11.気づいてしまった側
その朝、彼はいつもより少し早く家を出た。
理由は特にない。
仕事の予定が詰まっているわけでも、寝坊したわけでもなかった。
ただ、目が覚めてしまった。
それだけだった。
駅へ向かう道を歩きながら、彼は無意識に昨日の朝を思い出していた。
電車の揺れ。
一瞬、肩に触れた重み。
すぐに離れていった気配。
謝罪も視線もなかった。
何事もなかったように距離を取られた。
――避けられたのかもしれない。
その考えが浮かんだとき、胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
彼は、通勤電車の中で、特定の誰かを意識するタイプではなかった。
朝はぼんやりと過ごし、仕事のことを考える時間だ。
それでも、毎朝、同じ場所に立つ彼女の存在は、いつの間にか「見慣れた風景」になっていた。
特別な感情があったわけではない。
少なくとも、そう思っていた。
彼女は、いつも静かだった。
視線を合わせることもなく、話しかけてくることもない。
それなのに、いない朝が一度あっただけで、妙に落ち着かなかったことを彼は覚えている。
――いなかったな。
それだけの感想のはずだった。
けれど、次の日に彼女を見つけたとき、自分がほっとしていることに気づいてしまった。
それが、何だったのかは、まだ分からない。
ホームに着く。
人は多く、空気は少し冷たい。
彼は、いつもの位置に立つ。
視線を上げ、無意識に周囲を確認する。
――いた。
彼女は、少し離れた場所に立っていた。
けれど、昨日とは違う。
彼女は、こちらを一切見ようとしなかった。
いや、見ないようにしている、という印象だった。
視線は足元。
身体の向きも微妙に外れている。
彼は、理由の分からない違和感を覚える。
――何か、しただろうか。
心当たりはない。
話したことすらないのだから。
それでも、昨日の出来事が頭をよぎる。
揺れた電車。
支えるように伸ばした腕。
すぐに離れていった彼女。
拒絶された、というほどのことではない。
けれど、距離を置かれた感覚は確かに残っている。
電車が来る。
彼は、人の流れに合わせて乗り込む。
車内での位置関係も、昨日とは少し違った。
彼女は、明らかに距離を取っている。
偶然ではない。
そう感じてしまう程度には、はっきりしていた。
彼は、視線を落とす。
考えないようにする。
――通勤だ。
――関係ない。
そう自分に言い聞かせる。
けれど、気づいてしまったものは、簡単には元に戻らない。
彼女の存在は、「見慣れた風景」から、「意識してしまう対象」に変わっていた。
電車が揺れる。
今度は、彼女の方へ体が傾きそうになる。
彼は、反射的に踏みとどまる。
近づかないように。
――また、避けられたら。
そんな考えが浮かんだ自分に、彼は内心で驚いていた。
なぜ、そんなことを気にするのか。
彼女と自分は、ただ同じ電車に乗っているだけの他人だ。
それなのに、距離を取られることが、なぜか少しだけ引っかかる。
途中の駅で、彼は降りる準備をする。
今日は、いつもより一つ早い駅だ。
理由は、はっきりしているようで、はっきりしていない。
このまま同じ空間にいるのが、少しだけ気まずかった。
それが、彼女のためなのか、自分のためなのかは、分からない。
ドアが開く。
彼は、一度だけ、ちらりと彼女の方を見る。
彼女は、相変わらず俯いたままだった。
こちらに気づく様子もない。
――やっぱり、避けられている。
確信に近い感覚が、胸に落ちる。
彼は、何も言わずに電車を降りた。
ホームに立ち、電車が動き出すのを見送る。
車内の窓越しに、彼女の姿は見えなかった。
――これで、いい。
そう思おうとする。
気にする必要はない。
関係は、最初から存在していなかった。
けれど、胸の奥に残る、わずかな違和感が、その言葉を否定していた。
職場へ向かう道すがら、彼は考えていた。
もし、明日も同じ電車に乗るなら。
もし、また距離を取られるなら。
――自分は、どうするんだろう。
答えは出ない。
ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。
彼女が、意識しない存在では、なくなってしまったということ。
そのことが、この関係にとって、一番の変化であり、一番の終わりの始まりなのかもしれない。
彼は、足を止めずに歩き続ける。
彼女がいない朝を、少しだけ想像しながら。




