第18話:イネイブリング(支えという毒)
第18話では、九条が「優しさという名の凶器」について解説します。読んだ方も、思わず自分の人間関係を振り返ってしまうような、鋭い心理学的洞察を込めています。
※この話で得られる「知識」
イネイブリング(Enabling): 相手の世話を焼きすぎることが、結果的に本人の回復や自立を妨げてしまう行為。
底つき体験: 人が自らの意思で変わるために必要な、自分自身の問題に直面する経験。
真の自立: 誰かに依存しきることでも、誰にも頼らないことでもなく、自分の責任で人生を選択し、必要な時にだけ「適切な援助」を求められる状態。
「……引き剥がす、なんて。そんなの、親子を引き裂くみたいで……」
翌朝、私は九条さんの前で、まだ戸惑いを隠せずにいた。芳恵さんのあの献身的な姿を、どうしても「悪」だとは思いきれなかったのだ。
「真庭、勘違いするな。私は母親を悪人だとは言っていない。彼女は『善意』で息子を殺しているんだ」
九条さんは、いつものように淡々とホワイトボードに向かった。
「専門用語で『イネイブリング(Enabling)』。日本語では『支え手』と訳されるが、実際には『依存を助長する人』という意味で使われる。例えば、アルコール依存症の夫に代わって、借金を返してやったり、会社に欠勤の電話を入れてやる妻のことだ」
「……助けてあげているんじゃないんですか?」
「短期的にはそう見える。だが、本質的には最悪だ。夫は『妻がなんとかしてくれる』と学習し、自分の問題の責任をとる機会を失う。その結果、病気はさらに悪化する。これがイネイブリングの正体だ」
九条さんはホワイトボードに大きく一文字、『不全』と書いた。
「いいか。ユウキ君は今、自立という壁の前で立ち止まっている。だが、母親が先回りしてその壁を取り壊したり、彼を背負って乗り越えさせたりしている。その結果、彼の『心の筋肉』は衰え、自分で一歩を踏み出す勇気すら退化してしまった」
「……じゃあ、どうすればいいんですか?」
「母親が『何もしない』ように仕向けるんだ。彼が失敗し、困り、自分の不甲斐なさに絶望するチャンスを奪うな。人間が本当に変わろうとするのは、誰かに助けられた時じゃない。『このままではいけない』と、自分の底を打った時だ」
九条さんの言葉は、あまりに冷たく響いた。けれど、それはユウキさんを「一人の自立した大人」として尊重しているからこその言葉だということも、今の私にはわかる。
「愛の対義語は無関心ではない。支配だ。『あなたのためを思って』という言葉を盾に、相手を自分の管理下に置き続けること。それを断ち切るのが、我々相談員の役目だ」
九条さんは、私の手に一冊のパンフレットを握らせた。それは、家族会や依存症支援の資料だった。
「明日、もう一度あの家に行け。そして、母親の『優しさ』を拒絶してこい。それが、彼らを救う唯一の道だ」
私はパンフレットを強く握りしめた。
優しい人たちの世界を壊すのは、とても勇気がいる。けれど、ユウキさんの瞳の奥に一瞬だけ見えた「本当は外に出たい」という光を、私は信じたかった。
次話への展開
次は第19話:突き放すという勇気です。
灯がユウキさんの家を再訪し、ついに芳恵さんの「聖母の仮面」の下にある独占欲と対峙します。
実体験から書きました。少しでも、福祉従事者の役立つ情報になればと思い執筆してます(^^)
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