条件を足せば、人は死なない
井戸の周囲には、人が集まっていた。
怒鳴り声はない。
だが、沈黙が重い。
水は、出ている。
それでも――
止まる前提で結ばれた契約ほど、人を不安にさせるものはない。
「……本当に、事故が起きるんですか?」
アリアが、低い声で聞いてきた。
俺は、ルーペをしまい、眼鏡を押し上げる。
「今日の夕方です」
即答だった。
「理由は?」
「水量不足時、供給停止可。
判断者が未定義」
井戸の管理者が、顔色を変えた。
「じゃあ、誰が止めるんだ……?」
「誰でも、です」
俺は、静かに答える。
「責任を負わずに止められる。
だから、止める人間が必ず出る」
恐怖は、事故を呼ぶ。
アリアは、一瞬だけ目を伏せた。
そして、顔を上げる。
「……条件を足す」
確認ではない。
決断だった。
「はい」
俺は頷いた。
「判断者を明記します」
帳簿を開く。
羽根ペンが、紙を擦る音だけが響く。
《追補条項》
《水量不足時の供給停止判断は、井戸管理責任者一名が行う》
《判断は、日没前に限る》
「……日没前?」
アリアが、聞く。
「夜に止めると、人は混乱します」
井戸管理者が、息を呑んだ。
「昼に止めれば、準備ができる」
それだけで、事故は減る。
「署名を」
俺が言うと、
管理者は震える手で署名した。
契約は、静かに更新された。
その瞬間。
「……水、止めます」
管理者が、そう宣言した。
夕方前。
予定より、早い。
「正しい判断です」
俺は、そう言った。
混乱は起きなかった。
人は、容器を持ち、
互いに声を掛け合い、
順番を守った。
水が止まる。
――誰も、怪我をしない。
夜。
アリアと並んで、
井戸のそばに立つ。
「……本当に、
何も起きなかった」
「はい」
「条件を一行足しただけで」
俺は、少しだけ笑った。
「契約は、
人を縛るためじゃない」
一拍。
「守るためにある」
アリアは、俺を見る。
「……あなた、
王都に戻るつもりは?」
「ありません」
即答した。
「追放されましたし」
「そうじゃなくて」
彼女は、少しだけ言葉を探す。
「ここに、
残るつもりは?」
風が、吹く。
辺境の夜は、静かだ。
「……今は」
俺は、正直に答える。
「ここで、
条件を書きたい」
アリアは、
小さく頷いた。
「じゃあ」
一拍。
「明日も、
手伝ってください」
その夜、俺は知らなかった。
この水利契約の是正が、
王都契約院の記録に“異常値”として残ったことを。
そして――
辺境に、
“読める追放者”がいるという噂が、
静かに動き始めたことを。




