政略結婚のはずが、旦那様がときどき優しすぎて困ります
婚礼の鐘は、まるで処刑台の宣告のようだった。
私はエルヴァン家の令嬢、レイラ・エルヴァン。十七の誕生日を迎えた今年の秋、我が家とライゼル家との「縁組婚」の対象に選ばれた。私は今まで政敵であった家の令息と夫婦になる。夫婦として、互いの家を”一年間”支え合い、その後、婚姻を継続するか破棄するか選ぶ。今まで、そのまま婚姻を継続した夫婦はほとんどいないらしい。
——その昔、政治絡みの身内争いにより貴族同志の争いが絶えなかった時代に、各貴族の家に繋がりを”強制”的に持たせるために作られた制度。それが、貴族社会に根づく慣習、「縁組婚」だ。
義務。責任。家のため。
ずっとそう言い聞かせてきたのに、彼の前ではすべてが崩れた。
「……初めまして、レイラ殿。今日から貴方の夫になります、アーデル・ライゼルです」
そう名乗った彼は、想像とあまりに違った。冷たく、感情の読めない琥珀の瞳。礼儀正しく、けれど決して心を許さない距離感。まるで私に興味がないような——それが、妙に腹立たしかった。
「一年限りの夫婦なんて、仮面にすぎないでしょう?」
皮肉を込めた私の言葉に、彼は少しも動じずに答えた。
「仮面の裏に、素顔があることもあります」
それが、私とアーデルの始まりだった。
―・―・―
最初の数週間は、意地のぶつけ合いだった。
私は家の名に恥じないよう、完璧な夫人として振る舞った。紅茶の温度、部屋の香り、帳簿の数字……すべてに気を配り、非の打ち所がない「貴族の妻」であろうと努めたのだ。
でもアーデルは、私の努力を褒めもしないし、干渉もしない。ただ黙って仕事をこなし、夜は別の部屋に消えていく。まるで機械のように。
毎朝六時に起き、決まった量の朝食をとり、八時には執務室へ。昼は一言の挨拶を交わすだけ。夜は簡素な食事をともにし、それきり。彼の一日は、秒刻みで決められているかのようだった。
それでも私は、彼に追いつこうとした。
些細な会話の糸口を探し、同じ本を読み、執務室に入る前の時間を狙って廊下に立ってみたり。自分でも呆れるほど、私は必死だった。
「……ご苦労さまです」
ある日、思いきって声をかけた。彼が書類の山を抱えて部屋に戻るところだった。
「……ああ。ありがとう」
彼は立ち止まり、こちらを見た。まっすぐ、淡々とした声だったけれど、その目には少しだけ、驚きが浮かんでいた。
――それだけのことが、嬉しかった。
春が近づくにつれ、邸宅の庭にある古い温室の掃除を思い立った。
埃にまみれたガラス、朽ちかけた棚。
誰も使わなくなった場所。
「どうしてここを?」
いつの間にか背後にいた彼が、私の手にした雑巾を見下ろした。
「使わないなら、もったいないでしょう? 日当たりも良いし、花を植えたら綺麗になると思って」
彼はしばらく沈黙し、やがてぽつりと。
「……母が、よくここにいた」
それきり何も言わず、彼は私の隣に腰を下ろし、黙ってガラスを拭き始めた。
その日の午後、ふたりで黙々と掃除をした。
言葉は少なかったけれど、手を動かすたびに、何かが確かに近づいていた。
「レイラ、これ……好きそうだと思って」
庭の隅で摘んだばかりの白い小花を、彼がそっと差し出してきたのは、それから数日後のことだった。
彼の手が私の手に触れた瞬間、胸が高鳴った。
「……ありがとう。覚えていてくれたのね」
「君が前に、花が好きだと話していたから」
それはほんの一言だったけれど、その言葉が私の心に温かな灯がともった気がした。
夜の食卓に、一皿のスープが並ぶようになったのは、梅雨の始まりだった。
「これ、あなたが?」
「……料理は趣味なんだ。君があまり食べていなかったから、合う味を考えてみた」
塩気も香りもちょうど良く、私の好みの味だった。
