正しい契約ほど、人を殺す
市場は、朝から騒がしかった。
野菜籠が倒れ、
怒鳴り声が飛び、
人垣ができている。
「……来たわね」
アリアが、視線を細める。
「はい」
俺は、人混みの奥を見た。
倒れている男。
顔色は悪く、呼吸が浅い。
「倉庫の荷下ろし中に倒れたそうです!」
誰かが叫ぶ。
「水は?」
「ない! 井戸は昨日止めたままだ!」
――嫌な予感が、胸を叩いた。
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倉庫の前。
積まれた木箱。
重さは均一。
配置も、契約通り。
「……完璧ですね」
俺は、呟いた。
「え?」
「**だから危険です**」
アリアが、息を呑む。
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契約書を受け取る。
《人員配置:三名以上》
《一箱あたりの重量:規定内》
《休憩:一刻ごと》
違反は、ない。
それでも――
男は倒れた。
俺は、ルーペを取り出した。
「……真契読解」
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視界が、沈む。
条文の奥に、
揃いすぎた条件が浮かび上がる。
(……ああ)
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「この契約、
“働ける人間だけが残る”構造です」
周囲が、静まる。
「体力が落ちた人間は、
自分から抜ける」
「抜けなければ?」
俺は、男を見る。
「……倒れます」
誰かが、
小さく息を呑んだ。
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「違反は?」
倉庫の責任者が、
震える声で聞いた。
「ありません」
即答した。
「**正しい契約です**」
その言葉が、
一番残酷だった。
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アリアが、歯を食いしばる。
「……止められないの?」
俺は、首を振った。
「今から条件を足しても、
この人は戻らない」
倒れた男は、
もう目を開けない。
市場の音が、
遠のいた。
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沈黙の中で、
俺は帳簿を開いた。
「……次を、止めます」
声が、少しだけ低くなった。
《追補条項》
《連続作業時間に上限を設ける》
《体調申告による配置変更を認める》
遅い。
それでも――
必要だった。
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「……それで、
救われる人は?」
アリアが、静かに聞く。
「います」
即答する。
「今日じゃない。
でも、確実に」
それが、
俺の仕事だ。
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夕方。
市場は、片付けられていた。
男の姿は、
もうない。
アリアが、
ぽつりと言う。
「……あなた、
間違ってないわ」
俺は、答えなかった。
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夜。
宿の部屋。
ルーペを机に置く。
「……全部は、救えない」
初めて、
声に出して認めた。
それでも。
「だから、
書く意味がある」
アリアが、
扉の前で立ち止まる。
「……明日も、
来てくれる?」
俺は、顔を上げた。
「はい」
即答だった。
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だがこの時、
俺はまだ知らなかった。
この倉庫契約の是正が、
「余計な前例」として
王都契約院に報告されることを。
そして――
**俺が“危険な書記官”として
正式に記録されたことを。**




