13.同じ電車、遠い距離
その時間に家を出ることが、いつの間にか習慣になっていた。
目覚ましを十分早くセットし、余裕を持って身支度をする。
以前より眠気は強いはずなのに、朝の準備は不思議と苦ではなかった。
――もしかしたら、いるかもしれない。
その「もしかしたら」が、私を動かしていた。
駅へ向かう道は、まだ人が少ない。
朝の空気はひんやりとして、頭が冴える。
ホームに上がると、私は自然と周囲を見渡す。
探すというほど、露骨ではない。
ただ、視界に入るかどうかを確かめるだけ。
――いた。
彼は、少し前方のドア付近に立っていた。
以前より、ほんの少しラフな服装。
それだけで、胸の奥が静かに揺れる。
でも、私は近づかない。
あの朝以来、彼と一定の距離を保つことが、暗黙のルールになっていた。
同じ電車。
同じ車両。
それでも、立つ位置は違う。
電車が来て、人の流れに沿って乗り込む。
車内での位置関係も、変わらない。
彼は前方。
私は後方。
視線が交わることは、ほとんどない。
それでも、彼がいることは、はっきりとわかる。
不思議だ。
視界に入っていなくても、彼がどのあたりに立っているか、自然と把握してしまう。
電車が揺れる。
私は吊り革につかまりながら、彼の背中を思い浮かべる。
――あの人は、どう思っているんだろう。
私が時間を変えたことに、気づいているだろうか。
それとも、ただの偶然だと思っているだろうか。
彼の方を見る勇気はなかった。
以前のように、視線が合うことを期待することもない。
距離を詰めるより、この状態を壊さないことの方が、今は大切だった。
途中の駅で、人が多く乗り込む。
車内が混み合い、距離が物理的に縮まる。
私は思わず身構える。
彼の近くに押し出されるかもしれない。
けれど、人の流れは微妙にそれを避けた。
彼は前へ。
私は後ろへ。
まるで、見えない線が引かれているかのように。
その事が少しだけ寂しかった。
職場に着くと、私はいつもより静かに仕事を始めた。
集中しているふりをしながら、心は朝の電車に残っている。
――このままで終わるのかな。
言葉を交わすこともなく。
距離を縮めることもなく。
それでも、同じ時間、同じ空間を共有し続ける。
それは、関係と呼べるのだろうか。
帰りの電車でも、彼は同じ位置にいた。
朝と同じ距離。
朝と同じ沈黙。
夜の電車は、朝よりも疲れが溜まっている分、感情が浮き彫りになる。
私は窓に映る自分の顔を見る。
少し疲れていて、それでも、どこか期待している表情。
――ばかみたい。
そう思いながらも、期待を捨てきれない。
電車が大きく揺れた。
私はよろけそうになる。
その瞬間、誰かがほんの少し距離を詰めた気配がした。
視線を向けると、彼ではなかった。
ただの偶然。
それでも、胸がざわつく。
――私、何を期待してるんだろう。
声をかけてほしい?
視線を向けてほしい?
それとも、以前のような、あの曖昧な距離感に戻りたい?
どれもはっきりしない。
ただ一つ確かなのは、この距離が私を安心させると同時に苦しめているということだった。
駅に着き、電車を降りる。
人の流れの中で、彼の背中を見失う。
見失うたびに、胸が少し痛む。
それでも、追いかけることはしない。
それが、今の私の精一杯の選択だった。
家に帰り、ベッドに腰掛ける。
静かな部屋で、私は今日一日を振り返る。
――同じ電車に乗った。
――同じ空間にいた。
――でも、遠かった。
この距離は、縮めるべきなのか。
それとも、守るべきなのか。
答えは出ない。
ただ、明日の朝も、同じ時間に家を出る自分が、はっきりと想像できた。
それが希望なのか、諦めなのか。
まだ分からないまま。




