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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第一章~王子の策略と舞踏会の夜
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<簡易人物紹介>

カッコ内は会話内で使用されている愛称です。

アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。

アストラス(アスト):ラウダに存在を圧されてますが一応ヒーロー。宰相補佐官、ラウダの部下。

ラウダトゥール(ラウダ):ジール王国王太子。シアの乳兄弟。出張ってますが脇役。

ユースティティア(ティティ):シアの上の妹。

 広間の中央で本日の主催者である王太子が正式に舞踏会の開始を宣言した。王室楽団によって奏でられる円舞曲(ワルツ)を、ラウダトゥールは国王の従妹であり、この広間で最も身分の高い女性でもあるアミークス公爵夫人を相手に披露していた。あちらこちらで固まって雑談をしていた人々も、自らのパートナーや思い思いの相手とダンスフロアへと繰り出していく。

 そんな光景を壁際で眺めながら、憂鬱な気分のせいで思わず零れたため息に、腰に回された腕に力が籠もった。アルレイシアがぎょっとして見上げれば、目があった翡翠の瞳が宿す光に再び鼓動が跳ねる。冷淡な容姿とは似ても似つかない、緑の焔。

 目の前に突然現れた獣から本能で逃れるようとするように、思わずアルレイシアの腰が引いた。一歩後退った足は、けれど腰を捕らえられているためにそれ以上退がることは叶わない。それでも、目を逸らしたらその瞬間に食い殺されるとでも言うように、目の前の美しい漆黒の獣から僅かにも視線を動かすことが出来なかった。

 息を飲んで見詰め合った時間は長かったのか短かったのか。

 アルレイシアには血が凍るような長い時間に感じられたが、恐らくそれほど長い時間ではなかったのは、広間を満たす音楽から察せられた。目を逸らしたのは彼の方。その焔のような翡翠の眼差しが、自らの手に包んでいるアルレイシアの手に移った。

 背丈に見合った華奢とは程遠い彼女の手。そんな手も、大きな彼の手の中ではちゃんと女性の手に見えた。釣られるように視線を動かしてしまい、目の当たりにしたその事実に愕然とする。アストラスはそんな彼女の気持ちに気づいたわけでもないだろうが、意外に豊かな睫を持つ切れ長の目を瞬くと、彼女の手を包んでいる手の親指でゆっくりと彼女の手の甲を撫でた。

 ちょうど、彼の唇が触れたあたり。

 手袋をはめているにもかかわらず、その指の動きに、まるで直に肌に触れられているように感じてしまい、思わず背筋が震えた。ただ、撫でただけ。それなのに、その動きが異様なほど艶かしく映ってしまい、その手から目を離すことができなくなってしまった。

 彼の仕種に、アルレイシアの普段はあまり血色の良くない白い頬が、みるみる熱を持っていくのを感じた。恐らく今の自分の顔を鏡で見たら、みっともないくらい真っ赤になっているのだろう。もしかしたら、顔どころではなく首筋まで赤いかもしれない。そう思えば、ますます恥ずかしさは増していく一方だった。

(嫌だわ……どうしてこんな格好をしている時に)

 普段の襟元まできっちり詰まったドレスなら、どれほど赤くなっても気づかれないだろうに、首も肩も剥き出しのこんなドレスではどこも隠しようがなかった。激しくうろたえるアルレイシアに、目の前の青年は沈黙を守ったままだったが、その(つよ)すぎる眼差しを肌に刺さるほどに感じていた。見られている、と誤魔化しようも無く思い知らされる。

 動揺している彼女が転ばないように気を遣っているのを、腰に回された腕の強さから感じながら、ゆっくりと手を引かれ壁際を離れて歩き出す。

「何を……」

 広間の中央、ダンスの輪が出来ている方に向かっていることを感じ、踏み出す足が躊躇する。乱暴にはならない、それでも逆らえない力で誘導されて、足を止めることは出来なかった。思わずアストラスを見上げるが、その端整な面立ちに初めて笑みのようなものが浮かぶのを見てしまい、言葉は途中で途切れてしまった。

「このままここでじっとしている訳にもいかないでしょうから。一曲ぐらい踊りましょう。そうしなければ、周囲の人間も納得しません。殿下の面目が立たなくなってしまいます」

 苦笑のような笑いを浮かべて言われた言葉に、反論の余地も無い。彼女の気持ちとしては、正直なところ、このまま何もなかったようにしてここから逃げ出してしまいたかった。今この場でこの青年をパートナーとすることは受け入れても、彼を自分の婚約者として認めた訳ではない。ラウダトゥールの面目を保つためだけの偽婚約者候補と、わざわざ目立つようなことをしたくないというのが本音だ。

 けれど心のままにそうしてしまえば、ラウダトゥールだけではなく、こんな下らない茶番に付き合ってくれている目の前の青年の面目をも潰してしまう。そう思えば、さすがにそれは出来なかった。

 仕方なく、アストラスの手に導かれるまま、広間の中央へと向かった。出来るだけ憮然とした表情にならないよう気をつけながら、気を抜くと寄りそうになる眉間を意識して歩いていた彼女の耳に、周囲を憚るように潜められた彼の声が聞こえた。

