15.選ばなかった言葉
その朝、彼はいつもより早く目が覚めた。
目覚ましが鳴る前に、はっきりとした意識で。
昨日の電車の中での、あの一瞬の視線。
思い返すたび、胸の奥に静かな熱が灯る。
――声をかけるべきだったのか。
その問いが、頭から離れなかった。
話しかける理由は、いくらでも見つけられる。
「昨日、混んでましたね」
「いつも同じ電車ですね」
どれも、取るに足らない言葉だ。
けれどその取るに足らない一言が、この距離を壊す鍵になる気がした。
同時に壊してはいけないものも、そこにある気がしていた。
彼女は距離を必要としている。
それは彼女自身の選択であり、守るべき境界線だ。
それを越える権利が、自分にあるのか。
答えは出ない。
駅へ向かう道すがら、彼は何度も言葉を組み立てては頭の中で消していた。
ホームに上がる。
彼女はいた。
いつもの位置より、少し後ろ。
距離は相変わらずだ。
彼は彼女の方を見なかった。
見てしまえば、踏み出したくなりそうだったから。
電車が来る。
人の流れに乗って、車内へ。
混雑は、昨日ほどではない。
話しかける余裕は、確実にあった。
それでも、彼は何も言わなかった。
沈黙は安全だった。
選ばなければ、失うこともない。
一方で彼女は、その沈黙を別の意味で受け取っていた。
――やっぱり、何もなかった。
昨日の視線は、偶然で特別な意味なんてなかった。
そう思おうとする。
それが一番楽だった。
彼が何も言わないこと。
近づいてこないこと。
それは、彼女の選択を尊重している証でもある。
同時に、自分が深読みしすぎた証でもあった。
電車が揺れる。
彼女は、吊り革を強く握る。
心まで揺れないように。
途中の駅で、人が入れ替わる。
距離は、縮まらない。
それが、確認のように感じられた。
――これでいい。
彼女は心の中で繰り返す。
話しかけられない。
関係が始まらない。
それは、傷つかない選択だ。
けれど、胸の奥が少しだけ痛む。
彼は、彼女の存在を意識しないようにしていた。
視界に入れない。
考えない。
それでも、降りる駅が近づくにつれ、決断の時が迫る。
――今日も、言わない。
そう決めた。
決めてしまえば、楽だった。
電車を降り、ホームに立つ。
彼は振り返らない。
振り返れば、言葉がこぼれそうだったから。
電車が発車する音を背に、彼は歩き出す。
その背中を彼女は見ていた。
人の隙間から遠ざかっていく背中。
――やっぱり話しかけてこない。
それが少しだけ寂しかった。
でも、それ以上に安心している自分がいる。
この距離のままなら、何も失わない。
失わないけれど、何も得られない。
そのことにまだ、はっきりとした名前をつけられない。
職場へ向かう道で、彼女は今日も、朝の電車を思い返す。
視線が合ったこと。
何も起きなかったこと。
その両方が心に残る。
一方、彼は仕事に向かいながら思っていた。
――これで終わるのかもしれない。
終わらせたのは、彼女ではない。
自分だ。
言葉を選ばなかった。
踏み出さなかった。
それが、この関係の唯一の結論なのだと。
けれど、胸の奥に残る小さな後悔は、簡単には消えなかった。
選ばなかった言葉は、言わなかった分だけ重くなる。
そして、二人はまだ同じ電車に乗り続ける。
何も始まらないまま、何かが静かに終わりに近づいていることに、気づかないふりをしながら。




