第三章 新生・彼編 おもい、
少女と商人たちの乗る馬車が少し動いた。
ゴトゴトと、馬車が短く進んで、またすぐに止まる。
少女はしばし黙考していたが、ふと顔を上げ、思い出したように口を開いた。
「ハシモ殿、貴殿のご厚意に感謝する。その情報を知らぬまま、街にはいれば、私はきっと難儀したことだろう。この情報の代金を支払いたいと思うが、あいにく金銭の持ち合わせがない」
お金がないというわりには、不自然なほどの余裕のある表情だった。
ハシモは吹っ掛けるつもりなど、毛頭なかった。
だからこそ、こちらから、核心となる情報を伝えたのだ。
今さら高値を付けるつもりはなかったが……とはいえハシモは商人だ。
『多少なりとも値をつけてくれれば』とは願っていた。
しかし、まさかの無一文とは――。
「あ、いや。謝礼を払えるんだ。ただ、お金を持っていないだけで」
一瞬の間をあけて、ハシモは笑った。
「ああ。そういうものも歓迎ですよ」
ハシモは商人だ。現物支払いだって喜んで受け付ける。
大陸の東西の物品を交易して生計を立てているのだ、余程のガラクタでなければ、売りさばく自信はあった。
それに、これだけ身なりの良い相手なら、何かしら価値のある物をもっているだろうと踏んでいた。
草原の民の工芸品かな?
簪とか櫛かな?
あの武器は見事な物だが流石に受け取れないしな。
そんな事を考えていた。
《どんな宝石が高値になるんだろうね?》
《あんなもの、石ころじゃないか。私にはよくわからんね》
二人の間では、周囲を気にすることなく、堂々と意見を交わせる。
しかも、それは声ではなく、ひらめきのような一瞬で――まるで意識が触れ合うかのように、思いが通じるのだ。
慣れてしまえば、言葉すら要らなくなるはずだ。
なにせ、本来なら、二人はとっくに一人になっていたはずなのだから。
とはいえ、今のふたりは、それぞれに独立した人格を持つ。
一方は異なる文化圏で育った戦士。もう一方は、異世界から来たおじさんだ。
この世界の――この国の価値観や常識を、正確に理解しているわけではない。
少女がカバンに手を突っ込み、何かを掴んで取り出した。
その掌に握られていたのは、小指の爪ほどの大きさの、赤い楕円形の――紅玉。
その赤は深く、まるで鮮血が宿っているかのようだ。
伝説によれば『女神が世界を織りなすときに流した血が大地に染み込み、それがルビーになった』のだという。
メルニアの知識では、ただ『そういわれている』程度の話だった。
初めて聞いた時は聞き流していたが、まさかこんな形で思い出すとは――。
「まぁ、神話由来なら高値が期待できそうだし」と、それくらいの理由で選んだのだ。
ハシモは、少女がその掌に載せた赤い宝石を見て、思わず息をのんだ。
深く濃い、血のように輝く紅――商人人生でもめったにお目にかかれないレベルの逸品。
そして、その宝石をこともなげに出してくる相手。
ハシモの商人魂が、胸の奥で鐘のように鳴り響く。
『大儲けのチャンスだぞ』と。
東西貿易で財を成す豪商――ハシモは思わず息を呑んだ。これほどの逸品、見過ごせるわけがない。
だが同時に、目の前の少女の無垢さが、彼の欲を押し留めた。
「うおっ……こ、これはなかなかの逸品。これひとつで、城が建つ……は言い過ぎかもしれませんが、いずれにせよ今の私には釣銭の持ち合わせがございません。ですのでこう致しましょう」
ハシモは懐から革張りの帳面を取り出し、簡易式の卓に広げると、さらさらと迷いなく記し始めた。
ギルド刻印入りの簡素な証書用紙に、金貨換算での仮評価額と、彼自身の署名を記した。
「『預かり証』です。ギルドの窓口へもっていけば適正金額で売却が可能です。さらに金額の一部を換金することも出来ます」
「なるほど、証文があればハシモ殿のお仲間がお金に換えてくれるというわけですね?」
転生者はあえて、少し無邪気な声を装った。
ハシモを何としても味方にしたい、そんな思いが込められていた。
「そうです。そのとおりですよ。よくお分かりですね。ですが、どうやら、私が相手にしているのはただの無垢な少女ではないようですね」
ハシモは少し驚きながらも、少女の利発さを認めた。
そんな利発さを認められた少女の中では『利発』とは程遠い会話が交わされていた。
《お兄さん!?いくらなんでもそんな紙切れ一枚と交換なんて、さすがに騙されてるよ!》
メルニアがまるで、掴みかかるような勢いで騒ぎ出した。
《いくら石ころだといっても、天女様が持たせてくれたものだよ!金貨1枚くらいにはなるはずだよ!》
《大丈夫だよ。ほら、ここ見て、アイジア金貨三百九枚って書いてあるよ》
《たしかに!でもこの紙切れが金貨309枚なわけないよ!ほらっ!カシャカシャのかっさかさで、どう見てもただの紙だよ!》
《うん、まぁたしかにカサカサだけど……この紙は『証文』といってね、ちゃんとした信用状なんだよ》
《しんようじょう!?なに?魔法?ねぇ?ほんとうに騙されてないの!?》
《大丈夫だよ。ハシモ殿を見てごらん。俺たちをだまそうって人には見えないだろう?》
《悪人は、善人ぶって近づいてくるの!これは罠だよ!あとで体で払えとか言われるんだよ!ぜったい罠だよ!罠のにおいがするよ!》
《大丈夫だよ!309枚はあの石ころの代金だから、借金とかじゃないから!》
《やだ!信用できない!》
《大丈夫だって!何かあったとしても、俺が何とかする!何でもしてあげるから!》
《な、なんでも?……本当?約束だよ?》
《ああ。約束するよ。俺たちは運命共同体――メルにゃんの不幸は俺の不幸だし、メルにゃんの幸せは、俺の幸せなんだ。だからさ、他人は信じれなくても、俺だけは信じてほしいな》
まるで、口説き文句のようなことを言うお兄さんであった。
しかしそもそも、身体はひとつなのだから当たり前の事なのであった。
けれど、メルニアは14歳の女の子である。
戦士として自らを鍛えてきたとはいえ、その身体が少女の枠に収まらなくなる時期が、静かに近づいていた。
それは、まさに【心の距離】に敏感になる季節。
たとえ相手が、同じ躰に宿っている倍以上も年嵩の男あったとしても――彼女にとっては、最も身近にいて、寝食を共にし、さらには復讐という強烈な体験を分かち合った異性なのだ。
もはや、どこへ行くにも彼を頼らねばならず、彼もまた、なにかにつけ自分を頼ってくれる。
その関係は、あまりにも近く、あまりにも特別なものだった。
この仄かに芽生えた、胸のざわめきを、いまだ経験したことのないときめきを――それを【恋】というほかに、彼女は言葉を知らない。




