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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第二章~女伯爵に捧ぐ花
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<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。

ユースティティア(ティティ):シアの上の妹。

フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。

ラウダトゥール(ラウダ):王太子。シアの乳兄弟でアストの上司。

ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染でアストの元部下。

 沸騰した湯を勢いよく注ぎ込むと、ふわっと爽やかな香りが鼻をくすぐった。その香りが逃げないように蓋をし、保温用のカバーを被せて砂時計をひっくり返した。一連の動作を終えると、ようやく一息ついて顔を窓の外へと向ける。

 春の午後の日差しはきらきらと金色に若葉を照らしている。その光景に目を細めて、アルレイシアはふっと唇に笑みを刻んだ。

 滑り落ちていく砂時計の残りをちらりと横目で確認し、そのまま窓辺へ歩み寄った。五日前の舞踏会で負った足の怪我も回復し、今は歩いても痛みは無い。そのことに更に気分が良くなり、弾むような足取りでテラスへと辿り着くと、両開きの窓を開いた。先ほど淹れた香草茶よりも濃い緑の香りが風に乗って運ばれてくる。

「良い天気」

 足の怪我が癒えるのを待ちながら、ここ数日で集中して論文を一本片付けたため、今日は休息日としていた。そのため、午前中に資料などで散らかった部屋の片づけをし、それを終えて休憩を取ろうとしていたところだったが、こう天気が良いと外へ出たくなってくる。普段は研究員ということもあって、室内に引き篭もることの多いアルレイシアだが、それは仕事柄そうなってしまうだけで別段外出が嫌いな訳でも億劫な訳でもない。

 そうしてしばらく春の風に吹かれていたが、結局我慢できずに思い切ると、室内へと踵を返した。そして小ぶりのバスケットと水筒を用意すると、お茶受けにと焼いた焼き菓子をバスケットに詰め、淹れたばかりの香草茶を水筒に入れ、身軽な外出着に着替えて部屋を出た。

 軽い足取りで中庭を歩いていると、普段はひっつめていることが多いが今日は首元でまとめただけの長い髪を、少し強く吹き抜けた風が揺らしていく。風に乱れた髪を押さえ、気付かないうちに大分伸びた髪の毛に軽く首を傾げた。最後に髪を切ったのがいつだったか考えて――――思い出せないことに、ため息を吐いた。

 自分の髪の色があまり好きではないアルレイシアは、好んで髪を伸ばしたりはしていなかった。正装時は髪を結い上げるのが決まりのため、あまり短くすることは出来ないが、それでも結い上げられる最低限の長さに保っていることが多い。それにもかかわらず、ここ最近は研究のためだけではなく、ろくに部屋から出ることも出来ない状態が続いていたため、すっかりほったらかしになっていたのだ。

「そろそろ切らなければいけないわね」

 長いと手入れも大変だ。普通の貴族の姫君たちのように熱心に手入れをするわけではないが、それでも一応国王陛下に面会することもある立場上、あまりみっともない身なりではいられない。そのため、必要最低限の身だしなみには気を遣っていた。最も妹のユースティティアなどに言わせると、アルレイシア程度の気遣いではちっとも足りないらしいが、彼女としてはこれ以上そんなことにかける時間を増やすつもりは無かった。

 次の休息日には実家に髪を切りに行こうと決め、気を取り直してバスケットを持ち直すと、のんびりと歩き出した。

 研究院の出入口で門番に軽く挨拶をし、久しぶりに王宮の外へと足を向ける。

 春の陽射しは心地よく、アルレイシアはようやく取り戻した平穏な日常に、知らず知らずのうちに笑みを浮かべた。こんな風に穏やかな休日の午後を楽しむことなど、社交界デビューを果たし、公爵家の相続人となり鬱陶しい求婚者たちが連なるようになってからは初めてのことだ。すっかり社交嫌いになり研究院に閉じこもりだしてから、もう年単位の時間が過ぎている。

(こんなに簡単ならば、もっと早くラウダに頼むべきだったわ。全く、今までの苦労が馬鹿みたい)

 そんな風にジールの王太子のことを考えて、アルレイシアは研究のためにすっかり記憶の彼方へやっていた舞踏会の時のことを思い出した。

 足の怪我であまり動き回ることが出来なかったこともあり、すっかり失念していたが、ラウダトゥールにはきちんと一度話をしなければならなかった。そもそも王太子の召致に応じない、などというとんでもない無礼を働いた最初の婚約者候補のことも確かめなければならない。そして何より、ラウダトゥールによって一夜のパートナーとして偽婚約者候補に仕立て上げられたアストラスと妹のことに関しても、きちんと彼から説明を受けた上で、必要ならば釘を刺さなければならなかった。

 頭の中ではそんなことをつらつらと考えてはいたが、そんな物思いも眉間の皺も、爽やかな春の風に吹き飛ばされていくようだった。時々立ち止まり、春を知らせるように咲き誇る美しい花々を眺めたりしながら城壁の外へと続く遊歩道を歩いていると、突然背後から確かめるように名前を呼ばれた。

