第六話『私の記憶』
白凪宅は白壁の洋風の一軒家で、建てられてから十数年は経っているようだった。家の外観を見た透は思った。
(そういや、ハコの家に来たのは初めてだ……前に住んでた所とは違うのかな?)
家の中に入ると、玄関から続く廊下にダンボール箱やケーブルなどが散らかっていた。透はケーブルを踏まないよう注意しながら廊下を歩き、案内されたリビングへ入った。
リビングは廊下よりもさらに多くの物であふれかえり、食事も落ち着いて取れそうにない。そのほとんどはなにかしらの機材なのだろうが、なにに使うものか、透にはまったく見当もつかなかった。
理人が『量子物理学者』だというのは移動中の車内で聞いていたため、きっとこれが科学者の家なんだろうと、透は自分を納得させようとした。
「悪いがインスタントしかないんだ。あ、お砂糖とミルクは?」
キッチンでコーヒーを用意している理人が、ソファに座っている透に聞いた。
「あ、全然ブラックで大丈夫です」
普段コーヒーは飲まないが、透は反射的にそう答えた。
理人からコーヒーの入ったマグカップを受け取った瞬間、いい香りが透の鼻をくすぐった。カップを口に当て、とりあえず一口だけ流し込む。舌全体に強い苦味が広がった。あのいい香りの液体が、なぜこんなに苦いのだろうと不思議だった。
そして、理人は食卓から椅子を持ってきてソファの前に置き、透と向かい合うように座った。
「あのー……。この前はすみません」
透は理人の顔色をうかがいながら、謝罪した。
「この前?……あぁ、マルシェの。気にしなくていい。葉子もすっかり元気になったからね」
「そう……ですか」
そのことで呼び出されたと思っていた透は拍子抜けした。
「それより。君に聞きたいことがあるんだが」
理人の顔つきが変わり、やや前のめりになる。
「君、ここ最近で記憶に違和感はなかったかい?例えば、『ずっと忘れていたことを突然思い出した』とか」
「え?」
透には質問の意図がわからなかった。しかし、思い当たる節はひとつだけあった。
「えっとー。物忘れや記憶違いが増えたことならありました。一年くらい前の話ですけど」
「一年前ということは、あの大規模落雷のあたりかい?」
「落雷?あぁ、ありましたね。確かその少しあとだったと思います」
透は、胸のあたりがざわざわするのを感じた。
「なるほど。やはり落雷の影響が高いか……」
「あと、それと……。物忘れが増えたあと、急に小三の夏の頃を思い出して……それで…」
「──葉子のことも思い出した」
理人は、すべてを最初から知っているかのように落ち着いていた。
「は、はい…」
透の胸のざわざわがより強まっていく。そして、堪えきれずに質問を投げた。
「あの、さっきから一体なんの話をしてるんですか?」
透の戸惑いを察した理人は、ゆっくりとした口調でこう言った。
「その突然思い出した記憶は、残念だが……君の記憶ではないんだ」
透はソファに座ったまま固まる──頭が真っ白だ。手のひらのマグカップの熱だけが、じんじんと伝わってきていた。
「えっ…?なんですか?」透は思わず聞き返した。
──そのとき。
ガチャっと扉が開く音がして、誰かがリビングに入ってきた。透が反射的に視線を扉へ向けると、そこにはハコが立っていた。
透の背筋が、ぴんと伸びる。
「ハコ!?……ぶ、無事そうでよかった」
ハコは黙って頷いた。神社やマルシェで会ったときとは違い、透を前に慌てる様子はない。扉の前に立ったまま、頭の中で言葉を選んでいるようだった。
「あのね……。神社で会ったときは、知らないふりしたけど……。本当は透のこと、ちゃんと覚えてる。嘘ついてごめんなさい」
ハコは透に向かって頭を下げた。
「え……?覚えてて……くれてたんだ」
透の口角は自然と上がっていた。それはうれしさからでもあるが、なにより、安堵からだった。そして、すぐにいろんな感情が湧き上がってきた。
(忘れられたわけじゃなかったんだ……よかった……。あ、なにか言わないと……)
透がそれ以上なにかを言うより先に、ハコのほうが口を開いた。しかし、その表情は、どこか申し訳なさそうに眉尻が下がっていた。
「でも……透が持っているその記憶。それ、『私の』なの」
透にはハコがなにを言っているのか、よくわからなかった。『私の記憶』?
