表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/12

05.来ないかもしれない朝

その朝、私はいつもより早く目が覚めた。

目覚ましが鳴る前に目を開けるのは、久しぶりだった。

外はまだ薄暗く、カーテンの隙間から入る光も弱い。

理由は分からない。

ただ、胸の奥に落ち着かないものがあった。


布団の中で、私はしばらく動かなかった。

眠気はない。

でも、起き上がる気にもなれない。

頭の中に浮かぶのは、今日の仕事のことではなく、あの人が、いつもの電車に乗っているかどうか、ということだった。

――来ないかもしれない。

そんな考えが、ふとよぎる。

それは、これまで一度も意識したことのない可能性だった。

毎朝、いるのが当たり前。

それが、少しずつ当たり前ではなくなっている。

私は慌てて、その考えを打ち消す。

根拠は何もない。

ただの思い込みだ。


支度を終え、家を出る。

空気は少し冷たく、季節が変わり始めていることを感じさせた。

駅までの道を歩きながら、私は無意識に歩幅を調整していた。

急ぎすぎず、遅すぎず。

いつもと同じ時間にホームに着くために。

それが、彼に会うためだと気づくと胸がざわつく。

――違う。

これは習慣だ。

通勤のリズム。

そう自分に言い聞かせながら、ホームに上がる。

視線を上げた瞬間、私は息を止めた。

――いない。

いつも彼が立っているあたりに、彼の姿が見当たらない。

一瞬、視界を見渡すが、見慣れた背中はない。

胸の奥が、ひやりとする。

たったそれだけで、こんなにも心が反応することに、私は驚いていた。

まだ、電車が来るまで時間はある。

遅れて来ることだってある。

私は、ホームの端に立ち、さりげなく人の流れを目で追う。

自分でも驚くほど、必死だった。


電車の到着を知らせる音が鳴る。

それでも、彼は現れない。

私は、理由の分からない不安に包まれる。

――今日は、休みなのかもしれない。

――出張かもしれない。

――ただ、少し遅れているだけ。

頭の中で、いくつも理由を並べる。

どれも確かめようがない。


電車がホームに滑り込む。

私は、無意識に彼が乗り込んでくるのではないかと期待していた。

けれど、ドアが閉まるまで彼の姿はなかった。

胸の奥が、ぎゅっと縮む。

――こんなふうに感じる資格なんて、私にはない。

そう思うと、少しだけ自分が滑稽に思えた。


名前も知らない。

話したこともない。

ただ、同じ電車に乗っていただけ。

それなのに、彼がいないだけで、朝の空気が変わってしまう。

車内に入り、いつもの位置に立つ。

空間が妙に広く感じられた。

視線を置く場所がない。

目を閉じても、落ち着かない。

揺れる電車の中で、私は初めて、はっきりと自覚してしまった。


――私は、あの人を待っている。

それは、恋ではないはずだった。

名前をつけないと決めた感情。

それでも、待ってしまうという行為が、すべてを語っていた。

途中の駅で、誰かが降りるたび、私は一瞬だけ期待してしまう。

次の駅では、来るかもしれない。

ここで乗ってくるかもしれない。

けれど、何度駅を過ぎても、彼は現れない。

私は、少しずつ覚悟をし始めていた。

――この朝が、続かない日もある。


当たり前だったものは、いつか終わる。

それは、何の前触れもなく、突然に。


降りる駅が近づき、私は鞄を持ち直す。

無意識に後ろを振り返りそうになる自分を、必死に止める。

振り返っても、彼はいない。

それは分かっている。

ホームに降り立つと、足元が少しだけふらついた。

私は深く息を吸い、何事もなかったように歩き出す。

仕事は、いつも通りに始まった。

同僚と話し、パソコンに向かい、会議に出る。

それなのに、頭の片隅には、朝のことが引っかかっている。

――明日は、来るだろうか。

そんなことを考えている自分に苦笑してしまう。

こんな感情を持つくらいなら、最初から意識しなければ良かった。

名前をつけなければ、何も感じずに済むと思っていた。

でも、感情は名前をつけなくても、ちゃんと育ってしまう。


その日の帰り道、私は朝よりも少しだけ空を見上げた。

夕焼けは、きれいだった。

それが、なぜか胸にしみた。

――明日の朝、私はまた同じ電車に乗る。

彼がいるかどうか、分からないまま。

それでも、確かめずにはいられない。

来ないかもしれない朝を、私は、もう一度迎える覚悟をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