


理人は出てきたロール紙を手に取り、少し眺めてからつぶやいた。


「なるほど……」


「ど、どうなんですか? 俺……おかしいんでしょうか?」


正司は前のめりになって理人に聞いた。


「いや、特に脳波に異常はないよ。穏やかな波形だ」


「そうですか……」


正司は緊張が解け、少しぼーっとしている。


「よかった」と透が言ったそのとき──


「──お父さん?いるの?」


部屋の外からハコの声がした。


「まずい、こんなに早く帰ってくるとは!」


理人は慌てて言った。それに釣られ、透も焦り出す。


(今、ハコが正司と会うのはよくない!)


透は瞬時に思ったが、もはや遅かった。


「……透もいるの?」


扉の向こうのハコがそう言いながら、ドアノブを回して部屋に入ってきてしまった。


そして、ハコはベッドに腰掛けている正司と目が合う。


「……え?もしかして……正司?」


「…え?」


正司はハコの瞳を見つめている。美しく、吸い込まれてしまいそうな瞳を。


その瞬間、デスクの小型機械からアラート音が鳴り響いた。ロール紙の波状が異常な振幅を描く。


「うぐ…ぐ…!」


正司がベッドにバタッと横たわった。顔を歪めて頭を抱えている。ついには、「うわぁー!」と奇声をあげ、のたうち回り始めた。


「落ち着くんだ、正司くん!」


理人が正司を抑えようと肩をつかんでいる。


「正司!」


透も抑えようと加勢するが、正司の力が強くて制御できず、ふたりの腕は振りはらわれてしまう。その勢いで、正司はベッドから落ちそうになる。


「危ないっ!」ハコが咄嗟に駆け寄って手を伸ばす。


ドサッ!


正司は床に転げ落ち、ハコは腕をつかむことしかできなかった。


床に倒れた正司はそれ以上暴れる気配がない。呼吸も緩やかになっている。機械のアラート音はいつの間にか止まっていた。


ハコは正司の腕からぱっと手を離した。


「大丈夫か!?正司!」透が呼びかける。


「……あぁ。もう大丈夫だ。すまない」正司はゆっくりと体を起こした。


「葉子?」


理人は自分の手のひらを見つめているハコを気にかけた。


「…腕に触れたとき、また静電気のようなピリピリがきた……」


それを聞いた理人ははっとし、足元に束になっているロール紙を拾い上げた。そして食い入るように線を見つめた。


「これは……!葉子と顔を合わせたときに、彼のガンマ波が通常の三倍にまで一気に膨れ上がっている……」


透は正司に肩を貸してベッドに座らせ、理人に聞いた。


「それってどういうことですか?」


ロール紙の線を指で辿りながら、理人は言った。


「はっきりとは言えないが…まるで『別の記憶』を処理しようとしていたようにも見える」


「別の記憶…やっぱりハコの記憶が伝染して……」


透はそう言って正司へ顔を向けた。正司は状況がわからず、ただ眉をひそめている。


理人は正司に確認した。


「正司くん。葉子のことはわかるかい?昔、一緒に遊んだとかの記憶があるかい?」


正司は目の前に立っているハコを見上げ、顔を横に振った。


「いえ……ありません」


「え?じゃあ記憶は伝染していない……?」透は戸惑っている。


「……なんてことだ。考えてみれば、当たり前じゃないか!」


理人は自分に言い聞かせるように言った。


「他者の記憶を脳が簡単に受け入れるはずがない。透くんの事例を前提に考えていたせいで、見落としていたが、拒絶反応が出て当然だ。むしろイレギュラーは──」


理人は透の顔をちらっと見た。そして、正司のほうへと顔を戻した。


「伝染しなかったとはいえ、正司くんの記憶には影響を及ぼしたと考えていい。そして、気になるのがここだ……」


理人はロール紙を透たちに見えるように広げ、紙の一部を指さした。


「ちょうど葉子が『触れた』あたりで、正常に戻っている」


ハコはもう一度、自分の手を見つめ、つぶやくように言った。


「私が触れたら、症状は治るってこと……?」


「可能性はある。そして、もしかすると町の流行病も……。調査を急ぐ必要があるな」


理人はそう言うと、ロール紙の必要な部分だけ切り取り、床に転がっていたカバンに詰め込んだ。


「正司くん。今のところ問題はなさそうだが、しばらくは経過観察が必要だ。今後も定期的にうちに来てくれ」


「わ、わかりました」


「僕は少し出てくる。葉子、なにかあったらすぐ電話してくれ」


理人はそう言い残し、カバンを手に、急ぎ足で部屋を出た。


残された三人は、リビングへ移った──。

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