表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/24

第21話:九条を凍りつかせた男

第6エピソードの始まりです。これまで「鉄面皮」として灯を導いてきた九条が、初めて見せる「脆さ」。物語の空気が一変する重要な回となります。


その日の事務所は、異様な静寂に包まれていた。

 昼下がりの陽だまりの中、一人の老紳士が音もなく入ってきた。仕立ての良いスーツを纏っているが、その体はひどく痩せ細り、顔色は土気色を呈している。


「……ここか。九条が隠居先に選んだ場所は」


 その掠れた声を聞いた瞬間、背後で書類を捲る音が止まった。

 私が振り返ると、そこには信じられない光景があった。


 九条さんの手から、愛用の万年筆が滑り落ち、床に乾いた音を立てたのだ。

 常に冷静で、どんな難解なケースにも眉一つ動かさなかったあの九条さんが、幽霊でも見たかのように青ざめ、ガタガタと指先を震わせている。


「佐伯……先生……」


「久しぶりだな、九条。……まだ、あの日の『処方箋』を握りしめたまま、立ち止まっているのか?」


 佐伯と呼ばれた男性は、力なく笑った。その瞳には、深い慈愛と、それ以上の「諦め」が宿っている。

 私は二人の間に流れる、凍りつくような緊張感に息を呑んだ。


「九条さん? お知り合い……ですか?」


 私の問いかけに、九条さんは答えない。いや、答えられないようだった。

 彼は荒い呼吸を繰り返し、眼鏡の奥の瞳が泳いでいる。強固な城壁のようだった彼の理性が、目の前の老人一人によって、音を立てて崩壊していくのが分かった。


「真庭さん、と言ったかな。彼に代わって私が説明しよう」

 佐伯さんは、私のデスクの椅子にゆっくりと腰を下ろした。

「私は、かつて彼が勤めていた病院の外科部長だった男だ。そして……彼が最も軽蔑し、そして最も救いたかったはずの『失敗作』だよ」


「失敗作……?」


「ああ。私は末期の膵臓癌だ。余命は、持ってあと数ヶ月だろう。病院を飛び出し、職場を変えて福祉の世界に逃げ込んだ九条なら、この『死』という不条理をどう処理してくれるのかと思ってね。……だが、どうやらまだ、彼は何も克服できていないようだ」


「……出て行ってください」


 絞り出すような九条さんの声。それは怒りではなく、悲鳴に近かった。


「出て行ってくれ! あなたの顔を見る資格は、私にはない……!」


 九条さんは顔を覆い、デスクに崩れ落ちた。

 私は言葉を失った。

 誰よりも「自立」を説き、誰よりも「境界線」を重んじてきた九条さんが、今、最も深い「依存」と「後悔」の沼に沈んでいる。


 私は直感した。

 これから私たちが向き合うのは、利用者の問題ではない。九条さんの魂が、十数年前に置き去りにしてきた「喪失」そのものなのだと。


次話への展開

次は第22話:キューブラーロスのプロセス(5段階の壁)です。

動けなくなった九条に代わり、灯が佐伯さんのケースを担当します。そこで灯は、九条が抱え続けてきた「死の受容」という重すぎるテーマについて学び始めます。



実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)

↓下記の評価ボタンをいただけると嬉しいです。よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