10.見ないと決めた朝
その朝、私は鏡を見ないまま家を出た。
身支度は整っているはずなのに、確認する気になれなかった。
何かを確認してしまうと、気持ちまで整えなければならない気がしたから。
駅へ向かう道は、いつもと同じ。
空気も、足音も、信号の待ち時間も変わらない。
それなのに、胸の奥だけが騒がしかった。
――今日は、見ない。
家を出る前から、そう決めていた。
彼を探さない。
視線を向けない。
存在を意識しない。
それが、今の私にできる唯一の防御だった。
ホームに上がる。
私は、無意識に視線を巡らせそうになるのをぐっとこらえた。
見ないと決めたから。
代わりに足元の白線を見つめる。
広告の色を数える。
アナウンスの声に意識を集中させる。
それでも、彼がいるかどうかは、不思議なほど分かってしまう。
視界に入れていないのに、気配だけで理解してしまう。
――いる。
胸の奥がわずかに波打つ。
でも、私は視線を上げない。
電車が到着し、人の流れが動き出す。
私は、いつもより少し後ろに下がり、彼とは違うドアから乗り込んだ。
距離を取るための明確な選択。
車内に入ると、私はすぐに壁際へ向かう。
吊り革にはつかまらない。
俯いて床を見る。
これなら見なくて済む。
電車が動き出す。
揺れが伝わる。
私は、彼の存在を感じないように音に集中する。
レールの音。
空調の風。
誰かの咳。
けれど、感じないようにすればするほど、感じてしまう。
――今日は、近い。
見ていないのに分かる。
彼が、いつもより近くにいる。
私は息を浅くする。
視線を上げない。
そのとき、ほんの一瞬、影が動いた。
顔を上げていれば、視線が合っていたかもしれない。
そんな距離。
胸の奥が、強く締めつけられる。
――だめ。
私は、より強く視線を伏せる。
その直後だった。
電車が急に揺れ、身体が大きく傾く。
私は思わず一歩、前に出た。
誰かの腕が、私の肩に軽く触れる。
一瞬だけ。
触れた感触は、支えるためのものだった。
私は、反射的に体勢を立て直し、すぐに一歩、距離を取った。
謝る声は出なかった。
顔も上げなかった。
ただ、「何もなかった」ふりをして、元の位置に戻る。
その数秒の出来事が、なぜか、とても長く感じられた。
――今のは。
考えないようにする。
確かめない。
見なければ、無かったことにできる。
そう信じたかった。
けれど、その後の空気が、少しだけ変わってしまったことに私は気づいていた。
彼の気配が、わずかに遠くなる。
距離そのものではなく、意識の距離。
――気づかれたかもしれない。
避けていること。
拒んでいるわけではないけれど、距離を取っていること。
それが、伝わってしまった可能性。
胸がちくりと痛む。
――それでもいい。
私は、心の中でそう言った。
これ以上、踏み込めない。
踏み込まれたくもない。
電車が進み、駅をいくつか過ぎる。
私は、ずっと俯いたままだった。
途中の駅で人が降りる。
彼の気配が少し動く。
そして、そのまま戻ってこなかった。
――あ。
彼は、その駅で降りた。
普段より、一つ早い。
私は、顔を上げないまま、それを理解していた。
見ていないのに、分かってしまうことが、こんなにも残酷だとは思わなかった。
彼がいなくなった車内は、静かだった。
いや、変わらないはずなのに、私には違って感じられた。
――私が、選んだ。
見ないと決めた。
距離を取った。
触れられた手から逃げた。
その結果が、このすれ違いだとしたら。
降りる駅が近づき、私は、ようやく顔を上げた。
そこに、彼はいない。
胸の奥が、静かに確実に痛む。
ホームに降り、人の流れに乗って歩きながら、私は初めてはっきりと自覚していた。
――私は、避けることで、関係を守ろうとした。
けれど、守ったのは関係ではなく、自分だけだったのかもしれない。
何も起きていない。
言葉も視線も、名前もない。
それでも、確かに一つの分岐点を越えてしまった朝だった。
そして私は、まだ知らない。
この小さなすれ違いが、彼にとって、どんな意味を持ったのかを。