彼が、私のことを考えて料理をしてくれたのだと思うと、思わず口角が上がってしまう。
ふと、顔を上げると彼もうっすらとだが笑っているように見えた。
ある夜、ふと目が覚めたとき、私は夢を見ていたことに気づいた。
アーデルが隣にいて笑っていた。夢の中では当たり前のように手を取っていたのに、現実の私はまだ、ほとんど彼に触れていない。
そしてその翌朝、目覚めると私の肩には毛布がかかっていた。
「夜中、冷えていたから」
彼は照れたように言って、すぐに視線をそらした。
その瞬間、私は思わず彼の背中に抱きついてしまう。
「……ありがとう」
こんなに感謝の言葉を言うことが、恥ずかしかっただろうか。背中越しに見えた彼の耳が赤くなっているの気づいたけれど、私の耳はもっと真っ赤になっていると思う。
夏の終わりが、こんなにも寂しいものだと知らなかった。
庭の花は色褪せ、温室には少しずつ影が差すようになった。昼間はまだ蝉が鳴いているのに、風の匂いには秋の気配が混ざっていた。季節が移ろうたび、胸の奥がざわめく。
もうすぐ、「その日」が来る。
縁組婚の一年が終わり、どちらの家に「本物の結婚」を残すか決められる。
その決定は、貴族会議と両家の判断に委ねられていた。
心はとっくに、決まっているのに。
私はまだ、彼にそれを伝えられずにいた。
「庭のコスモス、そろそろ咲くね」
紅茶を手に、ぽつりと呟いた。意識していなかったのに、声が震えていた気がする。
「そうだな。……でも、来年の庭は、誰が見るんだろう」
アーデルの言葉は、ひどく静かだった。
私の胸の奥、柔らかい場所に触れるような声だった。
顔を上げると、彼は窓の外を見ていた。私ではなく、庭でもなく、その向こうの空を。
まるで、目を合わせたら決壊してしまうものを、必死に堪えているみたいに。
私は耐えきれず、思わず立ち上がった。
「……嫌よ、そんなふうに言わないで」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
「私が、あなたといたいの。制度じゃなくて、誰かの都合でもなくて——ただ、あなたと、生きていたいのよ」
言葉にしてしまった瞬間、すべてが変わった気がした。抑えていた想いが、堰を切ったように流れ出す。
彼の瞳が揺れた。初めて出会ったときのあの冷たい琥珀が、今は脆く光っていた。
「……僕も、ずっと願っていた」
アーデルはゆっくりと立ち上がり、私の手を取った。その手は、信じられないほど優しく温かかった。
「最初は、何も期待していなかった。与えられた役割をこなすだけの、形だけの夫婦だと思ってた。でも——君と暮らして、食事を共にし、朝を迎えるたびに、どんどん変わってしまったんだ」
彼の言葉は、胸の奥にまっすぐ落ちてきた。
その一語一語が、私をほどいていく。
「君のふとした笑顔が好きだ。小さなことにも心を配る君を尊敬してる。何より……」
彼の瞳が、そっと細められる。
「君に触れたくなる自分を、止められなかった」
瞬間、心臓が跳ねた。
彼の指先が頬に触れる。淡い熱がそこに広がり、私は瞬きさえできなかった。
そして——そっと、唇が重なる。
それはまるで、ずっと昔から知っていた味のようでいて、初めて口にする永遠の約束のようだった。
「僕は、君と共にこれからも歩みたい」
彼がそう言ったとき、何も恐くなくなった。
互いの家がライバル家だろうと、身内がなんて言おうとも私たちはもう、離れられない。
「私も、どこにも行かないわ。あなたと一緒にいたい」
風が吹く。
窓の外、最初のコスモスがそっと揺れていた。
私たちの一年は終わる。
けれど、ここからが新しい始まりだった。
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