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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第一章~王子の策略と舞踏会の夜
8/34

<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、宰相補佐官。ヒーロー。

ラウダトゥール:王太子。シアの乳兄弟。

ユースティティア:シアの上の妹。

フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。

「アストラス殿?」

 考え事をしていたために僅かに変化したアストラスの足取りに、気付いたアルレイシアは小さく首を傾げた。月明かりの下見下ろしてくる表情は見えにくいが、恐らくそう大きく変化はしていないようだった。だからこそ、歩みの変化が気になったアルレイシアだったが、アストラスはそんな彼女の問うような眼差しに僅かに首を振っただけだった。

「いえ、何でもありません、失礼いたしました。急ぎましょう」

「あ、ええ。もうすぐそこです。そこの建物の脇の小道を右に、壁沿いに進んでください。花壇の前のテラスから中に入れますから。あ、あと窓の下には穴が空いてますから、歩く際は気をつけてください」

「穴? まさか、落とし穴ですか?」

 ざっと見回した限りでも研究院の中庭は王宮内ほどではなくとも、きちんと手入れされて整っていた。その庭に穴を掘るなど庭師が嘆きそうだと、アストラスは他人事ながら顔を顰めた。そんな彼の表情に気付いた訳ではなかったが、アルレイシアは彼の物言いに少し苦笑を浮かべた。

「落とし穴とは言いえて妙ですわね。正確には堆肥を溜めるための穴です。花束を燃やすのが忍びないと庭師が言うので、ならばと窓の外に穴を掘って貰ったのですわ」

 その言葉に頷きながら、アストラスはアルレイシアの言葉に意図的に排除されたことに気付いた。だが、それを追求するようなことはせず、言われた通りの小道を足早に歩く。すると、確かにすぐに彼女の言ったとおりの光景が見えてきた。

 恐らく中は研究室なのだろう、あまり光が入らないように取られた小さめの窓と、その下に掘られている深めの小穴。道なりからは外れているとはいえ、闇夜では立派に落とし穴の役目を果たしそうなそれを一瞥して、そのままその先にあるテラスに向かった。そこには季節の花や香草に溢れている小さいながらも立派な花壇と、その前にテーブルセットが置かれていた。

 アストラスがカーテンの掛かったテラス窓に歩み寄ると、アルレイシアは服の隠しから窓の鍵を取り出した。そして抱えられたままという不自由な体勢ながら器用に窓の鍵を開ける。カチャリと鍵の開く音がしたのを確認してから、アストラスはテラスへの出入口代わりになっている両開きの窓を引いた。そのまま室内へ足を踏み入れようとして、部屋の様子に気づき、足を止めた。

 カーテンの向こう側に広がる室内は、狭いながらもアルレイシアの私室のようだった。それはいいのだが、問題は室内に設えられているあまり大きくはないベッドの存在――――即ち、この部屋は私室は私室でも、寝室を兼ねていた。もちろん、ここは研究院だ。ベッドは泊り込むことを想定して置いてあるのだろうし、部屋内は貴族の邸の寝室のように眠ることだけを目的としていないことは、部屋の調度品からも分かったのだが。

 思わず二の足を踏んだアストラスに、だがアルレイシアはそんな彼の様子に気づくことなく呑気にベッドを指し示した。

「こんな所まで長々と運んでくださって、ありがとうございました。あの、お手数ですけれどあそこに下ろして頂けるかしら」

「……分かりました」

 一瞬だけ、なんとも言い難いような複雑な表情を浮かべたアストラスの視線にアルレイシアは目を瞬いた。しかし彼はそのまま何も言わずに室内に足を踏み入れ、アルレイシアの望みどおりその体を丁寧にベッドの上に降ろした。馴染んだ柔らかな感触に体を受け止められて、アルレイシアはホッと肩に入っていた力を抜いた。そんな様子を見るともなしに見ていたアストラスは、失礼にならない程度よう気をつけながら視線を室内へと走らせた。

