14.交わって離れる
最近、彼は時計を見る回数が増えていた。
仕事の締め切りが迫っているわけでもない。
ただ、朝の時間に以前より意識が向くようになっただけだった。
駅へ向かう道を歩きながら、彼は無意識に足取りを調整している自分に気づく。
早すぎず、遅すぎず。
――この時間。
以前なら、理由もなく選んでいた時間帯が、今は微妙な意味を持っている。
ホームに上がると、視線が自然と後方へ流れた。
――いた。
彼女は、少し離れた位置に立っていた。
以前より、確実に時間をずらしている。
そのことに彼は、ようやく確信を持った。
偶然ではない。
昨日も、一昨日も、彼女は同じ電車に少しだけ遅れて乗り込んできた。
距離は決して縮まらない。
近づこうとすれば、すっと間合いを取られる。
――避けられているわけじゃない。
そう思いたい。
けれど、意図的であることは否定できなかった。
電車が来る。
彼は、あえて立ち位置を変えなかった。
彼女の様子を見るためでも、試すためでもない。
ただ、この距離が彼女にとって必要なのだとしたら、それを尊重したかった。
車内に乗り込み、人の流れが落ち着く。
彼女は視線を伏せたまま、一定の距離を保っていた。
彼は吊り革につかまりながら、窓に映る二人の姿をぼんやりと見る。
そこには言葉を交わすことのない男女が、同じ方向を向いて立っている。
まるで他人同士のように。
――最初から他人なんだけど。
そう思いながらも、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
途中の駅で、大量の人が乗り込んできた。
車内が急に混み合う。
押される流れの中で、彼はほんの少し後方へ下がった。
それは、彼女に近づく方向だった。
意図したわけではない。
けれど、距離は確実に縮まった。
彼女は、一瞬だけ顔を上げた。
視線が合う。
ほんの一瞬。
言葉も表情も何もない。
それなのに、時間が止まったように感じられた。
次の瞬間、彼女は慌てたように視線を逸らした。
彼も同じように視線を外す。
車内の音が戻ってくる。
誰かの話し声。
アナウンス。
レールの音。
全てが何事もなかったように流れ続ける。
――見た。
彼は心の中で呟く。
確かに彼女は、こちらを見た。
避けるだけの存在なら、あんな視線にはならない。
驚きと戸惑いと、ほんの少しの何か。
それが確かにそこにあった。
彼は何も行動を起こさなかった。
声をかけることも、近づくこともしない。
この距離を壊す権利が、自分にあるのか分からなかったからだ。
電車が進む。
彼女は以前よりも、さらに距離を取った。
まるで、一瞬の出来事をなかったことにするように。
その様子を見て、彼は確信してしまった。
――彼女は気づかれたくなかった。
自分に意識されていることに。
降りる駅が近づく。
彼は、いつも通りの駅で降りる。
逃げるように早く降りる必要は、もうなかった。
ホームに降り立ち、電車が動き出す。
彼は振り返らない。
振り返ってしまえば、何かを期待してしまいそうだったから。
一方で、彼女は胸の奥がざわついたままだった。
視線が合った、あの一瞬。
――見られた。
気づかれた。
意識していることを。
だからこそ、距離を取った。
それが、正しい選択なのかは分からない。
職場へ向かう途中、彼女は何度もその瞬間を思い返していた。
視線が交わっただけ。
それだけなのに胸が熱い。
その熱が、この関係をどこへ連れていくのか。
答えは、まだ見えなかった。




