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03.目を閉じる理由

最近、私は朝の電車で目を閉じることが増えた。

眠いからという理由も確かにある。

仕事が立て込み、帰りが遅くなる日が続いていた。

家に帰っても、頭の中は明日の予定で埋まっている。

布団に入ってから眠るまでの時間が、以前より長くなった気がする。

けれど、それだけではない事を私は薄々感じていた。

目を閉じると、視線を交わさずに済む。

視線を交わさなければ、何も起こらない。

それは逃げなのか、それとも、自分なりの距離の保ち方なのか。


朝のホームに立ち、電車を待つ間、私は無意識に彼を探している。

見つけると、心の中で小さく息を吐く。

――いる。

それだけで、朝が整う。

電車に乗り込み、いつもの位置に立つ。

彼も、少し離れた場所にいる。

混雑の具合によって距離は微妙に変わるが、視界の端に入る位置関係は変わらない。

彼の視線を私は感じている。

それは決して、露骨なものではない。

じっと見つめるわけでも、追いかけるわけでもない。

ただ、ふとした拍子に、こちらを意識している気配がある。


気のせいかもしれない。

自意識過剰かもしれない。

それでも、あの視線がある朝は、身体が少しだけ緊張する。

――見られている。

そう意識した瞬間、私は目を閉じる。

瞼の裏で、電車の揺れを感じる。

レールの音、人の気配、空調の微かな風。

視界を遮ると、世界は音と振動だけになる。

目を閉じている間、私は彼の存在を意識しないようにしている。

意識しないように意識している。

それが、少し滑稽だと自分でも思う。


ある朝、私はいつもより長く目を閉じていた。

前の晩にあまり眠れなかったせいもあるが、目を開けるのが、なぜか怖かった。

目を開けた瞬間、視線が合ってしまうのではないか。

そう思うと、瞼が重く感じられた。

やがて、電車が揺れ、誰かが乗り降りする気配がする。

駅名のアナウンスが流れ、私はそろそろ降りる準備をしなければならない。

そのとき、微かに視線を感じた。


目を閉じていても分かる。

見られているという感覚。

私は、なぜかその視線を拒む気になれなかった。

嫌ではない。

怖くもない。

ただ、少しだけ胸の奥が熱くなる。

――どうして、こんな風に感じるのだろう。

目を閉じたまま、私は考える。

答えは出ない。


彼がどんな人なのか、私は何も知らない。

優しいのか、無愛想なのか。

独身なのか、家庭があるのか。

何一つ確かなことはない。

それなのに、私は彼の視線に意味を見出してしまっている。


目を閉じている間、私は自分の中の境界線を確かめていた。

声をかけるつもりはない。

名前を知りたいとも思っていない。

この距離以上に近づく気はない。

それでも、完全に無関心でいたくもない。

その矛盾した感情が、目を閉じるという行為に表れているのだと思った。


ある朝、電車が急に混み合い、私の立っている位置が少しずれた。

彼との距離が、いつもより近くなる。

私は思わず目を閉じた。

すぐ近くに彼の気配を感じる。

スーツの布が擦れる音。

体温。

触れてはいない。

触れるほど近くもない。

それでも、距離が縮まったことを身体がはっきりと理解していた。


その朝、私は降りる駅に着くまで、一度も目を開けなかった。

ホームに降り立ち、歩き出してから、ようやく視線を上げる。

彼の姿は、もう前方の人波に紛れている。

少しだけ残念だと思った。

同時に、ほっともした。


見ない事で、守れるものがある。

見ない事で、壊れない距離がある。

私は、その事を身体で覚え始めていた。

目を閉じる理由は、眠気だけではない。

それは、彼との距離をこれ以上、近づけないため。

そして同時に、この関係を失わないため。


朝の電車で、私は今日も目を閉じる。

視線を交わさない選択をしながら、それでも確かに彼の存在を感じている。

この感情に、まだ名前をつけるつもりはない。

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