「足の手当てをいたしましょう。傷薬と包帯はございますか?」

「あ……薬箱がそこの戸棚に」

「こちらですか?」

 答えてしまってから、アルレイシアは自分の失言に眉を顰めた。手当てぐらい自分で出来ると断るべきだったのだ。落とした視界に入ったドレスとは異なる黒い布地に、未だに借りっ放しだったことに気付いて、慌てて羽織っていたマントを脱いだ。そして手早くかつ丁寧にマントを畳んでいる間に、室内がふっと明るくなったことに気付いて顔を上げると、薬箱を手にしたアストラスが光源石によって室内用のランプに光を入れたようだった。

 彼は手にした親指の爪ほどの大きさの石を、月の光に透かして目を細めていた。

「いい石ですね……この石は紅玉ルビーですか? これは神殿で造られているものとは違いますね。どちらで手に入れられたのですか?」

 神殿の神官たちによって造られる光源石は、混ざり物で質の低い安価な水晶などを使って造られているものが多い。そのため、使い捨てるのが一般的だった。もちろん、きちんと代価を払えば純度の高い石を使って造る事も出来なくはなかったが、高価なため誰にでも手に入れられるものではなかった。最も、彼女の財力ならば手に入れるのは全く難しくは無かったが、この石はアストラスの言うとおり神殿で造られたものではなかった。

「それは私が王立研究院所属になった時に、妹に貰ったのです」

「妹? ああ……フェレンティーア姫のことですか。確か彼女は魔力持ち――――『真理を知るもの(アウグスタ・ウェーリタース)』でしたね。なるほど、この石は彼女が造られたのですか」

「妹をご存知なのですか?」

 アルレイシアのたった一言であっさりと納得して見せたアストラスの言葉に、目を瞠らずにはいられなかった。フェレンティーアと直接に面識を持っている人間など、家族と王族以外ではごく僅かのはずだった。

 驚きを露わにしている彼女の様子に、アストラスはその淡々とした無表情を軽い苦笑に変えた。

「貴女方ファーブラー家の姫君たちは、ご自分で思っておられる以上にご高名ですよ。特に声高に喧伝しなくとも、王宮では良くも悪くも注目されています。フェレンティーア姫のことも、少し世事に詳しい者ならば知っているでしょう。我が国には『聖女』もおらず、フェレンティーア姫のように高い魔力をもつ『神のいとしご』は珍しいですから」

 ごく当たり前のように語られた言葉に、アルレイシアは最早ため息を零すことしか出来なかった。

 末妹のフェレンティーアはまだ僅か十三歳。社交界に出る年でもなく、めったに人前に出ることすらないのに、その名を知られていると言うのだ。

「そうですか……それは、知りませんでした。教えてくださり、ありがとうございます。気をつけるようにいたしますわ」

 きゅっと眉を寄せて少し表情を厳しくしたアルレイシアの足元に、光源石を元に戻したアストラスが跪いた。そして僅かにその柳眉を顰める。

「気をつける、ですか?」

「ええ。ティーアが『アウグスタ・ウェーリタース(神の真理を知るもの)』であることがそれほど知られているならば、今後あの子にそれを目的に近付いて来る者もいるでしょう。その事をきちんと本人に教えて、対処するように考えさせなければなりませんから」

 アルレイシアの瞳が怜悧な輝きを帯び、空を睨んだ。彼女にとって妹たちは守るべき庇護の対象であり、特に、母親を生まれて間もなく亡くした年の離れた妹のことには常々心を配っていた。

 妹たちが自分の意思ですることに口を挟むつもりはない。それでも、母親のいないファーブラー家の実質的な女主人として、幼い頃から過ごしてきたアルレイシアの妹たちに対しての思いは、姉と言うそれだけではなく、母に近い心境すら抱いている。実際、妹たち、特に下の妹フェレンティーアに対する彼女の態度は、姉と言うよりは心配性の母親のようだとラウダトゥールに揶揄されることもしばしばだった。

 次女のユースティティアはアルレイシアとそう年も変わらず、気侭な蝶の様にひらひらと生きているように見せかけて、実はとても賢く抜け目なく周りを見る目を持っていることを知っている。そのため、それほど心配はしていなかった。また、いつ頃からかアルレイシアにははっきりとはしないものの、ユースティティアが彼女に対して微妙に距離を取ろうとしていることに気づいてからは、干渉し過ぎないように気を使ってもいた。

