徒花
寂しがりは無条件の愛を求めて間違った方向に手を伸ばすが、世に蔓延っている愛とやらは大抵それなのだ。娘だから、教え子だから、クラスメイトだから。みんな何となく私を隣に収めてくれるけれども、それは元から椅子が用意されているだけの話である。
考えてみろ。むしろ条件で得られる愛の獲得の方が難しいだろう。選ばれる人とはなんだ。才も努力も環境もそろっていなくてはまず土俵にも立てないのでは? その芳香をもって人を誘い、その花弁をもって人を魅了して咲かなくてはならない。
あぁ、まただ。齢十七の若輩者が愛などと。
「……あほくさ」
お決まりのルートを巡っていた思考を止める。
突然独り言ちた私に驚いたのか、川瀬君がキャンバスを滑っていたペインティングナイフの動きを止めた。
私は発声して音声情報を無理矢理与える以外に頭の働きに干渉する方法を知らない。こういう不具合が詰まった人間を社会不適合と形容するのだろう。
「大丈夫?」
止まった右手をそのままに川瀬君が首をかしげる。
「ごめん、何でもない。……シャツ、汚れてるよ」
「げっ」
雑にまくった袖口に明るい水色の絵の具がついている。椅子の背もたれに放られた学ランもぐしゃぐしゃだ。
こういう大雑把な性格も世話好きの女子たちには可愛げとして解釈される。彼の足元にはクラスの人気者らしく紙袋一杯のお菓子が置かれていた。
「流石だね」
ティッシュで袖を拭っていた川瀬君が私の目線を追う。
「バレンタイン? うちのクラス、全員にあげる奴ばっかだし、こんなもんじゃない?」
絵の具を塗り広げるような拭き方をしてはいけないだろう、と思ったが声をかけることはしない。彼も諦めたらしく、椅子に腰かけながらティッシュをゴミ箱に投げ込もうと狙いを定めている。
水色がゆらゆら揺れている。菫を陽の光に透かしたような水色。きっと私がキャンバスにのせることはない色。
「俺、中学までは野球部だったんだよね。見てて」
川瀬君の手を離れたティッシュが、綺麗に放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれていった。「よっしゃ!」と小さくガッツポーズをした川瀬君が、こちらを向いて自慢げに笑った。
「どうして美術部なんて入ったの」
美空高校は一学年四〇〇人弱いる学校のくせして、美術部の部員数は十六名、しかも三年生は受験勉強との兼ね合いがあって部活には参加できない。その上その部員のほとんどは籍を置いて教室で漫画を描くだけで満足しているから、活動に顔を出すことは滅多にない。現に美術室にいるのは川瀬君と私だけだ。顧問も様子を見に来るくらいしてくれていいのに。
「んー、運動部の熱気っていうか、監視される感じが面倒なんだよね。美術部マジで誰も見に来ないから、サイコー。……存在感薄いの、サイコー!」
サムズアップ。ちょっとうざい。
「ごめんね。私いて」
川瀬君がナイフを握りなおした。
「佐藤さんは、いいんだ」
彼の視線はキャンバスに注がれている。
「俺、佐藤さんの隣にいて息苦しくなったこと、ないよ」
何を言いたいのかがあまり分からず、返答に迷う。
すると突然、ドアががらがらと大きく音を立てて開いた。
「おい、そろそろ片付け始めろよ。あと十五分で下校時刻だぞ」
美術部の顧問の木下先生だ。パーマのかかった茶髪や目の下に濃く刻まれたクマ、よれよれの白衣で既に条件は揃っているのに、無精髭がダウナーな雰囲気を加速させている。爽やかでいろとは言わないが、せめて清潔感くらいは気にするべきではないか。いや、でもそういうところがこの人のいいところなのだが。
「木下ちょっと手伝ってよー」
川瀬君が唇を尖らせて木下先生に媚びる。
「誰が手伝うか馬鹿」
「私もう帰ります」
まとめてあった鞄に肩を通し、木下先生が開け放した扉へ一直線に歩いていく。
「川瀬君、お疲れ様」
「佐藤さんまで俺のこと裏切るの!?」
わざとらしく眉尻を下げた川瀬君を見て不覚にも笑みがこぼれた。
木下先生とすれ違う瞬間だった。
「いつもの駐車場な」
私にしか聞こえない音量で木下先生が呟いた。私は返事をすることなく教室を出た。
「いつもの駐車場」。デートスポットとしても有名な海辺の駐車場だ。利用するのは大体がカップル。暗くなってしまえば車窓から中の様子を伺うのは難しくなる。そういうことに利用しやすいのだ。
高校教諭のくせしてその近所で生徒と、なんて警戒心が全く足りていない気がするが、私からしたら彼の人生がどうなろうといいのだ。いや、破滅するのは私も同じだろうか。
……頭を働かせることを諦めて久しい。
女が身体目当てで迫られることを嫌がるのは、その行為に女性の自我が必要ないからだと、いつぞやの文豪が言っていた。
それが重要なのでは? と私は思う。
閨事には理性は必要ないのだ。人徳も賢さも何もいらない。彼が私を押し倒した時点で私が彼の欲に応えることが決定する。
どれだけ私が愚かでも。
どれだけ社会的価値がなかろうとも。
その瞬間私は他人の期待に応えるのだ。条件付きの肯定を得られるのだ。
その点で彼は私の唯一であり、特別であった。
「本当にピル飲んでるんだろうな」
紙煙草を咥えた木下先生がライターを取り出した。
「……何回確認すれば気が済むんですか」
雑に脱ぎ捨ててぐしゃぐしゃになったシャツに袖を通す。いちいち行いが粗雑なのは私も同じかもしれない。
「若菜が中に出せって言うからだろうが」
この人は二人きりのとき私のことを下の名前で呼ぶ。恋人らしいことをしたがっている素振りもないのに。何がしたいのか分からない。
「うるさいなぁ。……もう私帰ってもいいですか? そろそろ親に怒られる」
腕時計の短針は九を指し示そうとしている。
「箱入り娘は大変だな」
木下先生はとっとと行けと言わんばかりに、手をひらひら揺らした。
「それに興奮しているのはどこの誰ですか」
げらげらと下品な笑い声を遮るようにドアを閉めた。丁寧に一礼をしてから車を離れる。
彼に避妊をしないようねだるようになってからの習慣に従い、帰路につく前にドラッグストアに寄る。入り口から一番遠い棚の、最下段右端。つつがなく会計も済ませようやく駅の方面へ向かった。
駅に着いたら迷わずトイレに駆け込む。
ドラッグストアの紙袋を開け、妊娠検査薬の箱も性急に開封した。
約一週間に一度訪れる、緊張の瞬間。
「……陰性」
いつもそうだ。そこに希望の線が現れることはない。
あぁまただ。矛盾している。
木下先生との関係におもりがつき、彼の足に枷がつくことを望んでいる。
別に彼でなくてもいいのかもしれない。
自分が何を求めているのか分からない。
頭を働かせることを諦めて久しい。




