19.最後だと決めた朝
あの朝から、三日が過ぎた。
たった三日。
それだけなのに、胸の奥に残った違和感は簡単には消えてくれなかった。
私は、また目覚ましが鳴る前に目を覚ましていた。
天井を見つめながら考える。
――あれは、何だったのだろう。
偶然。
それとも、必然。
答えの出ない問いを、何度も頭の中で転がす。
あの朝、彼の視線を見た瞬間、胸が確かに熱くなった。
忘れたと思っていた感情が、実は眠っていただけだと、
思い知らされた。
それが、一番苦しかった。
身支度をしながら、私はある決断をする。
――最後にしよう。
もう一度、あの車両に乗る。
彼がいなくてもいい。
いてもいい。
どちらでも終わりにする。
中途半端なまま引きずり続けるより、自分で区切りをつけたかった。
一方で、彼もまた似たような朝を迎えていた。
あの再会から、ずっと胸の奥が、ざわついている。
声をかけなかったことを後悔している。
同時に、かけなかった自分を責めてもいる。
――次があるなら。
そう思う自分と、もう終わらせるべきだと言い聞かせる自分。
その二つが、せめぎ合っていた。
彼も決める。
――最後にする。
彼女がいなければ、それでいい。
いてしまったら、その時は……
その時に考えよう。
曖昧な決意を抱えたまま、家を出る。
駅へ向かう道は、いつもと変わらない。
それが、少し腹立たしかった。
世界は、個人の感情など、お構いなしに回る。
ホームに立つ。
私は意識して、あの位置へ向かった。
久しぶりの感覚に胸が少し速くなる。
電車が来てドアが開く。
乗り込む。
――いる。
彼は、既にそこにいた。
同じ位置。
同じ姿勢。
まるで、時間だけが止まっていたかのように。
視線が合う。
逸らさなかった。
逸らせなかった。
けれど、どちらも、すぐに言葉を発しない。
この沈黙が、今までの全てを象徴しているようだった。
電車が動き出す。
揺れが現実を押しつける。
彼は、深く息を吸った。
今度こそ逃げないと決めていた。
「……あの」
小さな声。
周囲の雑音にかき消されそうなほどの弱い音。
私は驚いて彼を見る。
目が合う。
彼は、少しだけ困ったように笑った。
「ずっと、同じ電車でしたよね」
たった、それだけ。
それだけなのに、胸の奥が一気に熱くなる。
「……はい」
声が思ったよりも、震えなかったことに、少し安心する。
会話は、それ以上続かない。
続ける言葉が、見つからない。
でも、沈黙は、もう重くなかった。
存在を認め合えた。
それだけで、十分だと思ってしまう。
次の駅が近づく。
私が降りる駅。
終わりの時間が迫ってくる。
彼は何か言おうとして、また言葉を探す。
「……あの」
同じ出だし。
けれど、今度は続かなかった。
私は、彼の迷いを理解していた。
期待してしまう自分を抑える。
「……ありがとうございました」
自分でも、意外な言葉が口をついた。
彼は一瞬、驚いた顔をする。
「朝、楽しかったので」
嘘ではなかった。
彼の存在が、確かに私の朝を彩っていた。
それを伝えたかった。
電車が停まる。
ドアが開く。
人が流れ出す。
私は一歩、外へ出る。
振り返る。
彼も、こちらを見ている。
それ以上、言葉はない。
でも、視線だけで十分だった。
私は、小さく頭を下げる。
彼も、同じように会釈する。
それが別れだった。
電車が動き出す。
私は、ホームに立ち尽くしながら思う。
――これで、よかった。
胸は少し痛む。
けれど、後悔は思ったより少なかった。
彼も電車の中で、静かに息を吐く。
話せた。
それだけで、救われた気がした。
それ以上を望まなかったことが、正解だったのかは分からない。
でも、この朝を最後にする。
そう決めた。
始まらなかった恋は、静かに幕を下ろす。
音もなく、誰にも気づかれずに。
それでも、確かにそこにあった。