「シア?」

 その声に聞き覚えを感じつつも、すぐに誰であるかを思い出すことが出来ずに訝しく思いながら振り返ると、予想外の人物の姿を見つけて目を瞠った。

「まあ、ウィル?」

「ええ、お久しぶりです、シア。珍しいですね、貴女が研究院から外出するなど。どういう風の吹き回しですか?」

「あら、失礼ね。私だって、出かけられるならば外に出たくなることもあるわ。今まではそう思っても出来なかっただけよ。まるで私が出歩くのがおかしいみたいに言わないでちょうだい」

「ああ、すみません。そうでしたね、貴女のご苦労を分かっていながら、つまらないことを言いました」

 随分と久しぶりに目にする背の高い青年が、軽妙な口調で言葉を交わしながら歩み寄って来る。幼馴染という気安い間柄のため、交わす言葉に遠慮はないながら、相変らず妙に畏まった口調で話しかけてくるウィルトゥースに、アルレイシアは気づかれない程度に苦笑した。そして緩やかに目を瞬くと、記憶よりも高い位置にあるような気がする青年の顔を見上げた。

「どれくらいぶりかしらね? また背が伸びたんじゃない?」

「最後にお目にかかったのは、確か新年の祝賀の際でしたよ。かれこれ四ヶ月ぶりですね。そうは言っても、この年でその程度の時間で、目に見えて分かるほど背が伸びたりはしませんよ。まあ、多少は伸びたかもしれませんが、成長期はもう終わりました」

 苦笑とともに言われて、そうだったかと首を傾げる。そうして考えてみれば、ウィルトゥースは彼女より二つ年下なだけなのだ。今年十九歳になるはずで、そう考えれば確かに成長期はそろそろ終わりだ。

 おそらく会う度に彼が大きくなるような気がするのは、騎士として鍛え上げられた体躯ゆえであろう。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返して、女性としては背の高いアルレイシアより更に頭一つは背の高いウィルトゥースの、柔和な笑みを浮かべた顔を見上げた。陽に透ければ金にも見える煌く琥珀色の髪に縁取られる顔立ちは、彼の立場から考えれば驚くほど柔らかで優しげな美貌だ。それでも日に焼けた肌と、細身ながらきちんと計算して造りこまれた精悍な体、そして柔和な美貌にそぐわない毅い光を宿す琥珀色の瞳が、彼がこの国一の騎士であると言うことを知らしめている。

「そうね。考えてみれば貴方ももうすぐ十九なのだったわ。閉じこもって過ごしていると、時間の感覚が鈍くなるからいけないわ。気をつけなければ」

「そうですね。こうしてまた外に出てこられるようになったのでしたら、久々にお邸に帰られたらどうです? 先日ティーアにお会いしましたが、ちっともシアが帰ってこないと嘆いていましたよ」

「あら、そうだったかしら……言われてみれば、確かに家に最後に帰ったのは、貴方に会ったよりも更に前のような気もするわ」

 再び首を傾げて考え込めば、そんなアルレイシアの様子にウィルトゥースは苦笑を浮かべた。そんな彼の様子に少しばつが悪くなって、視線を逸らし。そして話を逸らす意味も込めて、ふと気付いたことを口にした。

「そういえば、ウィルはこんなところで何をしているの? この時間は訓練中ではなかった?」

 話を逸らすアルレイシアの意図に気付きながらそれを指摘することなく、ウィルトゥースは僅かに苦笑を深くしただけで彼女の問いに答える。

「今日は第一騎士団の一、三、五部隊は休息日なんです。なので訓練は休みでして」

「そうなの? なら――――」

「ウィルトゥース殿」

 アルレイシアが最後まで言い終わらないうちに、ウィルトゥースの背後から彼を呼ぶ声が聞こえた。そのつい最近聞き知った聞き覚えのある声に、アルレイシアは言いかけた言葉を噤んだ。ウィルトゥースも彼女が口を噤んだのを見て、小さく目礼にて非礼を詫びると振り返る。

「ウィルトゥース殿、お待たせをして申し訳ない――――アルレイシア姫?」

 ウィルトゥースを呼びながら近付いてきた人物は、その声から予想した通り先日の舞踏会で出逢ったアストラスだった。恐らくウィルトゥースの影になって気付かなかったのだろう、振り返ったウィルトゥースの向かいに立つアルレイシアの姿を認め、彼は驚いたように切れ長の翡翠の瞳を瞠った。

「先日はお世話になりました、アストラス殿。きちんとお礼にも伺わず、申し訳ありません」

 簡素な外出着の下衣を摘まんで優雅に礼をするアルレイシアに、アストラスも居住まいを正して礼を返した。そんな二人を見比べて、ウィルトゥースは少し驚いたような表情を浮かべる。

