第三章 新生・彼編 形なきもの、
造語です。
実際にはこんな読み方しませんのでね。
天命
キーンとの模擬戦が終わり、場は解散となった。
少女の元へハシモが駆け寄り、激戦――ハシモにはそう見えた――を賞賛した。
「ミルユル殿!素晴らしい腕前です!あのキーン相手に2本も取ったのですから!」
この場にキーンがいたならば、どんな顔をしただろうか。
「いえいえ、さすがキーン殿です。彼ならばハシモ殿の護衛に相応しく、安心ですね」
笑顔でそう言って褒めた。
「ところで、ミルユル殿……先ほどの品物の事ですが」
声を潜めるハシモ。
空気を読んで、それに合わせる少女。
「……シナモンのことですか?」
「ええ、あれについて少しお話が……あちらでお話しできますかな?」
そう言ったハシモの顔は、商人そのものだった。
「お疲れさん」
「レイヴンか……ああ、本当に、疲れたよ」
ぐったりと座り込むキーンの隣に、レイヴンは両手に銅のカップを持って座った。
「ほれ。……どうだった?あれは何もんだ?」
カップのひとつを差し出しながら、今でもあの光景を信じられないレイヴンだった。
「ありがとう。……俺にも分からん」
肩をすくめて言葉少なに、そう答えた。
「武の達人――と言うには若すぎるし、それに……あの持っていたもの、大きな声じゃ言えねぇが、かなりの値打ちらしい」
「ほう?」
「俺たちのクエスト2回分くらいだとよ」
「……」
ホットワインを啜る。
偶然にも二人は同じタイミングだった。
「それをハシモの旦那と俺達に、それぞれだってよ」
「……」
「普通なら、俺たちがこうやって相手してもらえる様な、身分じゃないんだろうな」
「……」
リィンが焚き火に薪をくべながら、キーン達に手を振っている。
二人は手伝えという意味だと理解したが、あえて気付かないふりをして、手を振り返した。
「……俺は、もしかしたら人間じゃないのかもって思ってるぜ」
「……将来……」
「ん?なんだって?」
「将来が楽しみだ」
「……色んな意味で、そうだな」
キーンは主に武人としての少女に。
レイヴンは、主にその容姿を連想していた。
そして二人は、リィンが投げた薪を慌てて避け、手伝いへと向かうのだった。
昼間、少女が休憩を取っていた馬車の中にハシモと少女はいた。
ランタンの淡い光が車内を照らしだしている。
月明かりに、焚火の光に、そしていまランタンの揺れる仄かな光に照らされる姿は、この世のものとは思えないほどの美しさを持っていた。
揺らめく灯が、彼女の髪を幻想的に浮かび上がらせ、影の中に紅玉のごとき煌めきを映していた。
そんな絶世の美人が、密室で、二人っきりで、目の前に座っている。
医療技術の未熟さ、短い平均寿命、そして戦乱の絶えないこの世界で、14歳はもう立派な大人なのだ。この年齢での結婚は社会の常識であり、彼自身もその価値観を共有していた。
……もっとも、周囲の誰もが彼女を子ども扱いしており、ハシモ自身もそう思っていた。
それは彼女の言動がそう思わせるのだろう。
まるで少年のような、その笑顔や仕草が、特にそう思わせた。
つまり、黙っていれば……というやつだ。
そして、ハシモは根っからの『商人』であった。
彼は少女を見つめてはいるが――
しかしそれは少女の燃えるような煌めく赤い髪ではなく、陽に焼けて健康的でそれでいて絹のような滑らかな小麦色の肌でもなく、曲線を浮かべる豊かなラインでもない。
彼が見つめていたものは――彼女の後ろに在るであろう、家、人脈、財、そして莫大な利益だった。
そんなふたりは、密談を交わしていた。
外へは聞こえないはずなのに、それでも声が小さくなるのは、重要な秘密を語り合っているからだ。
「ではミルユル殿、この品は交易品ではないと?」
「ええ。ですので、継続的な供給はできません」
今まさに、シナモンを巡る商談が進んでいた。
