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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ラウダに存在を圧されてますが一応ヒーロー。宰相補佐官、ラウダの部下。
ユースティティア:シアの上の妹。
フェレンティーア:シアの下の妹。
雪国の遅い春の夜半の風は、すでに冷たさを含んで火照った体を心地よく冷やしてくれた。
「大丈夫ですか?」
久々のダンスだったにもかかわらず、楽しさに時間を忘れてすっかり踊りすぎてしまったアルレイシアの足は、最早ほとんど力が入らずに膝が笑っている状態だった。履き慣れない靴も足を圧迫し、踊っている最中は感じなかった痛みを感じる。支えてくれる逞しい腕が無ければ、到底歩くことなど出来ない有様だった。
それでも先刻までの楽しさは半減することもなく、浮かぶ表情は笑みを含んで明るかった。
「ええ……ごめんなさい、すっかり調子に乗って羽目を外しすぎたようですわ」
テラスから出た先にある庭園のベンチに促されて腰掛ける。てっきりアストラスも座るのかと思っていたが、彼はすっと身を屈めてアルレイシアの前に膝を突いた。
「失礼」
断るなり、ぎょっとするアルレイシアに構わずアストラスの手がドレスの裾を僅かに持ち上げた。そしてそこから覗く細い足首を大きな手が柔らかく、けれど抗えない力で持ち上げた。吹き抜ける風の冷たさにもかかわらず、アルレイシアは咄嗟に浮かんだ恥ずかしさに頬に熱が上るのを感じた。
「なっ……!」
如何にアルレイシアが世間の『貴族の姫君』の枠から外れていようとも、彼女自身は歴とした大貴族である公爵家の姫だ。勉学ばかりに励む学者であることから、むしろ普通の姫君より遥かに箱入りと言っても過言ではない。そのため、当然彼女は他意を含む含まないにかかわらず、異性に素肌に触れられたことなどなかったし、そもそも異性の前で素足を晒すようなこともなかった。
それなのに、目の前の青年は何の断りも躊躇も無く足先のみとはいえ彼女の素足を晒し、あまつさえ手袋をしているとはいえ直に肌に触れてきた。手袋ごしでも分かるまだ熱を持った熱い手のひらを素足に感じた瞬間、さっきまでの昂揚した気分は一瞬で怒りと羞恥に取って代わられた。
思わず足を隠したくなる衝動を覚えたが、今までに無く疲労している上に、乱暴ではないにしろしっかりした力で掴まれた足は、全く自分の意思で動かすことは出来なかった。そのことが余計に、今足を捉えている相手が男性であることを思わせ、なおのこと羞恥を煽る。
だが、そんなアルレイシアの気持ちに気づくことなく、アストラスの手は丁寧な手つきで彼女の靴を脱がせた。そしてその足を目にして、切れ長の翡翠の目を細める。
「ああ、やはり。申し訳ありません、もっと早く気づくべきでした」
淡々とした低い艶のある声が僅かに悔恨を滲ませて告げた言葉に、恥ずかしさを拳を握り締めて堪えていたアルレイシアは、ぎこちなく大きな手に捉われた自らの足先に視線を移した。その足に熱く大きな手のひらとは違った柔らかな感触を感じたのだ。訝しく思う間もなく視界に映った光景に、彼女は恥ずかしさを忘れてぎょっとした。
柔らかな感触は絹のハンカチだった。きちんと皺が伸ばされ畳まれたそれは、本来ならば真白なのだろうが、今はところどころ赤い染みが出来ている。その染みが何なのかは、考えるまでもなかった。なぜなら、彼女の爪先も同じ色に染まっていたのだから。
履き慣れない靴で慣れないダンスを長時間踊り続けた足は、疲労していただけでなく怪我を負っていたのだ。恐らく靴が少し足に合っていなかったのだろう、爪が指に食い込んだのか、爪先から出血していた。踵の靴擦れも血が出るほどではないものの、大分痛そうだ。
(道理で足が痛いと思ったわ)
踊っている最中にも多少痛みは感じていたが、それも途中からは麻痺してしまったのか感覚が薄れ、そのまますっかり忘れ去っていたのだ。だが、現金なことに実際に惨状を目にしてしまうと、忘れていた痛みが甦ってくる。思わず顔を顰めたアルレイシアに気づいたのか、変わらない無表情ながら、気遣う光を浮かべた翡翠の瞳が見上げてきた。
