07.距離を測る朝
それから数日、朝は何事もなかったかのように続いた。
彼は毎朝、同じ電車に乗ってくる。
同じ場所に立ち、同じように俯いている。
その「変わらなさ」が、私を安心させ、同時に縛っていた。
私は、意識しすぎないように努めていた。
彼を探さない。
視線を向けない。
距離をこれ以上縮めない。
そう決めているはずなのに、ホームに立つと、私は自然と彼の位置を把握してしまう。
――今日は、あそこ。
自分でも呆れるほど、身体が覚えている。
距離を測るという行為は、近づくためではなく、保つためのもののはずだった。
けれど、その距離を測ろうとするたびに、私は彼を意識してしまう。
電車に乗り込むと、私はいつもより一歩だけ、位置をずらす。
彼との距離が、昨日と同じ位になるように。
ほんの数十センチ。
誰にも気づかれない程度の調整。
それが、私の中では重要な作業になっていた。
その朝、車内はいつもより少し混んでいた。
人の流れに押され、私は思ったよりも彼の近くに立つことになる。
胸がきゅっと締まる。
――近すぎる。
私は、さりげなく身体の向きを変え、距離を取ろうとする。
けれど、人の多さに阻まれ、思うように動けない。
そのとき、私は彼の変化に気づいた。
いつもは俯いている視線が、今日は少しだけ上がっている。
スマートフォンを見ていない。
代わりに、車内をぼんやりと見渡している。
理由は分からない。
ただ、それだけで心がざわつく。
――何かあったのだろうか。
そんな事を考える資格はないのに考えてしまう。
彼の視線がふと、こちらの方を向いたような気がした。
実際に合ったかどうかは、分からない。
私は、反射的に目を伏せた。
見てはいけない。
見れば距離が壊れる。
そう思いながらも、心拍は早くなっている。
彼が、いつもと違う。
それだけで、私は落ち着かなくなる。
――こんなはずじゃなかった。
私は、何も求めないと決めていた。
ただ、同じ空間にいるだけでいい。
それなのに、「いつもと違う」という事実が、こんなにも気になってしまう。
電車が揺れ、私の肩が誰かに軽く触れた。
反射的に体勢を立て直す。
その拍子に、彼のコートの裾が視界に入る。
いつもより、少し違う色。
――新しい?
そんなことまで、気づいてしまう自分に苦笑する。
距離を保つというのは、相手を見ないことではない。
見すぎないこと。
知りすぎないこと。
けれど私は、知らないふりをしながら、少しずつ彼の変化を拾ってしまっている。
その朝、彼は、いつもより早く電車を降りた。
私が降りる駅より、二つ手前。
普段は、同じ駅で降りているはずだった。
彼が人の流れに紛れていくのを、私は視界の端で追ってしまう。
――今日は、違う。
その事実が胸に刺さる。
電車のドアが閉まり、再び動き出す。
車内の空気が、少しだけ変わった気がした。
彼がいないだけで、こんなにも感じ方が違う。
昨日まで、彼が降りる駅を私は意識したことがなかった。
同じだと思い込んでいたから。
――私、どこまで知っているつもりだったんだろう。
彼の生活は、私の知らない所で動いている。
当たり前のことなのに、今日はそれが強く突きつけられた。
私は、吊り革を握り直す。
自分の感情が、少しずつ制御を離れているのを感じていた。
距離を保とうとすればするほど、距離が気になってしまう。
彼がいつもと同じであることを無意識に期待している自分がいる。
――それは、距離を保つという選択と矛盾している。
自分で決めたルールが、少しずつ機能しなくなっている。
降りる駅に着き、私はホームに降りる。
今日は、彼がいない。
それなのに、背中にまだ彼の気配を探してしまう。
私は、深く息を吸う。
――落ち着いて。
これは、ただの通勤だ。
仕事へ行くだけ。
そう言い聞かせながら、歩き出す。
けれど、その日の仕事中、私は何度も朝のことを思い出していた。
彼が、いつもと違ったこと。
早く降りたこと。
理由の分からない変化。
それを考えている自分が、どこか他人事のように感じられた。
――私は、いつの間にか、距離を測る側から、距離に振り回される側になっている。
その事実に気づいたとき、胸の奥に静かな恐れが生まれていた。
距離を保つつもりだった。
壊さないために。
けれど、何も起きていないこの関係は、もう思っているほど安定したものではないのかもしれない。




