第21話:九条を凍りつかせた男
第6エピソードの始まりです。これまで「鉄面皮」として灯を導いてきた九条が、初めて見せる「脆さ」。物語の空気が一変する重要な回となります。
その日の事務所は、異様な静寂に包まれていた。
昼下がりの陽だまりの中、一人の老紳士が音もなく入ってきた。仕立ての良いスーツを纏っているが、その体はひどく痩せ細り、顔色は土気色を呈している。
「……ここか。九条が隠居先に選んだ場所は」
その掠れた声を聞いた瞬間、背後で書類を捲る音が止まった。
私が振り返ると、そこには信じられない光景があった。
九条さんの手から、愛用の万年筆が滑り落ち、床に乾いた音を立てたのだ。
常に冷静で、どんな難解なケースにも眉一つ動かさなかったあの九条さんが、幽霊でも見たかのように青ざめ、ガタガタと指先を震わせている。
「佐伯……先生……」
「久しぶりだな、九条。……まだ、あの日の『処方箋』を握りしめたまま、立ち止まっているのか?」
佐伯と呼ばれた男性は、力なく笑った。その瞳には、深い慈愛と、それ以上の「諦め」が宿っている。
私は二人の間に流れる、凍りつくような緊張感に息を呑んだ。
「九条さん? お知り合い……ですか?」
私の問いかけに、九条さんは答えない。いや、答えられないようだった。
彼は荒い呼吸を繰り返し、眼鏡の奥の瞳が泳いでいる。強固な城壁のようだった彼の理性が、目の前の老人一人によって、音を立てて崩壊していくのが分かった。
「真庭さん、と言ったかな。彼に代わって私が説明しよう」
佐伯さんは、私のデスクの椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「私は、かつて彼が勤めていた病院の外科部長だった男だ。そして……彼が最も軽蔑し、そして最も救いたかったはずの『失敗作』だよ」
「失敗作……?」
「ああ。私は末期の膵臓癌だ。余命は、持ってあと数ヶ月だろう。病院を飛び出し、職場を変えて福祉の世界に逃げ込んだ九条なら、この『死』という不条理をどう処理してくれるのかと思ってね。……だが、どうやらまだ、彼は何も克服できていないようだ」
「……出て行ってください」
絞り出すような九条さんの声。それは怒りではなく、悲鳴に近かった。
「出て行ってくれ! あなたの顔を見る資格は、私にはない……!」
九条さんは顔を覆い、デスクに崩れ落ちた。
私は言葉を失った。
誰よりも「自立」を説き、誰よりも「境界線」を重んじてきた九条さんが、今、最も深い「依存」と「後悔」の沼に沈んでいる。
私は直感した。
これから私たちが向き合うのは、利用者の問題ではない。九条さんの魂が、十数年前に置き去りにしてきた「喪失」そのものなのだと。
次話への展開
次は第22話:キューブラーロスのプロセス(5段階の壁)です。
動けなくなった九条に代わり、灯が佐伯さんのケースを担当します。そこで灯は、九条が抱え続けてきた「死の受容」という重すぎるテーマについて学び始めます。
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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