「大丈夫ですか? きちんと消毒をした方がいいかもしれません。ここではろくな手当ても出来ない」
傷に触れないよう気を使った手つきで丁寧に足を汚す血を拭う。ハンカチはあっという間に真白から赤黒く変色してきている。
だが、アストラスはそんなことを気にした風もなく、拭き清めたアルレイシアの足が地面につかないよう自らの立てた膝に乗せ、もう片方の靴にも手を掛けた。そちらの足は今拭った足ほどではなかったが、それでもやはり同じように傷ができ、爪先は血で汚れていた。
「……痛みを感じられなかったのですか?」
両足の血を拭い終えると、アストラスは月明かりの下、傷の具合を確かめるように矯めつ眇めつ眺め、少し呆れの混じった口調で尋ねた。その言葉にアルレイシアは素足を見られている恥ずかしさもあって、ばつの悪い思いで顔を逸らした。
「途中、痛いな、とは思ったのですけれど……。踊っている間に痛みも麻痺したと言うか、あまり感じなくなったので、大したことはないかと」
「やはり痛みは感じていたのですね、その時に仰って下さればよろしかったのに。そうすればここまで酷くなる前に気付けました。御自覚が無かったようですが、踊り終えてから明らかに歩き方がおかしかった。気付かない内に踊っている間も痛い足を庇っていたのでしょう。踊り疲れているだけでなく、それで足がおかしな疲れ方をしている可能性があります。筋を痛めたりしないよう、後できちんとマッサージをした方が良いでしょう」
しばし傷を診ていたアストラスはそう言うと、脱がせた靴の踵に指を入れることで片手に纏め持ち立ち上がると、何事かと目を瞬くアルレイシアに構わず、その背と足に腕を回した。
「失礼」
再び端的に謝罪をして、軽々と彼女の女性にしては大柄な体を抱き上げた。ぎょっと目を見開いて思わず逃れようと身を捩ったアルレイシアを落とさないようにしっかりと抱える。そして驚きすぎて言葉も無い腕の中のアルレイシアを見下ろした。
見下ろしてくる表情は逆光で良く見えないながら、暗闇にはっきり浮かぶ炎のような、その翡翠の瞳の真摯さに、アルレイシアは意識する前に頬に熱が上るのを感じた。
「あ、の……」
「この足でこれ以上歩かれるのは止めたほうが良い。無理をすれば、しばらく歩けなくなりますよ。きちんと手当てをして大人しくしてさえいれば、この程度ならばすぐに治ります。王宮の客室までお運びいたしますから、きちんと手当てを致しましょう」
舞踏会の夜は遠方からの来客のために客室が開放されている。そちらへと足を向けたアストラスに、アルレイシアは慌てて口を開いた。
「ま、待って、待ってください。客室に行くぐらいなら、研究院へ行ってくださらないかしら。研究院に私室があるの。そこならば、一通り色々と揃っているから――――」
この状態で客室等に連れて行かれたら、確実に今夜は帰れないだろう。それだけならばまだしも、足の状態によっては、居たくもない王宮に足止めされる可能性がある。そうなってしまっては、今日のところはアストラスの存在で寄って来ない鬱陶しい求婚者たちも、彼がアルレイシアと何の関係も無いことが知られてしまえば、明日以降再び望まない襲撃を受ける可能性もあった。ラウダトゥールが選んだ婚約者候補はその地位を望まなかったようだが、そんなものを欲している人間はたくさんいるのだ。
舞踏会の翌日は特に、それでなくとも王宮に留まったりした日には、朝食の誘いをはじめとした、なんやかやと面倒くさい社交が発生することも多いのだ。出来るだけそんな目に遭うような事態は、事前に避けて通るのが利口であろう。
図々しい願いだと知りつつ口にしたアルレイシアに、アストラスは軽く首を傾げた。現在地を確認するように視線を周囲に巡らし、再び視線を見上げている彼女に落とした。
「それは構いませんが……よろしいのですか? 王立研究院は研究員以外の者が足を踏み入れてはならない、と殿下より下命があったと記憶しておりますが」
