表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

04.名前をつけないままで

私は、この感情に名前をつけないことにした。

それは、ある朝、鏡の前で口紅を引きながら、ふと思った事だった。

いつもと同じ色。いつもと同じ手順。

それなのに、ほんのわずか心が浮いている。


理由は分かっている。

今朝も、あの人に会えるから。

そう気づいた瞬間、私は自分の中で小さくブレーキをかけた。

――違う。

これは恋じゃない。

そう言い聞かせる必要があるほど、私はその感情を意識していた。

通勤電車は、私の日常の一部だ。

仕事へ向かうための移動手段であって、感情を揺らす場所ではない。

少なくとも、そうあるべきだ。


ホームに立ち、いつもの位置に並ぶ。

視線を巡らせる前に、私は無意識に彼の存在を探している。

――いた。

それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。

深呼吸をするような感覚。

けれど私は、彼を「特別」と呼ばない。

特別にしてしまえば、きっと今の距離は保てなくなる。


電車に乗り込む。

今日は比較的空いていて、彼との距離は、いつもより遠い。

私はその距離に少しだけ安心する。

近すぎないこと。

遠すぎないこと。

この曖昧な距離が、私たちの関係を成立させている。

私は目を閉じないまま、吊り革につかまる。

視線は窓の外。

彼の方は見ない。

見ないと決めたから。


彼の姿を視界に入れてしまえば、考えてしまう。

今日の表情。

疲れているのか、眠そうなのか。

誰かと待ち合わせをしているのか。

知りたくなる気持ちが生まれる。

それが一番危険だ。

名前を知りたいと思った瞬間から、人は踏み込んでしまう。

踏み込めば戻れなくなる。


私は、自分の生活を壊したくなかった。

仕事は忙しいが、充実している。

友人もいる。

休日には、好きなカフェに行き、映画を観る。

そこに、通勤電車の中だけの感情が入り込む余地はない。

入れてはいけない。

それでも、電車が揺れた拍子に、ふと視線を上げてしまう。

そして、一瞬だけ彼の横顔が目に入る。


彼は少し俯いて、スマートフォンを見ていた。

眉間に、かすかな皺。

集中している顔。

その横顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。

――だから、だめ。

私はすぐに視線を逸らす。

自分を叱るように唇を軽く噛んだ。


これは、ただの習慣だ。

毎朝見かけるから、気になるだけ。

そうやって言葉にすると、少しだけ落ち着く。

電車の中で、私は何度も自分に言い聞かせている。

これは恋じゃない。

ただの日常の一部。


ある駅で、彼の近くにいた人が降り、距離が少し縮まった。

私は反射的に体の向きを変える。

近づきすぎないための小さな調整。

彼は何も言わない。

気づいているのか、いないのかも分からない。

その無関心さが、今はありがたい。


もし彼が、こちらを意識していると分かったら。

もし、声をかけられたら。

私は、きっと困ってしまう。

嬉しいのか、怖いのか、分からないまま答えを探すことになる。

そして、その答えが出る前に、この関係は壊れてしまう。

だから私は、名前をつけない。


これは恋じゃない。

これは憧れでもない。

ましてや、始まりではない。

ただ、同じ時間に同じ電車に乗っているだけの二人。

その事実だけを大切にする。


降りる駅が近づき、私は少しだけ姿勢を正す。

電車が減速し、ドアが開く。

人の流れに乗りながら、私は一度も彼を振り返らない。

振り返らないことも、私なりの選択だった。

ホームに降り立ち、歩き出す。

背中に彼の気配を感じるような気がして、ほんの一瞬だけ足が止まりそうになる。

でも、止まらない。

振り返らない。

追いかけない。

期待しない。

そう決めたはずなのに。


階段を上りながら、私は心の中で小さく呟いていた。

――明日も、同じ電車に乗れますように。

名前をつけないまま。

何も始めないまま。

終わらせる理由も作らないまま。


それが、今の私にとって、一番安全で、一番残酷な選択だと、まだこの時は気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