ハシモとしては、安定した仕入れができれば、大陸中の王侯貴族相手でも売り捌く自信があった。
しかし、少女はそれを無理だという。
「これほどの品……惜しいですな。シナモンそのものの希少性に加え、この極上の品質。まるで、天上世界で採取されたかのような……かぐわしき香り。それに、先ほど商隊の鑑定士に見せたところ、通常のものよりも薬効がけた違いに高いとの事。保存状態も良く、これを所持することは、確かなステータスにもなるでしょう。……どうすれば手に入るのか、お教え願えませんか?」
「そう聞かれて、貴方なら教えますか?」
苦笑いを浮かべて、申し訳なさそうに聞き返した。
「……ありえませんな」
苦悩の末、正直にそう答えた。欲をかいて『教えます』といったところで、状況が好転するわけがないとわかっているからだ。
誠実こそが、商売の屋台骨だとわかっているからだった。
「それにこれは、ある方からの賜りものでして」
「なんと……ではその方のお名前をお聞かせいただくことはできませんか?」
「聞いたところで、取引などできませんよ?」
「あ、いえ。これほどの品です。取引できる方は限ってくるでしょう。そうなったとき、その方に売り込むのは避けたいと思いまして」
「なるほど。……ですが、その心配は無用です。その方はもう……この世におられませんから」
思わず悲しげな表情が浮かんだ。
シナモンをはじめとした香辛料や、各種宝石、所持品のすべては『天命』(ツミカ)――ギャル天女からもらったものだ。
そう確かに彼女はこの世にはいないのだ。
「それは……失礼しました……そんな大事な品をよろしいのですか?」
「生きていくために使うように言われていますから。ハシモ殿であれば良いようにしてくれると、信じておりますので」
簡易テーブルの上に、積まれた香りの山。
最上級シナモンスティック500本。重量にして約3.3キログラム。
車内には甘くスパイシーな香りが充満し、その高貴な香りだけで、この場が浄化されるかのようだった。
金額にして、アイジア金貨41枚と大銀貨5枚。とてつもない価値の山だった。
「ですので、これをあなたに預けます。私は商売に明るくありませんし、ひとりです。誰に狙われるかわかったものではありません。ですので、あなたに預けます。そうすれば、私は心配の種をひとつ減らすことができ、あなたはこれをもとに利を増やすことができる。そして、いずれ私の手元には元の価値よりも大きなものとして戻ってくる。でしょう?」
その言葉に、ハシモは胸の奥が熱くなるのを感じた。
彼の生きる商売の世界では、契約書と金のやり取りこそが信頼の証だ。
口約束ほど軽いものはないし、事実、彼は見習い時代に痛い目に遭っている。
だが、今、この少女は『生きていくための代価』である品を、紙一枚の保証もなく、自分に委ねようとしている。
その理由は明白だった。
この品は、密かに預かるべきもの――もし契約書が残れば、それ自体が狙われる標的となってしまうからだ。
もし書面に残せば敵対者に盗まれたり、腐敗した権力者に押収されるリスクが増す。
そして、その出元であるメルニアの事も知られてしまい、それでは、心配の種を減らした意味がない。
だからこそ、形に残らない【信頼】だけが、二人の間に確かな証文となる。
紙に残さないが故に、強固な信頼だとハシモは感じていた。
「……ミルユル殿、貴方様から頂いた信頼に応えるため、この『ハシモ・リャバルダ』、全霊を尽くすことを、秤の神・商売の神・法の神である『ウカ・イナリウス』様に誓いましょう」
そう言ってハシモは深く、深く頭を下げたのだった。
彼は晩年、孫たちが集まると必ずこう語ったという。
「すべてはあの時、ミルユル殿と出会ったことから始まったのだよ」
この言葉を口にするとき、彼の瞳は楽しげで、笑みが絶えなかったという。
設定資料が分厚くなってまいりました HAHAHAHA




