第2話「辺境の井戸、市のはじまり」
朝の霧が薄れ、井戸の周りには村人が群がっていた。透明な水面に顔を覗き込む子どもたち、壺を抱えて歓声を上げる女たち。昨夜、死んだはずの井戸が水を湛えた奇跡――その立役者として、俺はやけに目立ってしまっていた。
「エルン殿! この村に留まってくれんか」
夜番の老人が両手を合わせるように頼み込む。
「礼など大したものは出せん。だが、わしらにはおぬしが必要じゃ」
俺は少し迷った。追放の痛みがまだ胸に残っている。けれど、この村にあるのは拒絶ではなく、感謝だ。
「……しばらくなら」
そう答えると、老人の皺だらけの顔が綻んだ。
午前、畑に立った。硬い土が昨日の雨露を吸って湿り、掌の白線がまた微かに光る。
「ここを耕すだけでいい。あとは任せろ」
鍬を振るい、土を割る。掌をかざすと、土が柔らかく解けていく。まるで、長く眠っていた地が呼吸を取り戻すように。
「すごい……」
声の主はフィリスだった。昨夜助けた剣士が、包帯を巻いた腕を押さえながら畑の縁に立っていた。
「魔法のように見える。けど、土を相手にする魔法なんて聞いたことがない」
「俺も知らないさ。昨日までは“役立たず”って呼ばれてた」
「役立たず、ね……?」
フィリスは目を細め、苦笑した。
「少なくとも、村を救った英雄が無能だなんてありえないよ」
彼女の言葉に、不意に胸が温かくなった。
昼過ぎ、俺は廃屋を掃除しながら小さな棚を直した。そこに薬草を並べる。ミント、青葉、赤い根――刻印が触れるたび、香りが濃くなり、効能が際立っていく。
「これなら、市を開けるかもしれないな」
ぽつりと呟いた声に、フィリスが反応した。
「市?」
「薬草や野菜を物と交換できる小さな市場だ。村に人が来れば、税に頼らず暮らしが楽になる」
「商人の真似事、ってわけか」
「俺はのんびりしたいだけだよ。けど、誰も死なずに済むならそれでいい」
夕刻。広場に机を出し、初めての“市”を試してみた。
子どもが摘んだ木の実を持ち込み、代わりに井戸水を汲ませる。老婆が卵を二つ差し出し、俺が調合した薬草茶を受け取る。
小さな取引が重なり、広場が少しずつ賑わっていった。
「これは……村が生き返るぞ!」
老人が声を上げる。
「エルン、これはおぬしの市じゃ!」
そのとき、空に黒い影が走った。鴉が三羽、街道の向こうへ飛んでいく。羽音の中に、かすかな人の気配。
フィリスが剣に手をかける。
「……見られてる。あんたの“奇跡”は、もう噂になる」
俺は井戸の水面に映る自分を見た。掌の白い輪は静かに光っている。
のんびり暮らしたいだけだったのに――どうやら、余白はもっと大きなものを呼び込もうとしているらしい。
(第2話 了)