 そのことに寂しさを感じてもいたが、アルレイシア自身も自分とは全く異なり、名門貴族の姫君として恥じない、美しさと賢さを持って社交的に育った華やかな大輪の華のような妹に、言いようのない劣等感を感じていたのも事実だった。もちろん、アルレイシアにとってユースティティアが大切な妹であることには、なんら変わりはないのだけれど。

 一方、フェレンティーアは三人姉妹の末子と言うことで、父親や周囲の人間に甘やかされて育てられた部分があり、他人の悪意や利害が絡んだ人間関係に敏くなかった。

 姉の贔屓目を抜きにしても、少し我が儘ながらも憎めない、人から愛される明朗快活な少女に育ったと思っている。だが、如何せんまだ幼いと言う事と、その紅蓮の如き赤毛が表すような直情的な気性の激しさを持ち合わせていた。自分に向けられる悪意や嫉みには疎いが、自分が大切にする人間に向けられるそれには酷く敏感で、大切なものを傷つけられることを良しとしないのだ。

 妹のそんな部分がなおのこと、必要以上にフェレンティーアに対してアルレイシアが過保護にしてしまいそうになる原因でもあった。だが、例え過保護だと責められるとしても、アルレイシアとしては、可愛い妹がその生まれ持ったもののために他人の悪意に晒されたり、利用されたりすることを黙って見過ごすことはできなかった。

 そんな風に妹たちのことをつらつらと考えていたため、ふと足に触れた硬い指の感触にはっと意識を現実に引き戻された。見下ろせば、中庭でしていたようにアストラスが膝を就いて彼女の足を取っていた。

 大きな手が灯された明かりで傷を確かめるために、僅かに足の角度を変えた。踵を持っていた指がするりと足の裏を撫でるように滑り、爪先に触れる。その指の感触に意図しないまま背筋がぞくりと震え、思わず零れそうになった声を慌てて唇を噛むことで堪えた。

 そんな彼女の反応には全く気づいた様子のないアストラスは怪我の具合を確認し終わると、部屋にあった水差しからたらいに水を移し、慣れた手つきで丁寧に傷口を洗った。そして薬箱から躊躇することなく薬を選び出し、傷口にそっと塗り付ける。

 薬草をすり潰して少量の水で溶いた粘度の高い薬液で濡れた冷たい指先に触れられ、再び背筋を震えが走った。覚えのないその感覚に、アルレイシアは思わず手当てをする指から逃れるように足を浮かせてしまう。

「やっ……」

 意識せず漏れた声が含むものが拒絶だけではないことに、自分のことながら驚きを覚える。跪いているため下から見上げる格好になったアストラスの瞳が、驚いたように僅かに瞠られた。彼のその反応に、なおのこと自分の醜態を思い知らされたようで、羞恥に頬が熱を持った。そんな彼女の挙動を観察するように見つめてくる、その深い翡翠の瞳に宿るいろが何なのか分からないまま、アルレイシアはその眼差しから逃げるように顔を俯けた。

 ふっと微かにアストラスの唇から零れたため息にすら反応して、びくっと剥き出しの肩を震わせたアルレイシアに気付きながら、再び彼の手が伸ばされた。しっかりと作り込まれた大きな手が、乱暴にならないよう気を遣いながらも逃れられない力で、逃げた細い足首を捕らえる。反射的に、拒絶するように逃れようと動く足をがっちりと捕まえ、薬液で濡れた指先が再び爪先をそっと撫でた。

 その触れ方に、何故か分からないながらも、傷の手当以上の意図があるように感じられて、アルレイシアの肩が小刻みに震える。抱き上げられてその腕に身を任せている時ですら感じなかった奇妙な熱を、ただ傷口に触れるだけの指先に感じる理由が分からない。

 手袋を外して直に彼女の肌に触れる指が、冷たい薬液を纏っているにもかかわらず、驚くほど熱かった。触れ合った僅かな部分を通して感じる互いの熱が、次第に同じ温度になっていくようで。そのことに、理由も分からないまま恐怖を覚えた。そもそもアルレイシアは、ごく一部の気心が知れた男性以外とこうして至近で接すること事態、今までになかったのだ。忘れていた緊張までもが甦り、アストラスの表情を確かめることも出来ない。

