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09.知らなくてよかった輪郭

その朝、私はいつもより少し遅れてホームに着いた。

仕事の準備に手間取り、家を出る時間がずれた。

ただそれだけのことなのに、胸の奥が落ち着かない。

――もう、乗っているだろうか。

そんなことを考えてしまう自分に、ため息が出る。


ホームに上がると、人はすでに多かった。

視線を巡らせても、彼の姿はすぐには見つからない。

私は、人の隙間を縫うようにして、いつもの位置へ向かう。

その途中で、ふと視界の端に見覚えのある横顔が入った。

――いた。

少しだけ安堵する。

彼は、いつもよりホームの中央寄りに立っていた。

隣には、見知らぬ女性がいる。


最初は、ただの偶然だと思った。

朝のホームは混雑する。

隣に誰が立っていても、おかしくはない。

それなのに。

二人の距離が、私の知っている「他人同士の距離」より、わずかに近いことに気づいてしまった。

肩が触れているわけではない。

身体が向き合っているわけでもない。

ただ、自然に並んでいる。

最初から、そこが定位置だったかのように。


胸の奥が、ひやりとする。

――たまたま、だよね。

そう思おうとするが、視線は離れない。

女性は、私と同じくらいの年齢に見えた。

落ち着いた色のコート。

髪は肩につくくらいで、きちんと整えられている。

彼女は、スマートフォンを見ながら、時々、彼の方を向く。

何かを話すわけではない。

ただ、確認するような自然な視線。

彼もまた、彼女の方をちらりと見る。

それだけのことなのに、私の中で何かが音を立てて崩れた。

――知りたくなかった。

私は、視線を逸らそうとする。

けれど、どうしても二人の存在が気になってしまう。


電車がホームに滑り込む。

人の流れが動き出す。

彼は、彼女と一緒に同じドアから乗り込んだ。

迷いがない。

私は少し遅れて、その後に続く。

車内に入ると、二人は並んで立った。

距離は、やはり近い。

話しているわけではない。

笑っているわけでもない。

それなのに、そこには「一緒にいる」という空気があった。


私は、二人から少し離れた場所に立つ。

吊り革につかまり、視線を下に落とす。

――これは、確定じゃない。

そう自分に言い聞かせる。

恋人かどうかなんて、分からない。

同僚かもしれない。

兄妹かもしれない。

ただ、たまたま同じ電車に乗る知人かもしれない。

どれも、可能性としては成立する。

それでも、胸の奥に広がる重たい感覚は消えなかった。


電車が揺れるたびに、私は二人の距離を無意識に測ってしまう。

揺れたとき、彼は、ほんの少しだけ、彼女の方へ体を寄せた。

支えるような動き。

その仕草が、あまりにも自然で、だからこそ痛かった。

――私は、見てはいけないものを見ている。

そう思うのに、目を閉じることができない。


これまで、私は想像の中で彼を見てきた。

都合のいい輪郭。

勝手に作った性格。

勝手に想像した生活。

けれど今、彼は私の知らない現実の中で、誰かと並んで立っている。

その現実は、私の想像よりも、ずっと静かで、ずっと残酷だった。


途中の駅で、人が降りる。

二人は、そのまま残る。

私は、降りる駅が近づくにつれ、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。

――ここで降りる。

そう思うと、なぜか少しだけ救われた気がした。

この空間から離れられる。

見なくて済む。


ドアが開き、私は人の流れに乗って降りる。

振り返らない。

振り返れない。

ホームに降り立った瞬間、足元が少しだけふらついた。

私は深く息を吸い、前を向く。

背中に二人の気配が残っているような気がして、それを振り払うように歩き出す。

――やっぱり、知らない方がよかった。

名前も声も、何も知らないままの彼でいれば、ここまで心が乱れることはなかった。


私は、初めてはっきりと自分が「失いかけている」ものを意識していた。

何も始まっていない。

それなのに、確かに何かが終わりに近づいている。

それが、現実なのか、私の想像なのか、まだ分からないまま。


その朝、私は知らなくてよかった輪郭に、ほんの少しだけ触れてしまった。

そして、このまま何もなかった顔で、明日の朝を迎えなければならない事を思うだけで胸が痛んだ。

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