理人が軽く咳払いをして、こう説明した。
「君が落雷のあとに思い出した、小学三年生の夏の記憶は、すべて葉子のものだ。おそらく落雷の影響で、君の本来の記憶に葉子の記憶が入り込んで、上書きされたんだ」
「あの記憶が俺のじゃない?そんなことって……」
透は信じきれなかった。
理人は透が理解しやすいよう、なるべくゆっくりと説明を続ける。
「去年の落雷は規格外の大きさだった。おそらくそのとき、この町の特殊な地層と反応し合って、あたり一帯で大きな磁場変化が起きたんだろう。
──そして、人間の脳は微弱な電磁波を外に放出している。葉子から放たれた『記憶を載せた電磁波』が磁場を経由し、君に届いた──」
「はぁ……」透は気の抜けた返事をした。
ハコは黙って立ち尽くしている。まるで、廊下に立たされて反省している生徒のようだ。
透は呆然と理人に聞いた。
「なんか難しいことはよくわかりませんが……。俺、大丈夫なんでしょうか?」
「一時的なものだろうね。そのうち元の記憶に戻るだろう」
「そうですか。……戻るんならよかった」
これは嘘だった。話についていけないため、事務的にそつない返事をしただけだった。ただ、これだけは確かだと思えることを確認するべく、透はハコに言葉を投げかけた。
「どっちの記憶にせよ、俺たちが一緒に遊んだ事実は変わらないだろ?」
しかし、ハコはなにも答えてはくれなかった。目線を床に向けたまま黙っている。
透はまたハコに拒絶されたように感じ、さらに胸が苦しくなった。
「実は、話の本題はここからなんだが……。その前に一旦休憩しよう。ちょっと外の空気を吸っておいで」
理人の提案に乗り、透はひとり玄関から外に出た。
あたりはすっかり暗くなっていた。夏のうだるような暑さも、少しはその勢いがおさまっていた。
玄関を出てすぐのところで、透は空を見上げた。綺麗に輝く星々が、バケツに入っていた砂を一気に撒いたように、空一面に広がっている。町のほうからでもこれだけの星空が肉眼で眺められるのは、凪ノ町の特徴のひとつだった。今日は特段に綺麗に星が見える。透は両手をズボンのポケットに突っ込んで、しばらく近所を散歩した。
十分ほど歩くと、街灯も家の明かりもなくなり、あたりは一気に暗くなった。透には、地面と空の境がなくなってしまったようにすら感じられた。まるで、自分の今の気持ちを景色に反映しているかのようだった。引き返そうかとも思ったが、もう少し歩きたい気分だった。
透は星が輝く美しい夜空の元、目的地もなく歩き続けた。宇宙を漂うように。
なんだかんだで透は、三十分近くもあたりをぶらついていた。
「すみません。遅くなりました」
リビングに戻ると、理人もハコもソファに腰掛けていた。理人は二杯目か三杯目かのコーヒーをすすりながら、膝の上のノートパソコンを見つめているところで、ハコは静かに本を読んでいた。理人は視線を透へ向けて聞いた。
「リフレッシュできたかい?」
「ええ。星空が綺麗で気分転換にうってつけでした」
今度は嘘はつかなかった。
そう深刻にならなくても、なんとかなる。透の持ち前の『ストレスの受け流し』がうまく作用してくれた。満天の星空のおかげだ。
「じゃあ、話の続きをしようか」
理人はノートパソコンを閉じ、コーヒーのカップとともに、目の前のテーブルに置いた。ハコも本を閉じてソファの傍に置いた。透は先ほど理人が座っていた、ソファの前の椅子に腰掛けた。
「おさらいだが、去年の落雷の影響で葉子の記憶の一部が、君に上書きされた」
「……はい。つまり移ったってことですか?」
「いや。葉子にも記憶は残ったままだ。移ったというより伝染した。『記憶伝染』とでも呼ぼうか」
「記憶伝染……」
「ところで。記憶が伝染してから、葉子のこと誰かに話したかい?」
「ええ。友達二人に。でも……」
「でも、君『しか』葉子のこと覚えていなかった」
「──!」透は目を丸くした。
「そうです!なんでか俺だけしか覚えてなくて」
「お友達は覚えてないのではない。『知らない』のだよ」
「知らない?どういう意味ですか?」
「いいかい?僕たち親子がこの町に引っ越して来たのは、去年の春だ。葉子の高校入学に合わせてね」
「そうだったんですね。でも、七年前も住んでたわけですよね?」
「いや、僕たちは去年『初めて』この町に来た」
「……?なに言ってるんですか。七年前のあの夏、俺とハコはこの町で一緒に遊んだんですよ。毎日のように」
「確かにそれは実際に起こったことだ。だが、『この世界でのことではない』。別の世界での話なんだ」
「別の世界って……ふざけないでくださいよ!映画じゃあるまいし」
透は自分がからかわれているように感じ、体が少し熱くなった。
理人は一度ソファから腰を浮かして、透の正面にきちんと体を向けるように座り直した。
「これから話すことは、あくまで僕の仮説だし、突拍子もない話に聞こえるだろうが、僕たちを取り巻くすべての、『もっとも根本的』なことだ。しっかり聞いてほしい──」
