第一章 現世・彼編 彼
今回からは、しっかりラノベ。
彼は疲れていた。
憑かれていた、と言いかえてもいいだろう。
朝は4時前起に起きる。
シャワーを浴びながら、うつろな目で浴槽を見やる……もうどれくらい使ってないか覚えていなかった。
朝ごはんは抜いて5時に出勤し、その日1日のスケジュールを缶コーヒー片手に組み、清掃と昨日の残業の続きをこなして、始業してからは嫌味な上司に頭を下げて、下げて、下げた。
取引先へ向かい、これまた嫌味な担当に頭を下げて、昼もろくに摂れずに、コンビニで買った栄養ドリンクを飲んで空腹を紛らわせた。
会議資料を作成するのに疲れた目をこすりながら、モニターとにらめっこの日々。
デスクには書類と、空になったコーヒーの缶が山積みになっている。
社長の親戚だという後輩の仕事をこなし、その取引先のクレームを処理して、気が付けば終電で帰宅。
最近は視界の隅にチラチラと錯覚が映りこむし、体はとにかく重い。
学生時代と比べれば体重もかなり落ちた。
貯金は貯まったが使い道はない。
ましてや、学生時代からの趣味にしているサーフィンなんて、ここ10数年やってない。
勿論、彼女なんていやしない。
職場の女性社員が寿退社をするのを見送るたびに、羨ましくて涙が出る。
そんな彼にも唯一の慰めがあった。
同じ境遇の同僚がいた事だ。
金曜の夜にはお互いの部屋で朝まで酒を飲んで愚痴をこぼし、運良く会社から電話がなければ夕飯を共にして、なんなら翌日も同じ事を繰り返し、月曜に向けて解散する。
今やお互いの部屋に、それぞれの私物が置いてあるくらいだ。
仕事の上でも息の合う二人は、社内で付き合ってると噂されていた。
とんでもない事だった。
彼も、その同僚もお互いをそんな目では見ていなかった。
20連勤が明けて久しぶりに、その同僚の家へ遊びに行った際、運命は大きく変わり始めるのだった。
その夜はいつもの様に、1人が料理をし、その間にもう一人はお風呂へ入る。
二人で晩御飯を食べて、後片付けの合間に、もう一人がお風呂へ入る。
パソコンの画面で映画を見て酒とつまみを口へ運ぶ。
「この画面、でかくて見やすいな」
最近買い替えたというモニターを褒めれば――
「でしょう?最近、視力が下がってね」
「わかるぅ!」
手元のおつまみが無くなって、いつもの場所を漁ってみるも買い置きがないことに気がついた。
「おつまみ買ってくるけど、何がいい?」
疲れてウトウトしつつあった同僚が「あったかい……のがいい」と振り向かないままに答えた。
財布だけを持って近所のコンビニへ向かう。
この季節のこの時間はまだ少し、肌寒かった。
彼は、半袖で出てきたことを少しだけ後悔した。
空を見上げても、星は見えない。
雲の切れ間から顔をのぞかせた大きな月と、その月光に照らされて白く輝く雲が――まるで夜空に浮かんだ一幅の絵のようだった。
歩きながら、部屋に残してきた同僚の事を考える。
ブラック企業に勤めていられるのも、同僚という癒しがいるかだと、改めて感謝せずにはいられない。
でも、どうせなら「あいつが女だったらいいのに」と思ってしまう彼だった。
共通の趣味も多い、食事の好みもあう、お互いに気を遣わずに世話を焼き合える。
笑いのツボだって同じだ。
でも、男でいてくれてよかったと思う。
男だからこそ、今の関係があるし。
でなければ、きっと、いろいろと気を使い、理解し合えなかっただろう。
「でも、あいつに言ったら『お前が女になれ』って言うんだろうな」
可笑しさがこみあげてきた。
ふふっと笑みをこぼして、コンビニへの足取りが少し、軽くなった気がした。
夜の町を歩いて10分。
コンビニで欠伸をなん度も噛み殺しながら、物色することさらに10数分。
もちろん雑誌をパラパラめくって、グラビアなどに目を通すことを忘れない。
店員の何を言ってるかわからないが、たぶん「有難うございました。またお越しくださいませ」であろう言葉を背中に受けて、店を出る。
月は相変わらず、その光で夜を飾っていた。
改めて買った缶酎ハイを煽りながら、復路は往路よりも時間をかけていく。
部屋が見えてきた――その時だった。
轟音と衝撃波。
そして火の手が上がる。
それは、どう見ても――同僚の部屋だった。
「……え?…………え?ちょっ、おい!やばい!やばい!」
彼は走り出した。
同僚で、親友で、ここ数年の唯一の癒しの存在の元へ――!
飲みかけの缶酎ハイは、どこかへ飛んでいった。
それでも、なぜかコンビニ袋は手に持ったままだ。
後は、この角を曲がって――。
信号を――渡れば。
――すぐ、そこだ!
……頼む!間に合え!
何でもするから……どうか!神様!
――その時だった。
彼の視界は、大きく、そして乱暴に、乱れた。
どうやら、事故にあったらしい。
ぐるり、ぐるりと世界が回る。
全身が衝撃に包まれて、体の中から聞こえちゃいけない音が、聞こえた。
朦朧とする意識の中で、彼はただ――
いつの日か、趣味のサーフィンで世界中の波を制覇する夢と、あの部屋にいる同僚の無事を願っていた。
……そして、その意識を、手放した。