「別に構いませんわ。あれは王立研究院の特色云々ではなく、身分にものを言わせて研究院という場にそぐわない目的で訪れる人間が多かったから、研究員から苦情が出た結果なのです。本来ならば、特定の研究施設以外はそれほど厳重に出入りを管理していたりしなかったのですが……それに今は私が一緒ですから、特に問題はありません」
「分かりました。それでは道案内はお願いしてもよろしいでしょうか。大体の場所は分かりますが――――この状態ですし、時間も時間です。正面玄関から入る訳にはいかないでしょう。なるべく人目につかない道があれば、そちらを通りますので」
アルレイシアの言葉に疑問を差し挟むこともなく、一つ頷くことで納得したことを表して、アストラスは丁寧な仕種で腕の中の体を抱えなおした。先刻までは彼の挙動に動揺していたアルレイシアも、素足を見られ、手当てをされ、挙句の果てに抱き上げられたこの状態に、すっかり諦めと開き直りに近い悟りの心境で、一見大人しく彼の腕に身を預けていた。
如何せん今夜の衣装は露出も多く、剥き出しの背中に、回された腕が纏う衣服を直に感じるのだ。他人の着衣を肌に感じた経験などなく、衣服を通しても分かる硬い筋肉質な体は、触れている相手が異性であることを殊更に意識させる。
先ほどのダンスとはまた違う、自分の全てを他人に預けきった状態をきちんと認識してしまえば、到底まともに顔を合わせることなど出来なくなりそうだった。そのため、アルレイシアは長年磨き上げた精神力と忍耐力で、内心必死に思考が別の方向を向くよう努めていた。
(こういう場合は研究のことを考えるに限るわ)
読みかけの古書の内容。現在作成中の論文と、今後研究の一環として訪れたいと思っている遺跡。
普段はアルレイシアの思考のほぼ全てを占めていると言っても過言ではないそれらだが、現在の状況から完全に意識を逸らすまでには役に立ってくれなかった。道案内をしなければならないことを思えば、思考にばかり意識を割くことも出来ない。
知らず知らずのうちにぐっと眉間に力を入れた険しい表情になっていた彼女は、まるで親の仇のように闇夜にも白く浮かぶ王宮内の外回廊を睨み据えていた。
「足が痛みますか?」
アルレイシアの表情の意味を誤解したアストラスは、相変らず淡々としていながらも気遣う言葉を掛けてくる。その誤解を特に解くことはしないで、話を逸らすように腕を上げた。
「中央回廊ではなくて、あちらの脇の道から研究院の中庭に続く道へ出ていただけるかしら。そこからの方が私の研究室のある棟に近いのです」
「分かりました」
暗闇に差し伸べられるように伸びた細腕は肘の上までが黒いレースの手袋に覆われていた。それでも肩から二の腕までの線は露わで、普段日の当たることのない素のままの白い肌は、月光を浴びてまるで処女雪の如く闇夜に淡く光るように浮かんでいた。その肌の白さに一瞬目を奪われながらそれを面に出すことなく、アストラスは頷くと彼女の手が指し示す方へと足を向けた。
鍛えられた長身からは想像出来ない程、身軽な足音をさせない足運び。アルレイシアという決して軽くは無い荷物を、抱えているようには感じさせない身ごなし。
その表情からは腕の中のアルレイシアの存在に気を使っているようには見られないが、恐らくは随分と気を配っているのだろう。足捌きは単調ながら、月明かりのみの暗い夜道を歩く足元は慎重で、また体に回された腕は、彼女が不快に感じないような触れ方でありながら、体が揺れない程度には力強かった。
青年の一挙手一投足に、アルレイシアは最初に彼に抱いた印象が強くなるのを感じていた。彼女の足の手当ても、随分と手慣れていた。
ただの文官に過ぎない貴族の青年に、いくら女とはいえ人一人を抱えて全く辛さを感じさせない様子で短くは無い距離を歩いたり、相手の怪我に気付き、更には応急処置とはいえあれほど手際よく手当てなど出来るだろうか。
(やっぱり、到底ただの宰相補佐とは思えないわ)
浮かぶ疑問の答えを求めるように、月明かりに浮かぶ男らしい端整な顔をじっと見上げた。その顔は先刻と変わることなく淡々と凪いだ表情のまま。その芯を感じさせる毅い翡翠の眼差しが、しっかりと暗闇を見据えている。
