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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、宰相補佐官。ヒーロー。
ラウダトゥール(ラウダ):王太子。シアの乳兄弟。
ウィルトゥース(ウィル):第一騎士団の部隊長。シアとラウダの幼馴染。
アルレイシアの祈りが通じたのか、歩く早さを上げたアストラスはあっと言う間に王宮の外回廊を抜け、王宮に併設されている王立研究院へ向かう道に入っていた。暗闇の中でも既に、研究院と王宮を隔てる外壁が視認できる距離に、アルレイシアはほっと息を吐く。
だが、普段使う正面玄関への道と異なる道に戸惑ったのか、それまで一切のよどみが無かったアストラスの足取りが緩やかになった。そのことで、アルレイシアは研究院の職員以外が使うことのない道へ彼を誘ったことを思い出し、慌てて抱きついていた腕を放して行き先を指し示した。
「ごめんなさい、ぼんやりしていて――――この外壁の少し先に、職員用の出入口があるんです。中庭にはそこから入れますわ」
アストラスは頷くと、アルレイシアの指し示す先に足を向けた。アルレイシアが予想していたより短い時間で見えてきた正門より簡素な造りの門に、彼女は一瞬だけ首を傾げ、けれどすぐにそれが彼と自分の歩く速さの違いであることに気付いた。
見上げた夜空の月もほとんど動いておらず、アルレイシアと言う荷物を抱え気遣って歩いていながらも、彼女自身が王宮から歩いて来るよりも遥かに短時間でここまで来たことを示している。
そのことに、先刻は動揺のあまり頭から飛んでしまった疑問が再びもたげ、そっと頭上にある顔を見上げる。月明かりに真っ直ぐに前を見据える端整な横顔を見つめた、まさにちょうどその時。まるでアルレイシアの疑問に答えるように、通用門を警護している兵士たちがこちらに気付き、どこか驚きを含んだ声が飛んできた。
「ソーラ隊長!? このようなところで、一体どうなさったのですか? そちらの方は……」
(ソーラ隊長?)
王宮と王立研究院の通用門の警備を務めているのは宮廷騎士団だ。その中でも、王宮内や王宮の敷地内に併設されている王立研究院は、騎士団の中でも実力、名声ともに最も高い第一騎士団が警備を務めていた。
第一騎士団はその性質上、宮廷騎士団に属してはいるが、実際は近衛師団である。任務は王族や王宮の警護が主で、四つ存在する騎士団の中でもまさに栄えぬきの花形部署であるが、その分所属するのが最も大変でもある。貴族しか所属できない親衛隊とは異なり、貴賎を問わず実力があれば所属は可能であるが、その代わり身元を証明する確たる証と後見が必要だった。逆に言えば、幾ら身分が高くとも実力が無ければ所属できず、例え身分が低くとも実力と後見さえあれば所属できるのだ。
もちろん身分の低い者には後見を用意するのが難しいのは事実だが、後見は別に身元が証立たれていれば貴族でなくともよく、他の騎士団に所属している見所のある身分の低い兵士を、既に第一騎士団に所属している者が後見を買って出て在籍させる、と言うのが一番多く取られる方法だった。もちろんその際には騎士団員が身元調査をきっちりと行っており、少しでも不明な点があればそういう者には後見はつかない。
一兵卒であるとはいえ、そんな色々な意味で最もジール国内で名高い騎士団に属する兵士に、彼女を抱きかかえている人物は『隊長』などと呼ばれている。
(この人、宰相補佐官だったわよね?)
