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17.会わないことに慣れるまで

それから何日かが過ぎた。

朝、目覚ましが鳴る。

身支度を整え、家を出る。

駅へ向かい、電車に乗る。

流れは、何一つ変わっていない。

それなのに、どこかが決定的に違っていた。

私は、もう彼を探さなくなっていた。

正確に言えば、探さないようにしていた。

同じ路線。

同じ時間帯。

けれど、乗る車両は違う。

視線を巡らせる理由も失われた。


電車の中で、足元を見る。

広告を見る。

スマートフォンを見る。

それだけで、通勤時間は終わる。

――楽だ。

そう思った。

期待もしない。

落胆もしない。

感情を揺らさずに、一日を始められる。

それが、大人として正しい選択のように思えた。


職場では、いつも通り仕事をこなす。

同僚と話し、書類をまとめ、会議に出る。

誰も私の中で何かが終わったことなど、気づいていない。

終わったと言えるほど、形のあるものではなかったから。

けれど、ふとした瞬間に、胸の奥が少しだけ痛む。

コピー機の前で。

エレベーターの中で。

帰り道の信号待ちで。

理由のない痛み。

それが、彼の不在だと気づくまでに少し時間がかかった。


一方で、彼もまた似たような日々を過ごしていた。

同じ電車に乗り、同じ駅で降りる。

けれど、もう彼女はいない。

最初の数日は、無意識に後方を見てしまった。

人の隙間。

ドア付近。

壁際。

どこにも、あの姿はない。

――当たり前だ。

自分に言い聞かせる。

彼女は、自分の生活を変えただけ。

そこに、特別な意味はない。

そう思おうとすれば、思える。

けれど、慣れるには少し時間が必要だった。


彼は、通勤中に考え事をするようになった。

以前は、ぼんやりと過ごしていた時間。

今は、空白を埋めるように思考が動く。

――もし、あの日。

もし、声をかけていたら。

その「もし」を何度も、何度も繰り返す。

答えは、変わらない。

結果だけが、現実として残る。


数週間が経つ頃には、お互い「会わない朝」に少しずつ慣れていった。

慣れとは、忘れることではない。

痛みを日常に溶かすことだ。

私は朝の電車で、以前ほど胸を揺らされなくなった。

彼の姿を思い浮かべる回数も減った。

それは、前に進んでいる証拠だと思いたかった。

でも、完全に消えたわけではない。

ふと、似た背中を見ると心臓が跳ねる。

違うと分かって、少しがっかりする。

それを自分でも滑稽だと思う。


一方で、彼もまた同じような瞬間を経験していた。

駅のホームで、似た雰囲気の女性を見かける。

一瞬、期待する。

そして、違うと分かる。

それを誰にも言えずに飲み込む。

――これでいい。

彼も、そう思おうとしていた。


始まらなかった関係は、終わらせる必要もない。

ただ、存在しなかったことにすればいい。

それが、一番傷が浅い。

それでも、ある朝。

彼は、ふと気づいてしまった。

彼女が立っていた場所を、まだ避けている自分に。

視線を向けない。

近づかない。

まるで、そこに何かが残っているかのように。


一方、私は、ある朝、以前の車両の前に立っていた。

理由は分からない。

ただ、足が自然とそこへ向かった。

電車が来る。

私は、一瞬迷う。

――今さら。

そう思いながらも、そのまま乗り込んでしまった。

車内は見慣れた配置。

けれど、彼はいない。

分かっていたはずなのに、

胸の奥が少しだけ痛んだ。

――慣れたと思ってたのに。


私は心の中で苦笑する。

慣れることと、忘れることは違う。

会わなくなっても、消えないものが確かにあった。

それでも時間は進む。

何事もなかったように、朝は来る。

二人は同じ街で、同じ時間帯に、それぞれの生活を続けていた。

交わらないまま。

けれど、完全に終わったわけではない。

ただ、静かに沈殿しているだけ。

次に動くのが誰なのか。

それは、まだ決まっていなかった。

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