08.想像の中の他人
彼が、いつもより早く電車を降りた朝から、私は少しおかしくなっていた。
翌日も、その次の日も、彼は同じ電車に乗ってきた。
同じ場所に立ち、同じように俯いている。
それなのに、私はもう、前と同じようには見られなかった。
――昨日は、どうして早く降りたんだろう。
考える必要のないことを考えてしまう。
理由なんて、いくらでもある。
たまたま別の用事があっただけ。
出張や外出の予定。
ただの偶然。
それでも、私はその「偶然」を受け入れきれずにいた。
朝のホームに立つと、私は無意識に彼を探す。
彼がいることを確認してから、ようやく呼吸が整う。
その行為が、すでに異常だとわかっているのに、やめられない。
電車に乗り込み、いつもの位置に立つ。
距離は適切だと思う。
けれど、心の距離は、どんどん縮んでいる。
私は、彼の生活を想像してしまう。
朝、どんな家を出て、誰と挨拶を交わし、どんな仕事をしているのか。
スマートフォンを見ているとき、誰とやり取りをしているのか。
その想像は、最初は曖昧だった。
顔のない登場人物。
具体性のない日常。
けれど、日を追うごとに、輪郭を持ち始める。
――きっと、仕事が忙しい人。
――朝は、あまり喋らないタイプ。
――約束には、きちんと時間通り来る。
根拠は何もない。
ただ、彼の立ち姿や表情から、勝手に性格を組み立てているだけ。
それなのに、その想像は妙に現実味を帯びていた。
電車が揺れ、私は吊り革を握り直す。
その拍子に、彼の手元が視界に入る。
指先は綺麗だ。
爪は短く整えられている。
そんな些細なことから、生活の丁寧さを想像してしまう。
――誰かが、ちゃんと見ている人かもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
誰かとは誰だろう。
家族かもしれない。
恋人かもしれない。
あるいは、すでに結婚している可能性だってある。
私は、急に自分の想像が怖くなった。
知らないままでいれば、何も感じずに済んだはずのこと。
知ろうとしていないのに、勝手に想像して、勝手に傷ついている。
――私は、何をしているんだろう。
電車の中で、私は自分を持て余していた。
彼が誰かと暮らしている光景を、頭の中で描いてしまう。
朝、同じキッチンに立つ誰か。
「行ってきます」と言う声。
「気をつけて」と返す声。
それは、あまりにも自然で、あり得そうで、だからこそ胸が苦しくなる。
私は、目を閉じる。
――やめて。
そう思っても、想像は止まらない。
彼の生活の中に、私はいない。
それは、当たり前の事実。
それなのに、その事実を今さら突きつけられたような気分になる。
その朝、彼は、いつも通りの駅で降りた。
人の流れに紛れていく背中を私は見送る。
――あの先に、どんな生活があるんだろう。
考えてはいけないと分かっているのに、考えずにはいられない。
降りる駅までの間、私はずっと彼のいない空間で、彼のことを考えていた。
職場に着いてからも、その想像は、しつこく残る。
会議中、資料を見ながら、ふと彼の横顔が浮かぶ。
昼休み、同僚の何気ない会話の中で、「彼氏」「旦那」という言葉に、過剰に反応してしまう。
――違う。
私は、彼の何でもない。
関係すら存在しない。
そう言い聞かせるたびに、自分の感情の居場所が、どこにもなくなっていく。
その日の帰り道、駅のホームで、私はふと立ち止まった。
朝とは違う、人の少ない時間帯。
同じ場所に立っても、彼はいない。
それが、少しだけ寂しかった。
私は、自分がどこまで踏み込んでしまっているのか、ようやく自覚し始めていた。
想像は事実ではない。
それでも、感情は想像に簡単に引きずられてしまう。
彼の生活を想像するたびに、私は自分がそこに入れないことを何度も確認している。
それは、自分で自分を傷つける行為だった。
――知らない方が、楽だった。
けれど、一度広がってしまった想像は、もう元には戻らない。
彼は、現実の中にいる。
私は、想像の中で勝手に彼を近づけている。
その差が、私を少しずつ消耗させていた。
そして私は、まだ知らない。
この想像が、いずれ現実の一部に触れてしまう日が、来るということを。