例えどれほど優秀であっても、騎士団、特に第一騎士団の務めは他の仕事と兼任できるほど甘い役目ではない。幾ら宰相の息子とはいえ、宰相補佐官と言う役職はお飾りでは貰えない為、当然それをきちんと務めあげているのだろう。何より、ラウダトゥールが彼をそう認めているのだ。ならば、騎士団に所属していることはありえなかった。
アルレイシアがその疑問を口に出すより早く、見上げていたアストラスの無表情が緩み、その顔に暗闇でも明らかな苦笑が浮かんだ。そして彼女に向けるのとは違う、気安い口調で言葉が紡がれる。
「私はもう、お前たちの隊長ではない。その呼び方はいい加減止めてくれ――――驚かせてしまい、申し訳ございません、アルレイシア姫。私は以前、第一騎士団に所属しておりましたので。彼らはその時の部下なのです」
「まあ……」
後半の言葉はきちんとアルレイシアに視線を向けて言われ、アルレイシアは目を瞠った。そして最初に感じた自分の勘が、正しかったことを知った。
「アストラス殿はやっぱり、騎士でいらしたのね。あの広間で初めてお目にかかった時に、そうではないのかと思ったのですけれど。ラウダに宰相補佐官だと聞いて驚きました」
ずっと感じていた疑問が解けたことに嬉しくなって、思わずアルレイシアはそんな言葉とともにくすくすと笑みを零してアストラスを見上げた。そんな彼女の様子に、アストラスのあまり変わらない表情に珍しく驚いたような色が浮かび、それから柔らかな苦笑に変わる。
「一年前までは騎士団に所属しておりましたが、今は宰相補佐官です。最も、そのように仰っていただけるのは光栄なのかもしれませんが」
「たいちょ――――ソーラ元隊長は隊長だった頃とあんまり変わってないですよ。相変らず妙に威圧感ありますし、それで文官です、って名乗られても目端の利く人間なら不審に思って当然ですって。なあ?」
「ああ。ま、でもこんな夜更けに女性と二人で逢引してるなんて騎士団に居た頃はなかったから、隊長も王宮の貴族生活に馴染んではいるんですかね? それにしたって、ここに警護が居る事は知ってらっしゃったでしょうに、逢引なら別の場所でされた方が――――」
「誰が逢引だ、馬鹿者」
柔らかくなった雰囲気に、すっかり無礼講で気安く軽口を叩くまだ若い兵士たちの言葉から、アルレイシアは自分たちの今の姿が他人からどう見えるのかを知り、頬に熱が上るのを感じた。そんな彼らにアストラスの低く威圧感のある叱責が飛び、その声が持つ力に、それまで軽口を叩いていた兵士たちは一瞬で背筋を伸ばして直立した。
「こちらの女性はファーブラー公爵家の姫君だ。怪我をして歩くのに難儀されていたからお連れしたまでで、そのような不名誉な噂を立てることは許さん」
「はっ、申し訳ございません!」
引き際を心得ている彼らは、騎士団仕込の見事な敬礼とともに謝罪を口にした。しかし王立研究院の研究者として今の彼らほどとはいかずとも、普通の貴族より遥かに気安い関係に馴染んでいるアルレイシアとしては、明らかに冗談と分かっている軽口にまで目くじらを立てたりする必要を感じられない。ただ、逢引などと言う慣れない言葉に少し羞恥を感じただけで、怒るほどのことでもなかった。
ぴしりと伸ばされた背と微塵の乱れもなかった敬礼に感心しつつ、頬に自然と浮かぶ柔らかな笑みのまま、アストラスの威圧感にさらされている彼らに声を掛ける。
「この程度のことは、別に気にするほどのことでもありません。私は王立研究院に所属している変わり者ですから。はっきり冗談だと分かっている言葉にまで、怒ったりはいたしません。アストラス殿、彼らもあなたにお会いできて嬉しかったのでしょう。そのように責める必要はありませんわ」
「ですが」
「別に、そのような噂を立てられた訳でもなし、この程度の軽口は軽くいなして終わらせてあげてくださいませ。最も、私以外の貴族の姫君に同じような態度では、問題になることもあるでしょうが」
言い募ろうとするアストラスを、自身こそが軽くいなしてアルレイシアはくすくすと笑いながら、それでも、直立不動のままの兵士たちに釘を刺すことは忘れなかった。そんな彼女の言葉に彼らはぶんぶんと大きく首を縦に振って、どこか縋るような目で渋面を作るアストラスを見つめた。二人の兵士のそんな視線と、愉しげな光を浮かべるアルレイシアの眼差しを一身に受け、アストラスは大きく肩で息をついた。
「……今宵は姫に免じて、お言葉の通りに致します。お前たち、アルレイシア姫の寛大なお心に感謝しろ。但し、二度とさっきのような軽口は許さん」
「はっ! お心遣い痛みいります」
再び敬礼した二人は、ようやくほっと体に入っていた力を抜いた。そして先刻アストラスに軽口を叩いた方の青年が、にこにこと笑みを浮かべてアルレイシアを見た。