透はその場で一度、大きく深呼吸して気持ちを整えた。そして静かに頷いた。
「──量子の世界から見ると、別の世界というのはファンタジーではなく実在することになる」
理人がそう話し始めると、ここでハコが口を開いた。
「『並行世界』って言うの」
透はハコのほうへ顔を向ける。彼女は自分も会話に参加するべきだと考えたのか、真剣な表情で話を続けた。
「世界はひとつじゃない。いくつもの世界が同時に存在しているの。私、小さい頃からその並行世界を『観に行く』ことができるの。意識だけがなんだけどね」
透はハコと理人の顔を交互に見た。ふたりとも嘘をついているようには思えなかった。
「じゃあ、映画とかのマルチバースの設定も本当のこと?」
透はつぶやくように言った。口にしてみると、自分でも滑稽に思えた。
理人は透の話を補足した。
「あぁ。マルチバースの概念の中に並行世界も含まれている。ただし、これらの概念を今の科学で証明しきることは難しいがね」
すると、理人はソファに腰掛けたまま、ごそごそとズボンのポケットから財布を取り出した。
そして百円硬貨を一枚だけ抜き取り、右手の親指の爪の上に置いて、ピンと弾いた。上空で舞うコインを透は反射的に目で追う。理人は落ちてきたコインを左手の甲と右手の手のひらでキャッチした。
「表と裏、どっちだと思う?」
「え……裏?」
「なんでそう思った?」
「なんでって…確率は半々だから、適当に言えば当たるかなって」
「そうだね」
理人は手のひらを開いて見せた。硬貨は裏だった。
「これってなにかの実験ですか?」
透はやや呆れ気味に言った。
「君が言ったように確率は五分五分だ。表が出てもおかしくなかったが、今回は裏が出た。──つまり僕らは今、『裏が出たのを観測した世界』にいることになる」
「はぁ…」透は先ほどから、口をぽかんと開いていた。
「当たり前だが、肝心なことだ。では表は?『表を観測した世界』はどこへ行った?」
「どこって…。裏が出たんだから、なくなったということでしょう?」
「量子論ではそうは考えない。なくなったわけではなく、『分岐した』と考える」
「世界が……分岐した?」
「そう。そして、これは日常の至るところで起こっているんだ」
話が熱を帯びてきた理人は、手振りを交え始めた。
「あのとき、あの電車に乗っていれば…。あの人に声をかけていれば…。別の高校を受験していたら…。そういった『if』の世界は決して空想ではなく、その都度世界は分岐し、別の世界として存在することになるんだ」
理人の話の熱量は、ますます勢いを増していく。
「僕たちは、『そのうちのひとつを観測している』に過ぎない。そして葉子の能力は、並行世界の存在を示唆している。これはもはや──」
「あ、透が私のことを話した友達って、正司と日和だよね?」
ハコが、理人の話を遮るように割って入った。
「……うん」
「ふたりは私のことを知らない。透みたいに記憶が伝染していないから。でも、私はふたりのことをよく知ってる。別の世界でも、この世界の私たちとそこまで変わらないの。特に『あの夏の思い出』は、この世界にそっくりの世界を観測したから。──透に伝染した記憶、人も場所も、他の記憶と特に変わりないでしょ?」
透はざっくりと記憶を振り返ってから言った。
「あぁ。正司や日和はなにも変わらないし、学校のやつらもみんな同じだ。俺自身だって──」
透はそこで気づいた。
「……俺…自身…」
「透?」ハコは透を心配そうに見つめる。
「……実は少し前からなにか引っかかるなとは薄々感じてたんだ」
透は正司の『俺の記憶の映像には、お前と日和のふたりしか出てこない』という言葉を思い出していた。
「それがなにか今わかった。『あの夏の思い出』は、記憶の映像に『俺自身が映っている』。つまり第三者視点。なんで今まで気づかなかったんだ……」
自分の記憶ではないことが、ようやく透にも理解できた。
「怖いかい?」理人は透を真っ直ぐ見つめながら聞いた。
「怖いとかはないです。不思議なだけで」
「でも、なんで伝染したのが俺だけなんですか?」
「んー。それに関しては調査が必要だな。葉子が君と接触したときの静電気のような現象も気になる。どちらも僕のほうで調べてみよう」
そして理人は、また姿勢を正して透に言った。
「奇妙なきっかけだが、こうして僕たちが出会えたことには、きっとなにか意味がある。透くん。改めて、葉子と仲良くしてやってくれないか?」
「ええ。それはもちろんです」そう言って透は、ハコのほうへと顔を向けた。
「小三の延長って意味じゃなくて──これからよろしくな!」
「──透。うん。こちらこそ、よろしくね!」
ハコは笑顔で返した。
「……」
「……」
「えっと……。俺、ちょっとまた外の空気吸ってきます!」
急に気恥ずかしくなった透は、早歩きで玄関へ向かって外に出た。
道路まで出てきたところで、ふぅーっと大きく息を吐いた。そしてまた空を見上げた。星空は先ほどよりもぐっと近づいてきているように感じ、星ひとつひとつが粒立って輝いているように見えた。