 混乱と羞恥の極みの中、怪我の手当てをしてもらっている、という現状の認識だけは働いており、口を開いて拒絶の言葉を言うことも出来ないまま、身を縮めて必死に体が震えるような熱を堪える。震える指先でベッドの掛布を、皺が寄るもの構わずぎゅっと強く握り締めた。そうしながら、俯いてただひたすら、一刻も早く手当てが終わるのを祈るように待つしかなかった。

 硬い指先が傷口を撫でるように触れた後、ガーゼを当てられて包帯を巻かれる。

 その様子を見ることなく音と感触だけで察する。幸いなことに、中庭で手慣れていると感じたアストラスはその印象のままに、手早く手当てを施していく。実際にかかった時間は恐らくそれほど長くはなかったのであろうが、アルレイシアにはその何倍も長く感じられた。

 手当てを終えて薬箱を閉じる音が静かな室内に異様なほど大きく響き、ようやくアルレイシアは体に入った力を抜くことが出来た。握り締めたこぶしを緩め、少しこわごわと顔を上げた。開けた視界に真っ先に目に入ったのは、真っ直ぐにじっと見つめてくる翡翠の眼差しだった。

 射竦められるような瞳に、ぎくりと自分で自分の反応に驚くほど、大きく肩が揺れる。そこに現れているのは、自覚がないままの怯えだった。まるで自分が肉食獣に狙われる小動物になったような心地を味わいながら、合わせてしまった視線を逸らすことが出来ない。その感覚に既視感を覚える。

 次の瞬間、彼女の怯えに気づいたように、視線を合わせたままの翡翠の瞳に宿る光がふと緩んだ。

 そのことにほっとしたのも束の間。長い指を持つ大きな手がゆるりと包帯の上から傷のある爪先を撫で、アルレイシアの体はまるで陸に上げられて跳ねる魚のように大きく震えた。そんな彼女の反応に気づかないはずがないにもかかわらず、アストラスは意に介した風もなく、包帯を撫でる手はそのままに変わらない淡々とした口調で尋ねた。

「痛みますか?」

 生み出される緊張感などないもののように、異様なほど静かな口調で尋ねられ、アルレイシアは咄嗟に答えることが出来なかった。何よりも緊張と混乱でかき回されたような脳では、掛けられた言葉の意味をすぐに理解することが出来なかったのだ。

 張り詰めるような緊張の糸によってぐるぐると回る頭と同じように、視界も回りそうになるのを必死に堪えながら、彼が発した言葉を噛み砕き。ようやくそれが、手当てが施された傷に関してだと理解する。けれど強張る体で言葉を紡ぐのは容易ではなく、ぎこちなく小さく首を振ることしか出来なかった。

 そんなアルレイシアの僅かな反応も見逃すことなく、アストラスは安心したように小さく微笑んだ。そして爪先を撫でていた手をゆっくりと離した。

「あまり深くないとはいえ、怪我をなさった場所が場所ですから、無理をすれば治りが悪くなります。二、三日は歩き回らず、大人しく過ごされてください」

 気遣う言葉にもただ頷きだけで応えるアルレイシアの失礼な態度に、気分を害した風もなくアストラスはしなやかな身ごなしで立ち上がった。そして畳んであるマントを手に取り、身に纏う。

「それでは、お大事になさってください」

「あ、あの……」

 何の未練も無い様子で辞去の意を述べたアストラスに、ようやく口を開ける程度には動揺の去ったアルレイシアは慌てて声を掛けた。

 思い返せば最初から最後まで面倒を掛け通しの相手に、きちんとした詫びも礼も伝えてないことに思い至り、情けなさに唇を噛む。それでも伝えるに遅いということは無いだろうと、精一杯の誠意を伝えるためにも立ち上がろうとした。だが、そんな彼女の動作の先を読んでいたのだろう、大きな手に肩を押さえられることによって阻まれた。

