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01.同じ車両の同じ人

朝の電車は、私にとって一日の延長線上にあるだけの場所だった。

自宅を出て、駅まで歩き、改札を抜け、決まった時間の電車に乗る。

それは、考えるまでもない動作の連なりで、特別な意味を持たせるような余白はない。

だから最初は、本当に何でもなかったのだと思う。


その日も、いつもと同じ時間に家を出て、いつもと同じホームに立った。

風が少し冷たくて、空はまだ完全に明るくなりきっていない。

朝特有のどこか湿った空気の中で、私はぼんやりと今日の予定を頭の中でなぞっていた。


電車が滑り込んでくる。

ドアが開き、人が流れ込む。

私もその流れに乗って、いつもの車両に入った。

立つ位置も、ほぼ決まっている。

ドアから二歩ほど奥、吊り革には手を伸ばさず、壁に軽く背を預けられる場所。

混み合う朝でも、そこなら少しだけ呼吸がしやすかった。

ふと、視界の端に見覚えのある影が映った。


――あれ。

特別な服装をしているわけではない。

ごく普通のスーツ姿で、色も形も街中に溶け込むようなものだった。

それなのに、なぜか目に留まった。

同じ位置。

同じ姿勢。

電車が動き出すまでのわずかな時間、私はその人を「見た」と意識していた。

その朝は、それだけだった。


次の日も、同じ時間、同じ電車に乗った。

そして、同じ場所に、同じ人がいた。

偶然だと思った。

通勤電車なのだから、同じ人が同じ車両に乗ること自体は珍しくない。

時間帯も固定されている。

顔ぶれが似通うのは、むしろ自然なことだ。

それでも、三日目、四日目と続くうちに、私ははっきりと「認識」するようになった。


――あの人、今日もいる。

それは確認に近い感覚だった。

探しているわけではないのに、目が自然とそちらへ向いてしまう。

視線が重なることも時々あった。

ほんの一瞬。

目が合う、というほど明確なものではない。

視界が重なり、互いに気づき、同時に逸らす。

それだけの出来事だ。

彼は、こちらをじっと見つめることはない。

私も、見つめ返すことはない。

なのに、その一瞬が、なぜか印象に残った。


朝の電車では、ほとんどの人が無表情だ。

スマートフォンに視線を落とし、眠気を堪え、あるいは目を閉じて揺れに身を任せている。

他人の存在を極力意識しないようにしている空間で、彼の視線だけが、少しだけ違っていた。

侵入してこない。

でも、存在を消そうともしない。

ただ、そこにいる。

それが、妙に心地よかった。

私は自分でも気づかないうちに、朝の準備をしながら「今日はあの人いるかな」と考えるようになっていた。

答えが「いる」か「いない」かで、一日の出来が決まるわけでもないのに。


電車に乗り込み、いつもの位置に立ち、視界を巡らせる。

そして、彼を見つける。

――いた。

それだけで、ほんの少しだけ胸の奥が落ち着く。

彼が何者なのかは知らない。

年齢も、職業も、名前も。

どの駅で降りるのかさえ、正確には知らなかった。

たぶん、私と同じ駅だろうという程度の推測しかない。

話したことはない。

挨拶もない。

それなのに、彼は私の朝の一部になっていた。


ある日、電車がいつもより混み合っていて、立つ位置が少しずれたことがあった。

私は吊り革に手を伸ばし、彼はドアの近くに立っていた。

距離があると、妙に落ち着かない自分に気づく。

――どうしてだろう。

その答えを考えるほど、私は暇ではなかった。

仕事は忙しく、日常は目まぐるしい。

通勤電車で感じる小さな違和感に、深い意味を持たせる余裕などない。

それでも、次の日、また同じ車両に乗ったとき、彼がいつもの位置に戻っているのを見て、私は無意識に息を吐いていた。


恋だとは思わなかった。

そんな言葉を使うほど、感情は大きくない。

ただ、朝の数分間、同じ空間にいる誰かの存在が、私の日常を少しだけやわらかくしていた。

それだけのことだ。


私はまだ、この感情に名前をつける気はなかった。

名前をつけてしまうと、何かが始まってしまう気がしたから。

その朝も、電車はいつも通り揺れ、駅に着き、人が降りていく。

彼も私も、同じホームに降り立った。

すれ違う距離。

声はかからない。

それで良い。

その時の私は、そう思っていた。

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