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06.いるという事実

翌朝、私は昨日よりもさらに早く目が覚めた。

時計を見ると、まだ目覚ましが鳴るまで三十分以上ある。

布団の中で目を閉じ直そうとしたが、眠りは戻ってこなかった。

胸の奥に落ち着かないものがある。

それは、昨日の朝に感じた不安の残り香のようなものだった。


――今日は、どうだろう。

考えたくないのに考えてしまう。

彼が、あの電車に乗っているかどうか。

私は、昨日の自分を思い出す。

彼がいないだけで、あんなにも心が乱れたこと。

それを、まだ少し恥ずかしく思っていた。

――たまたま来なかっただけ。

そう言い聞かせながら、私は支度をする。

鏡の前で髪を整えながら、無意識に昨日よりも丁寧になっている自分に気づき、少しだけ眉をひそめた。

意識しすぎだ。

そう思っても、動きは止まらない。


家を出ると、空気は昨日よりも澄んでいた。

朝の冷たさが、少しだけ強くなっている。

駅へ向かう足取りは、昨日よりも早い。

早く着いてしまえば、それだけ長く不安と向き合うことになると分かっているのに。

ホームに上がる階段を一段一段上りながら、私は無意識に呼吸を整えていた。

そして、ホームに出る。

視線を上げた瞬間、私は思わず息を止めた。


――いた。

昨日と同じ場所。

昨日と同じように、少し俯いた姿勢。

彼は何事もなかったかのように、そこに立っていた。

胸の奥に熱が広がる。

ほっとする気持ちが、はっきりと形を持って押し寄せてくる。

同時に強い自己嫌悪も湧き上がった。


――何を安心しているんだろう。

彼は、私の何でもない。

戻ってきたも何も、最初からいなくなってはいなかった。

たった一日見なかっただけで、勝手に不安になって、勝手に安堵している。

そのことが、少し怖かった。

私は、彼を見ないようにして、ホームの別の場所に立つ。

昨日までの自分なら、自然に取っていた距離。

けれど、今日はそれが少しだけ遠く感じられた。

電車が来るまでの時間が、妙に長く感じる。

視界の端に彼の存在を感じながら、私は自分の感情を落ち着かせようとしていた。


電車が到着し、人が動き出す。

私は、人の流れに合わせて乗り込む。

車内に入ると、彼との距離は、昨日よりも少し近かった。

偶然だ。

そう思おうとしたが、身体は正直に反応してしまう。

心拍が少し早くなる。

私は、視線を落とし、吊り革を握る。

目を閉じるほどではないが、彼を見る勇気もなかった。


――いる。

それだけで、こんなにも心が落ち着く。

そして、それが昨日よりもはっきりとした事実として胸に残る。

電車が動き出し、揺れが伝わる。

彼の存在は、視界に入らなくても、確かにそこにある。

私は昨日の朝を思い出していた。

彼がいなかった車内の妙な空虚さ。

視線の置き場がなく、目を閉じても落ち着かなかったこと。


――私は、もう知ってしまった。

彼がいない朝を。

そして、彼がいる朝の安堵を。

それは、知らなければ良かった感情だった。

電車が揺れた拍子に、私の身体が少し傾く。

反射的に体勢を立て直す。

その瞬間、彼の方からも、わずかな動きがあった。

目が合ったわけではない。

触れたわけでもない。

ただ、同じ揺れを同時に受け止めた。

それだけの事なのに、胸の奥がきゅっと締まる。


――近い。

距離そのものは、いつもと変わらない。

けれど、昨日を挟んだことで、その距離の意味が変わってしまった。

「いる」という事実が重みを持ってしまった。

私は、ゆっくりと目を閉じる。

昨日と同じように、視線を断つためではない。

安心してしまう自分を落ち着かせるため。


目を閉じると、電車の音と人の気配だけが残る。

その中に彼の存在も確かに含まれている。

――明日も、いるとは限らない。

その考えが、ふと浮かぶ。

昨日までは考えなかったこと。

考えないようにしていたこと。

私は、初めてはっきりと「終わり」を意識してしまった。


降りる駅が近づき、私は目を開ける。

彼の姿が視界の端に入る。

何も変わらない横顔。

何も知らない顔。

その無関心さが、今日は少しだけ痛かった。

ホームに降り、人の流れに身を任せる。

私は、昨日よりも一度だけ強く前を向いた。

振り返らない。

それでも、背中に彼の存在を感じてしまう。

――いるという事実は、こんなにも人を弱くする。


職場に着いてからも、その感覚は消えなかった。

仕事に集中しながらも、心のどこかで朝の光景が繰り返されている。

彼がいたこと。

それに、安心してしまったこと。

私は、ようやく理解し始めていた。

名前をつけないと決めた感情は、それでも確実に形を持ち始めている。

「いる」という事実が、こんなにも大きな意味を持つようになるなんて、最初の頃の私は、想像もしていなかった。

そして同時に、「いなくなる日」が、いつか必ず来ることも。

その朝、彼がいたという事実は、私に安心と新しい不安を同時に残していった。

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