「折角手当てをしたのです、立ち上がって歩き回るのは止められた方が良い。お見送りは結構ですから」

 相変らず無表情ながらも、その声は穏やかだった。掛けられる言葉に、ますます居た堪れなさが強くなる。

「でも……あの、本当にご面倒ばかりお掛けして、申し訳ありません。手当てまでしていただいて、ありがとうございました。せめて、何かお礼を……」

「お気になさらず。迷惑などと言うことはございません。ああ、でも」

「なんでしょう?」

 無意識に胸の前で手を組んで、座ったままの姿勢のため大分高い位置にある翡翠の瞳を見上げた。表情は少なくとも、その瞳には強い意志の光と様々な感情が浮かぶのを、もう知っていた。光源を背に立つ青年の顔は、見上げる姿勢では逆光でよく分からなかったが、その眼差しの毅さだけは感じ取ることが出来た。

「ご迷惑でなければ、今度、アルレイシア姫の書かれた論文についてお話を聞かせてください」

「えっ?」

 そんな事が礼になるのかと目を瞬くアルレイシアに、アストラスはしっかりと力強く頷いた。だから、アルレイシアも戸惑いながらも結局了承する。

「そんなことでよろしいのでしたら」

 研究者にとって自分の研究に見識のある人間と話すことを厭う者など、よっぽどの人間嫌いな者ぐらいであろう。アルレイシアは社交嫌いではあっても、人間嫌いではない。人と話すことを苦痛に感じたりはしないし、むしろアウタディエースのように、彼女の研究に興味を持ってくれている人間と語り合うことは好きであった。

 最初に申し出られた時は、何の社交辞令か嫌味かと疑ったが、目の前の青年と過ごした僅かな時間で、彼がそんなことを言う人間ではないことは伝わってきた。ユースティティアのことは変わらず気懸かりだったが、それでも、これだけ世話になった相手に礼もせずにいることは、彼女自身の矜持が許さなかった。だからこそ、広間では躊躇ったその申し出を、今は拒むことができなかった。

 その時のことを考えて、アルレイシアは無意識のうちに嬉しげに微笑んだ。研究は、彼女にとって何よりも楽しい、まさに生きがいなのだ。

「実は今、新しい論文を書いているところなのです。ですから、すぐには無理ですけれど、よろしければ書きあがったものをお見せいたしますわ。その際には、とっておきのお茶とお菓子を用意させていただきます」

「ありがとうございます。楽しみにしております」

「ええ、こちらこそ」

 逆光ではっきりとは見えないながらもアストラスが微笑んだことが気配で分かり、アルレイシアは笑顔を返した。アルレイシアには彼の表情が見えなくとも、彼には彼女の表情ははっきり見えているだろう。そう思えばこそ、出来るだけしっかりと意識して笑顔を浮かべる。

 そんなアルレイシアに何を感じたのか、アストラスの翡翠の瞳が小さく揺れ、アルレイシアの細い肩を掴む手に僅かに力が籠もった。しかし彼女がそれを知覚するより早く、それは消え、ゆっくりとした動きで手は離れていく。剥き出しの肩に触れた空気の冷たさに、意識しないままその肩が小さく震えた。

 離れた手が何かを堪えるように強く握りこまれ、前かがみになっていた姿勢が正された。その間も、アストラスの視線がアルレイシアから逸れることは、一瞬たりともなかった。

「それでは、失礼いたします」

 アルレイシアを見つめたまま二歩ほど後退ったアストラスは、しなやかな所作で彼女に礼をして背を向けた。先刻までアルレイシアの肩を温めていた黒いマントが優雅に翻り、決して急いでいる風ではないのに、あっという間にテラスに出て行く広い背に、彼女は思わず言葉を掛けた。

「本当にありがとうございました。また、今度」

 一瞬だけ足が止まり、振り返ろうか躊躇するように頭が揺れた。だが結局振り返ることなく、アストラスは礼を失しない程度に頭を下げて、今度こそ部屋を後にした。

 テラスが閉まる音が室内に響いた。風のように去っていった気配に息を吐いたアルレイシアは、そこに残る温もりに戸惑うように、手袋をしたままの手で自分の肩を抱き、目を伏せると一度、緩く頭を振った。

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