「いや~、寛大な姫様で助かりました。怒られると分かってても、ソーラ隊長の顔を見ると、どうも軽口が言いたくなるんですよ。特に堅物の隊長に女性の影などあった日には、以前でしたら宿舎で話題になること確実ですから」
「何せ隊長だからな。あ、ちなみに姫様、隊長は年よりも老けて見えるし、愛想は悪いし、無駄に威圧感はあるけど結構いい人なんですよ。まあ、次男なのが玉に瑕ですけど、多分出世も見込めるし、割合お買い得ですよ。よければ考えてみてあげてくださいね~」
口々に言われる言葉の内容に、さすがのアルレイシアも目を白黒させる。けれど彼らの言葉は目の前の青年への親愛に満ちており、不快感は感じなかった。
「お前たち……」
先ほどよりも更に低い声と苦虫を噛み潰したような表情に、二人の兵士は少し腰が引けながらも果敢に口を開く。
「だって隊長って、騎士団に居た頃も随分女性にもててたのに、今までほとんど女性の影がなかったじゃないですか! それなのに幾ら舞踏会とはいえ、こんな夜中に女性と二人きりでいるなんて。珍しい自覚がないんですか!?」
「そうですよ。十七歳の若さで叙勲されて、第一騎士団第一部隊長まで務め、現在は宰相補佐官! 女性にもてない訳がないのに、まったく見向きもしないから、周りの人間から余計な憶測されるんですよ。それが嫌ならとっとと特定の相手を決めてください。そしたら皆で祝いに駆けつけますから!」
「そうそう」
「…………」
「ふ……ふふふっ」
じろり、と視線で人が殺せるならまさに射殺しそうな翡翠の瞳に睨みつけられても、へらりと笑ってかわした青年たちの悪びれない様子に、堪えきれずに再び吹き出したアルレイシアの笑い声が、しんとした夜の闇に響いた。くすくすと肩を揺らして笑う彼女に、アストラスは最早諦めたように大きなため息でも吐くしかなかった。
「ご、ごめん、なさい。でも、私、騎士団ってもっと規律正しくて厳しいところなのかと思っていたのですけれど。みなさん、随分と仲がよろしいのね」
何せ、元とはいえ上官にこの口の利きようである。彼らの様子からも、こんなやり取りは恐らく、日常茶飯事だったのだろうということが察せられた。
「当然、厳しくすべきところは厳しいです。ですが、そればかりでも駄目ですから。上の人間にもよりますが、時と場合による部分が大きいです」
「それは、そうでしょうね」
「ええ、そして現在彼らは職務中です。ウォービス、ルクリー。今夜の件は、後でウィルトゥース殿に報告しておく」
渋面からいつもの無表情に立ち戻り、アストラスは淡々と青年たちにそう宣告した。その宣言に、二人は一瞬にして表情を引きつらせた。その変わりように、アルレイシアは必死で笑いを噛み殺す。さすがに、今笑うのは気の毒だという気が働いたのだ。
「ええっ!?」
「当たり前だ、馬鹿者。宿舎の罰掃除を覚悟しておけよ。では、参りましょう」
悲鳴を上げた二人の兵士に頓着することなく、アストラスは腕の中のアルレイシアの体を、丁寧に抱え直した。そんな彼の仕種にも今は、兵士たちもからかいの言葉を飛ばすことは出来なかった。代わりに彼らの唇から零れるのは、情けない懇願である。
「見逃してくださいよ~、隊長~」
「何度も言わせるな、私はもう隊長ではない」
ばっさりと切り捨てられ、二人はがっくりと肩を落とした。
そんな二人からは、歩き出したアストラスの表情は窺えないであろうが、見上げるアルレイシアの瞳にはしっかりと、彼の顔に浮かぶ苦笑を見ることが出来た。
「本当に、ウィルに伝えるのですか?」
「ええ、それは、そのつもりですが……アルレイシア姫はウィルトゥース殿とお知り合いなのですか?」
ウィルトゥースとはアストラスの後に第一部隊長を拝命した騎士である。
アストラスのその問いに、彼女は軽く肩を竦め苦笑してみせた。
「まあ、アストラス殿。私を誰だと思っていらっしゃるの。ウィルトゥース・プロバットの後見を務めているのが誰か、ご存じないわけではないでしょう?」
「ああ……」
言われて思い出した、と言うように、アストラスはすぐに合点がいった表情で頷いた。
ウィルトゥース・プロバットは名立たる第一騎士団の中でも、団長ですら差し置いて、ジール王国内で最も有名と言っても過言ではない騎士だった。
何せ、彼は歴代の最年少である十五歳にて叙勲を受け騎士になり、その二年後、僅か十七歳にして第一部隊長に任ぜられたのだ。第一騎士団に所属していることが示すように、当然の如く彼がそのような扱いを受けるのは、その抜きん出た技量からである。現在弱冠十八歳の彼は、文句なくジール王国一の騎士として国内にその名を馳せていた。
