05.来ないかもしれない朝
その朝、私はいつもより早く目が覚めた。
目覚ましが鳴る前に目を開けるのは、久しぶりだった。
外はまだ薄暗く、カーテンの隙間から入る光も弱い。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に落ち着かないものがあった。
布団の中で、私はしばらく動かなかった。
眠気はない。
でも、起き上がる気にもなれない。
頭の中に浮かぶのは、今日の仕事のことではなく、あの人が、いつもの電車に乗っているかどうか、ということだった。
――来ないかもしれない。
そんな考えが、ふとよぎる。
それは、これまで一度も意識したことのない可能性だった。
毎朝、いるのが当たり前。
それが、少しずつ当たり前ではなくなっている。
私は慌てて、その考えを打ち消す。
根拠は何もない。
ただの思い込みだ。
支度を終え、家を出る。
空気は少し冷たく、季節が変わり始めていることを感じさせた。
駅までの道を歩きながら、私は無意識に歩幅を調整していた。
急ぎすぎず、遅すぎず。
いつもと同じ時間にホームに着くために。
それが、彼に会うためだと気づくと胸がざわつく。
――違う。
これは習慣だ。
通勤のリズム。
そう自分に言い聞かせながら、ホームに上がる。
視線を上げた瞬間、私は息を止めた。
――いない。
いつも彼が立っているあたりに、彼の姿が見当たらない。
一瞬、視界を見渡すが、見慣れた背中はない。
胸の奥が、ひやりとする。
たったそれだけで、こんなにも心が反応することに、私は驚いていた。
まだ、電車が来るまで時間はある。
遅れて来ることだってある。
私は、ホームの端に立ち、さりげなく人の流れを目で追う。
自分でも驚くほど、必死だった。
電車の到着を知らせる音が鳴る。
それでも、彼は現れない。
私は、理由の分からない不安に包まれる。
――今日は、休みなのかもしれない。
――出張かもしれない。
――ただ、少し遅れているだけ。
頭の中で、いくつも理由を並べる。
どれも確かめようがない。
電車がホームに滑り込む。
私は、無意識に彼が乗り込んでくるのではないかと期待していた。
けれど、ドアが閉まるまで彼の姿はなかった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
――こんなふうに感じる資格なんて、私にはない。
そう思うと、少しだけ自分が滑稽に思えた。
名前も知らない。
話したこともない。
ただ、同じ電車に乗っていただけ。
それなのに、彼がいないだけで、朝の空気が変わってしまう。
車内に入り、いつもの位置に立つ。
空間が妙に広く感じられた。
視線を置く場所がない。
目を閉じても、落ち着かない。
揺れる電車の中で、私は初めて、はっきりと自覚してしまった。
――私は、あの人を待っている。
それは、恋ではないはずだった。
名前をつけないと決めた感情。
それでも、待ってしまうという行為が、すべてを語っていた。
途中の駅で、誰かが降りるたび、私は一瞬だけ期待してしまう。
次の駅では、来るかもしれない。
ここで乗ってくるかもしれない。
けれど、何度駅を過ぎても、彼は現れない。
私は、少しずつ覚悟をし始めていた。
――この朝が、続かない日もある。
当たり前だったものは、いつか終わる。
それは、何の前触れもなく、突然に。
降りる駅が近づき、私は鞄を持ち直す。
無意識に後ろを振り返りそうになる自分を、必死に止める。
振り返っても、彼はいない。
それは分かっている。
ホームに降り立つと、足元が少しだけふらついた。
私は深く息を吸い、何事もなかったように歩き出す。
仕事は、いつも通りに始まった。
同僚と話し、パソコンに向かい、会議に出る。
それなのに、頭の片隅には、朝のことが引っかかっている。
――明日は、来るだろうか。
そんなことを考えている自分に苦笑してしまう。
こんな感情を持つくらいなら、最初から意識しなければ良かった。
名前をつけなければ、何も感じずに済むと思っていた。
でも、感情は名前をつけなくても、ちゃんと育ってしまう。
その日の帰り道、私は朝よりも少しだけ空を見上げた。
夕焼けは、きれいだった。
それが、なぜか胸にしみた。
――明日の朝、私はまた同じ電車に乗る。
彼がいるかどうか、分からないまま。
それでも、確かめずにはいられない。
来ないかもしれない朝を、私は、もう一度迎える覚悟をしていた。