「シア、アスト隊長と知り合いだったんですか?」

 どこかで聞いた様な言葉に、堪える間もなくアルレイシアの唇から笑が零れる。

「ええ、この間の舞踏会で……それよりも、ウィル。今は貴方が隊長でしょう?」

「そうです、ウィルトゥース殿。もはや私は騎士ですらありません。そのような言葉は控えられるよう、気をつけてください」

 二人がかりで窘められて、ウィルトゥースはばつが悪そうに騎士にしては少し長めの前髪をかきあげた。けれどすぐに、開き直るようににっこりと満面の笑みを浮かべる。

「申し訳ありません、お二人とも。ですが、私にとってアスト隊長は騎士として尊敬し、目標とする方なんです。本当はもっと長く隊長と呼んでいたかったんですよ」

「まあ」

 おどけたような口調の中に紛れもなく本気を滲ませたウィルトゥースの言葉に、アルレイシアは少しだけ驚いたように目を瞠った。だが、そんな表情をすぐに笑顔に変え、相変らず無表情ながら少し困ったようにも見える、ウィルトゥースとほとんど変わらない背の高い青年を見上げた。

 そんなアルレイシアの表情を見たウィルトゥースは、それなりに長い付き合いながらも、他人には滅多に社交辞令以上の笑顔を見せない彼女の本物の笑顔に軽く首を傾げた。

「それにしても、シア。アストた……アスト殿とは、本当にただ舞踏会で会っただけなのですか?」

「ただ舞踏会で会った、と言うか……彼はティティの友人らしいわ。舞踏会でダンスのパートナーをしていただいたのだけれど、その時に足を怪我してしまって、手当てをしてもらったの」

「手当て……? 先日の舞踏会?」

 ごく小さな声でぶつぶつと呟いていたウィルトゥースは、形の良い顎を手袋に覆われた骨ばった指で撫で、それから何かを思いついたように人の悪い笑みを浮かべた。

「なるほど……と言うことは、ウォービスとルクリーが言っていた、アスト殿の逢引相手は貴女だったんですか」

「あ、逢引き……?」

「ウィルトゥース殿、ですからそれは誤解だと……」

 言われた言葉の意味が分からないとでも言うように、きょとんと鸚鵡返しにしたアルレイシアを遮るように、アストラスが苦味を浮かべた表情でウィルトゥースを見やった。そんなアストラスの表情にますます面白そうな顔をして、ウィルトゥースは全く彼の発言を聞いていないような言葉を続ける。

「夜の王宮の庭園で二人きり、しかもシアはアスト殿に抱き上げられた状態だったとか。全く、水臭いですよ、シア。確かにアスト殿ならシアの婿候補として申し分ない相手でしょうが、そうならそうと教えてくだされば――――」

「ウィル! いい加減にしろ!」

 にこにこと言うよりはむしろにやにやと言った方が正しいような、誰かを彷彿とさせる悪戯めいた笑みで言い募るウィルトゥースに、とうとう我慢の限界を超えたようにアストラスの叱責が飛んだ。しかし怒られた当の本人は全く恐れる様子もなく、楽しげにわざとらしく肩を竦めるだけだ。

 そんなやり取りを見て、ウィルトゥースの普段はしないような人の悪い発言の意図に気付いたアルレイシアは、怒るよりも呆れてしまった。

 何のことはない、あの夜の庭園で会った二人の兵士と同じ、悪ふざけなのだ。この無愛想で無表情な元隊長殿はよっぽど部下に好かれていたのだろう。先ほどまでの丁重な態度を崩した、まさに鬼隊長の名に相応しいような厳しい表情で怒られていながら、ウィルトゥースは実に楽しげな様子だ。相手の怒りもどこ吹く風、にこにこと笑顔を浮かべるだけでなく、その怒りが自分に向けられたらと思うだけで背筋が震えるような様子で怒っているアストラスを前に、嬉しげに話をする余裕すら持ち合わせていた。

「そんな事を仰られても、隊長。ご自分が女性と噂になるなんて、どれだけ珍しいかお分かりですか? 我々は常々心配していたのですよ。隊長ってば女性にはそこそこおもてになるのに、ちっとも恋人を作ったりなさらないし。騎士団に居た頃はそれなりに周りとの付き合いもありましたから、妙な疑いを持たれたりはしてませんでしたが、貴族社会に戻ってまでそれじゃ、男色家だなんだと疑われるんじゃないかと。どうせ、今までの調子で女性からのお誘いなんて一刀両断しているんでしょう?」

「大きなお世話だ。大体、何でお前たちにそんな心配をされなきゃ――――」

「嫌だな、当たり前じゃないですか。我々の尊敬する隊長殿が、社交界の狸どもに馬鹿にされるなんて、考えただけでも腹が立ちます。ですから、この際女性の好みに関しては目を瞑りますので、きちんと隊長につりあう女性を妻に迎えるべきだと」

「少しばかり聞き捨てならないわね、ウィル」

 怒りを通り越して呆れだしたアストラスと、相変らず嬉しげなウィルトゥースのやり取りを聞くともなしに聞いていたアルレイシアだったが、耳についたウィルトゥースの発言には思わず口を挟まずにはいられなかった。

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