更に王宮内で彼の名が知られる理由の一つとして、彼を見出し、その後見を務めているのが王太子ラウダトゥールであることも大きかった。
第一騎士団の中でも王族の後見を得る者など滅多にいない。過去の歴史を遡っても恐らく片手の指の数ほどいるかどうか、と言うところであろう。そんな事情もあり、ウィルトゥース・プロバットという青年は色々な意味で有名な人物であった。
「そう仰られると、そうですね、彼は『王家の宝剣』でした。姫ともお知り合いだったのですね」
「ふふ、王家の、と言うよりラウダの、と言った方が正しいような気もしますけれど。ラウダは彼を自分の騎士にしたかったのです。だから、ウィルが十五で叙勲を受けた際、第一騎士団に入るのは随分と渋っていたのですよ。でも本人の強い希望があって、渋々ですが許可したのです」
ラウダトゥールの乳兄弟であるアルレイシアは、当然ウィルトゥースが騎士になる以前から彼とは友人である。彼が第一騎士団の隊長を務めるようになってからは、ほとんど顔を合わせることがなくなってしまったとはいえ、弟のように思う存在でもあるのだ。彼女はかつてラウダトゥールに拾われてきた少年の頃の彼の姿を思い出しながら、その頬に緩やかに笑みを刻んだ。それから、ふと思いついた疑問に小さく首を傾げる。
「それにしても……ウィルの前任の部隊長も若い方だとは聞いておりましたけれど、それがアストラス殿だとは思いませんでした。騎士の叙勲を受けて部隊長にまでなられたのに、騎士団を辞めてしまわれたのですね」
「ええ、まあ。私は次男ですから、騎士団に入るのは必然のようなものだったのです。幸い、ウィルトゥース殿ほどではなくとも私は剣技、乗馬ともそれなりの才がありましたから。光栄なことに第一騎士団の第一部隊長まで拝命したのですが、一年前、兄にソーラ伯爵家の相続人に指名されまして。それで騎士団を除隊したのです」
「まあ……あの、ごめんなさい。お家の事情を、軽々しく尋ねてしまって……」
素朴な疑問だったのだが、思ったよりもあっさりと家の事情まで話されて、アルレイシアは思わず恐縮して謝罪を口にした。しかし、謝られたアストラスは気にした風もなく首を振った。
「いえ、お気になさらず。私の除隊の理由は第一騎士団の者ならば皆知っておりますし、取り立てて隠し立てもしておりませんから。騎士団の者でなくとも、王宮にいらっしゃる大抵の方が知っております。多少肩身が狭くとも、妙な噂をされるぐらいならば真実が知られている方が遥かに良い」
確かに若くして第一騎士団の第一部隊長まで務めた騎士が除隊したのだ。その理由が面白おかしく噂されても不思議ではない。その上、除隊した後には父親である宰相の補佐官として務め始めたのだ。
下手に真実を隠し立てすれば、噂がソーラ伯爵家、引いては彼の家族にまで及ぶことは容易く想像できた。それを避けるため、アストラスは除隊する時も、その理由を人に尋ねられた時も、決して誤魔化したり、はぐらかしたりはせずに真実を話してきたのだった。
「それもそうですね。噂話と言うものはどこに真実があるか分からないようなものばかり。しかも、大抵が人を貶めるようなものばかりで――――そんなものの餌食になるぐらいならば、多少の痛みは覚悟で本当のことを話すほうが、遥かに傷も少なくてすむわ」
「……」
冷めた表情で紡がれたアルレイシアの言葉に、アストラスは思わず月明かりに照らされた腕の中の女性の顔を見下ろした。その横顔を目にして、この目の前の女性に関する一年足らずの王宮勤めで得た、幾つかの『噂話』を思い出した。
アルレイシア・アルテース・ドミナ・ファーブラーはジール王国一莫大な財産を持つ女相続人だが、本人は不器量で無愛想で学者などをしている変わり者。頭は良いが社交嫌いで偏屈な、可愛げのない『もっとも婿になりたい』姫君。
恐らくそんな話を彼女は全て知っているのだろう、とアストラスはその表情を目にした瞬間、直感で感じていた。そして、彼女本人はそんな噂話を口にする人間を、歯牙にもかけていないのであろうことも。
見下ろした腕の中のアルレイシアの表情は、冷めてはいても自嘲するようなものではなく。舞踏会の広間でも、彼女は周囲の揶揄する視線に臆することなく傲然と顔を上げていた。それこそが、彼女が可愛げがない、と噂される所以なのかもしれなかったが。
そんな風に推し量るように見つめていたことに気付いたのか、アルレイシアの瞳がアストラスを見上げた。暗闇を照らす明るい月の光に、闇に沈んでしまいそうな青味の強い紫の瞳が煌く。その瞳は強い意志と知性の光を浮かべ、毅然と前を向いている。
アルレイシアの瞳から目を逸らすことが出来ないまま、容色にかかわらず、こんな瞳を持つ女性を不器量だと嗤う者こそが嗤われるべきだろう、とアストラスは考えるともなしに思っていた。