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16.終わらせるための朝

その朝、私は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

窓の外はまだ薄暗く、カーテン越しの光が、ぼんやりと部屋を照らしている。

胸の奥が、妙に静かだった。

昨日まで、あれほど揺れていた感情が、嘘のように落ち着いている。


――決めたからだ。

今日は、この通勤を終わらせる。

終わらせると言っても、何かを壊すわけではない。

誰かに告げるわけでもない。

ただ、私がやめる。


同じ時間に家を出るのを。

同じ電車を選ぶのを。

彼の存在を期待するのを。

それだけのこと。

顔を洗い、身支度を整える。

いつもより少しだけ丁寧に。

鏡に映る自分は、どこか覚悟を決めた顔をしていた。


駅へ向かう道は、いつもと変わらない。

けれど、一歩一歩が区切りのように感じられる。

ホームに上がる。

私は、無意識に彼の姿を探してしまいそうになるのを、ぐっとこらえた。

――見ない。

今日だけは本当に。


電車が来る。

私は、あらかじめ決めていた別の車両へ乗り込んだ。

同じ電車。

でも、もう同じ空間ではない。

一方で、彼はその朝、胸の奥に奇妙な焦りを抱えていた。

理由は、自分でもはっきりしている。

――今日で最後かもしれない。

何の根拠もない。

ただの予感だ。

けれど、これまで何度も見送ってきた直感が、今日はやけに強かった。


駅へ向かいながら、彼は心の中で何度も言葉を繰り返す。

「おはようございます」

「いつも同じ電車ですね」

どれもありふれている。

でも、ありふれているからこそ、今まで言えなかった。


ホームに上がる。

視線が自然と後方へ向かう。

――いない。

一瞬、胸が強く脈打つ。

まだ電車が来るまで時間はある。

遅れているだけだ。

そう思おうとする。

けれど、電車が到着しても、彼女の姿は見えなかった。


彼は、不安を抱えたまま車内に乗り込む。

いつもの位置。

周囲を見渡す。

――いない。

胸の奥に嫌な予感が、確信に変わっていく。

電車が動き出す。

彼は視線を人の流れに走らせる。

車両の端。

ドア付近。

吊り革の影。

どこにも彼女はいなかった。

――やっぱり。

心臓が少しだけ遅れる。

彼女は終わらせた。

理由は分からない。

けれど、自分が踏み出さなかったことだけは、はっきりしている。

彼は吊り革を強く握った。


一方で、私は別の車両で窓の外を見ていた。

景色は同じように流れていく。

駅。

ビル。

朝の空。

それなのに、胸の奥が少しだけ痛む。

――もう会わない。

そう決めたはずなのに、心が置いていかれる。

途中の駅で人が入れ替わる。

私は、ふと考えてしまう。

もし、あの車両に乗っていたら。

もし、彼が今日こそ声をかけてきたら。

そんな「もし」を振り払う。

考えたって意味はない。

終わらせると決めたのは私だ。


電車が進む。

私の降りる駅が近づく。

一方、彼はいつもより一つ先の駅で、電車を降りた。

理由はない。

ただ、同じルートを辿る気になれなかった。

ホームに立ち、発車する電車を見送る。

――遅すぎた。

その言葉が胸に落ちる。


彼女は、待っていたわけじゃない。

ただ、同じ時間を共有していただけだ。

それを当たり前だと思っていた。

当たり前は、いつでも簡単に壊れる。


職場へ向かう道で、彼は何度も彼女の姿を思い浮かべた。

俯いた横顔。

一瞬だけ合った視線。

言葉を選ばなかった朝。

一方、私は会社のエントランスを抜けながら、心の中で静かに呟いていた。

――これでいい。

始まらなかったから、終わらせられる。

傷つかずに戻れる。

そう思わなければ、前に進めなかった。


その日、二人は同じ電車に乗っていた。

同じ時間、同じ路線。

けれど、決して同じ場所にはいなかった。

そして、そのズレこそが、取り返しのつかないものだったことを二人は、まだ知らない。

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