思わずまじまじと見つめてしまった彼女の視線に気づいたのか、ふと真っ直ぐ前を見ていた目が下ろされた。正面からぶつかり合った視線にアルレイシアはうろたえたが、彼はそれに気付いたのか否か、訝しむ様子も無く、ただ意外に長い睫を持つ目を一つ瞬かせた。
「どうかなさいましたか?」
表情と同じ、揺らがない低い声が間近から降ってくる。
(う、あ……)
さっきまでは意識を別のことに逸らすよう努めていたため、それほどはっきりとは感じられなかったが、抱きかかえられた至近距離で聞く声は、まるで直接肌に触れるようで、思わず小さく身震いする。
低い艶のある声音は耳に心地よく、声に質感は存在しないながら、それが目に見えるならば、今身に纏っている黒い天鵝絨のようだろう。そんな風に考えてしまえば、ますます居た堪れなくて頬の熱を隠すように俯いた。
そんな彼女の様子をどう捉えたのか、アストラスは軽く目を細めて寒空に剥き出しのままの白い背に触れる手を動かした。そのことに、意識するより先にアルレイシアの体が大きく震える。
「……大分冷えてしまわれたようですね、気がつかずに申し訳ありません。ご迷惑でなければ、首に腕を回して掴まって頂けますか」
寒さで震えたわけではないのだが、ならばなぜ、と理由を問われても答えられるはずもないので口を噤んだ。最も、背中に触れた手袋ごしの手を温かいと感じたから、実際に意識しているより遥かに、体は寒さを感じているのかもしれない。そして誤解を解かなかったことで、アストラスが自分の意見に確信を持ったように申し出られた言葉に、彼女は一瞬どうするべきか悩んだ。
顔を上げなくても、あの翡翠に見つめられているのを肌で感じる。逡巡は一瞬。見つめられる視線から逃れるように、言われた通りにその首筋に腕を伸ばした。
「しっかりと掴まっていてください。失礼」
上半身でアルレイシアの体を支えるように、しっかりと抱き寄せられたかと思うと、背に触れていた右手が離れた。シュルリと間近で衣擦れが聞こえたかと思った次の瞬間には、彼女の背を覆うように滑らかな布の感触が剥き出しの肌に触れた。見なくてもそれが彼が身に纏っていたマントだと分かった。
夜会用の丈の短い、実用より装飾目的のものではあるが、布一枚でも遮るものがあるだけ大分感じる温度に違いがあった。
「このようなもので申し訳ありませんが、風邪を召されては大変です。なるべく急ぎますので、少しの間だけ我慢してください」
しっかりとアルレイシアの肩をマントで覆い、再びその腕が背中を抱いた。支える腕の力が先刻より少し増し、単調で一定だった歩調が速さを上げた。
支える腕が戻ったならばもう首に腕を回している必要性もなかったのだが、外す機会を逸してしまい、仕方なくアルレイシアは彼の首筋に回した腕をそのままにしていた。掛けられる淡々としていながら気遣いを含んだ言葉にも、上手く言葉を返すことができない。そんな自分に歯痒さを感じる。
人付き合いにも異性にも慣れない彼女にとっては、現状を受け入れるだけで精一杯で、それ以上に自分から何かしらの行動を起こすなどということは出来そうになかった。
(情けない……)
これがユースティティアならば、きっとその美しい顔を更に美しく見せる笑みを浮かべて、気遣ってくれた相手を満足させる言葉を言うことだろう。フェレンティーアならば、無邪気な笑顔で単純ながら心からと分かる感謝の言葉を述べるだろう。
だが、アルレイシアはユースティティアのようにするには機転が足りず、フェレンティーアのようにするには薹が立ち過ぎていた。
自分の有り様を今更変えることはできない。そんな自分を諦めと共に受け入れているアルレイシアではあったが、それでもこんな風に迷惑を掛けた相手の、親切と気遣いに応えるだけのことが出来ない自分に、情けなさが込み上げるのは如何ともしがたかった。かと言って彼女の妹たちのように出来るかといえば、それは無理な話で。
アルレイシアに出来ることと言えば、面倒を掛けた青年にこれ以上不快な思いをさせないよう、大人しく顔を俯かせていることしかなかった。後はただ彼が彼女のような厄介な荷物から一刻も早く解放されるよう、早く研究室に着くことを祈るぐらいだった。