18.同じ朝に戻ってしまった日
それは、意図した出来事ではなかった。
ただ、その朝は少しだけ寝坊をした。
目覚ましを止めた記憶が曖昧で、気づいた時には、いつもより十分遅い時間だった。
慌てて身支度を整え、家を飛び出す。
考える余裕はなかった。
駅に着いたとき、ホームにはすでに人が溢れていて、いつも乗っている車両の位置まで歩く余裕もなかった。
――仕方ない。
私は、目の前に止まった車両に、そのまま乗り込んだ。
ドアが閉まる直前、胸がわずかに跳ねる。
懐かしい配置。
懐かしい匂い。
懐かしい距離感。
気づいた瞬間には、もう遅かった。
彼は、そこにいた。
壁際。
以前と変わらない位置。
少しだけ、姿勢を崩して立つ姿。
時間が、一瞬だけ巻き戻ったように感じた。
彼もまた、こちらに気づいた。
視線が、確かに重なる。
逃げ場はなかった。
互いに視線を逸らすことができず、それでも何も言えない。
電車が動き出す。
その揺れが、現実へと引き戻す。
――今さら、どうすればいい?
私は心の中で自分に問いかける。
彼も同じことを考えていた。
再会を望んでいたわけではない。
けれど、完全に避けたいとも思っていなかった。
その曖昧さが、今、この距離を生んでいる。
周囲の乗客は、いつも通り。
誰も二人の間に流れる空気に気づいていない。
それが、かえって残酷だった。
次の駅まで、たった数分。
けれど、その時間が異様に長く感じられる。
彼は、何度か口を開きかけた。
しかし、声にならない。
――今、声をかけて何になる?
そう思う一方で、このまま何も言わなければ、本当に全てが終わってしまう気もした。
彼女の表情は、以前よりも落ち着いて見えた。
それが、彼を少しだけ怯えさせる。
自分がいなくても、彼女の生活は問題なく続いている。
その事実を突きつけられているようだった。
一方、私は彼の存在を過剰に意識していた。
視界に入れないようにしても、気配が否応なく伝わってくる。
同じ空気を吸っている。
同じ揺れを感じている。
それだけで、胸の奥がざわついた。
――話しかけたら、どうなる?
想像は、すぐに不安へと変わる。
言葉にした瞬間、この関係は形を持ってしまう。
形を持てば、壊れる可能性も生まれる。
それが怖かった。
電車が次の駅に近づく。
彼女が降りる駅まで、あと一つ。
彼は、覚悟を決めるように小さく息を吸った。
――今しかない。
それでも、声は震えそうになる。
彼女が、こちらを見る。
その目に驚きと戸惑いと、わずかな期待が混ざっているのを彼は見逃さなかった。
だが、その直後。
車内アナウンスが流れる。
無機質な声が、現実を遮断する。
言葉は、また飲み込まれた。
電車が停車する。
人の流れが、一気に動く。
彼女は一歩、前に出る。
降りる準備だ。
彼は焦る。
ここで何も言わなければ、次は、もうないかもしれない。
それでも、彼女の背中に声をかける勇気は、最後まで出なかった。
ドアが開く。
人の波に押されて、彼女は一瞬だけ振り返る。
ほんの一瞬。
視線が再び交わる。
その中に言葉にならなかった全てが、詰まっていた。
――さよなら。
そう言ったわけでも、言われたわけでもない。
それでも、確かに終わりの気配があった。
彼女は、ホームへ降りる。
ドアが閉まる。
電車が再び動き出す。
彼は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。
一方、私はホームに立ち、電車を見送る。
胸の奥が、じんわりと痛む。
――やっぱり、だめだった。
期待してしまった自分を少し責める。
それでも、会えただけで良かったと思う自分も確かにいた。
始まらなかった恋は、終わらせる言葉も持たない。
だからこそ、こんなふうに何度でも胸を締めつける。
電車は遠ざかっていく。
二人は、また別々の朝へと戻っていった。
次に会うかどうかは、分からない。
けれど、この朝は確かに二人の中に深く刻まれた。
忘れられない朝として。