「一曲踊り終わったら、お話を聞かせていただいてもよろしいですか?」

「え?」

 表情を繕うことに意識を集中していたため、咄嗟に言葉の意味を理解できず目を瞬いた彼女に、彼は今度こそはっきりと苦笑を浮かべた。

「アルレイシア姫が高名な神学者でいらっしゃることは存じ上げています。幾つか論文を拝見して、ぜひ一度直接お話を聞かせていただきたいと考えておりました」

「え?」

「まさかこんな形でお会いすることになるとは思いませんでしたが。それでも、ご迷惑でなければ、ぜひ研究のお話を聞かせていただきたい」

 からかっている訳でもない真摯な口調に、アルレイシアは思わず唖然と口を開いたままアストラスの顔を見上げてしまった。まさかそんなことを言われるなど、夢にも思っていなかった。

 アルレイシアは学者としてはかなり高名ではあるが、それはあくまで同じ研究に携わっている人々に対してであって、貴族社会では変わり者で通っているのだ。揶揄やからかい半分に研究のことを言われたことはあっても、本気で彼女の研究の話に興味を示す貴族など、今まではほとんどいなかった。

 信じられない気持ちで見上げていれば、アストラスの苦笑が今度こそ本物の柔らかい笑みに変わる。その笑顔に、アルレイシアはやっと正気に返ると、自分がどれほど間抜けな顔を晒していたか気づいて、慌てて口を閉じると顔を伏せた。噛み殺すような小さな笑い声が降って来て、再び頬に熱が上がるのを感じる。

(情けない)

 ようやく先刻の熱が引いたと思ったにもかかわらず、今の彼女はこれ以上ないというほど真っ赤になっているに違いなかった。笑われたことにむっとして、アストラスの言葉を冗談だと片付けようとしたが、そんな彼女を察したように低い響きの良い声で囁かれた。

「冗談ではありません。私は本気です」

 興味を示しているのはアルレイシアの研究内容だと分かっていても、その言葉の響きにうろたえてしまう。

 異性に対する免疫などないに等しいアルレイシアにとって、アストラスから向けられる視線も言葉も、刺激が強すぎた。元々多くない許容量をあっと言う間に超えて、ただただ狼狽するしかできない。

 腰や手をアストラスに取られて支えられているため、傍目からは歩けているように見えていたが、支える腕が離れてしまえばきっとみっともなく座り込んでしまっていただろう。それほど、アルレイシアは混乱していた。

 獲物を狙うような眼差しも、響きの良い艶のある低い声も、彼女の体に触れる手も、丁寧ながら思わせぶりな言葉も――――すべてが、今までのアルレイシアの人生の中では縁のないものだった。臨界点を突破した混乱は、彼女からいつもの論理的且つ正常な思考力を奪い、今の彼女はただアストラスに導かれるまま進んでいる操り人形のようだった。

 だから、再びかけられた言葉に、深く考えることもせず諾々と頷いた。

「ご迷惑でなければ、またお会いする時間を取っていただけますか?」

 言葉の意味が脳に染み込んで、ようやく理解が追いついてから、アルレイシアは自分が何をしてしまったのかに気づいて呆然とした。今の言葉への承諾は、取りようによってはまるでデートの約束だ。そんなことはないと思いつつも、ユースティティアのことを思えば、この青年との関係をただこの場を取り繕うだけのものにしたかったアルレイシアにとっては、非常に都合が悪かった。

「あ、の」

 慌てて拒絶の言葉を口にしようとしたところで、それは今まで密着するほど近かった体が離されたことによって、途切れてしまった。いつの間にか二人はダンスフロアの中央近く、くるくると踊る人たちの輪に辿り着いていたのだ。そんな場では、どこに聞かれて都合の悪い耳があるか分からない。仕方なく、アルレイシアはぐっと唇を結んで言葉を噤んだ。自然と顰めそうになる顔を意思の力で笑顔に保ったのは、最早意地からだった。

 前の曲が終わって新たな曲が始まるのにあわせて、アストラスに促されるように向き合って手を取り合う。ダンスの始まりの音を待ちながら、アルレイシアは先刻からまるで自分が、目の前の青年の手のひらの上で転がされているような気分を味わわされていた。

 表情は笑顔を保ちながらも憮然とした内心のまま、緩やかに流れ出した円舞曲に合わせて足を踏み出す。そうしてしまえば、不機嫌は長くは続かなかった。組み合って踊るアストラスの、しっかりとアルレイシアを支えることができるだけの長身と、その服の上からも分かる鍛えられたしなやかな体躯に相応しい滑るように軽やかなリードに、彼女は踊りながら内心で感嘆の息を漏らさずにはいられなかったのだ。

 背の高いアルレイシアにとって、ダンスは常にパートナー探しから一苦労だった。父親であるファーブラー公爵がともに出席する場合は、妻のいない彼のパートナーを務めるのだが、娘ほどでないとはいえ、彼もまた最愛の妻を亡くしてからは、必ず出席しなければならないような舞踏会以外は基本的に出席を辞退していた。そのため、父親が出席しない舞踏会となると、アルレイシアのパートナー探しはいよいよ難航を極めてしまうのだった。

 それでも数年前までは未婚の従兄でパートナーを務めてくれた人もいたが、彼にお目当ての女性が出来てからはそれも出来なくなってしまった。諸事情からラウダトゥールはパートナーとは出来なかったため、それ以来アルレイシアの社交嫌いには拍車がかかり、滅多なことでは舞踏会など出席しなくなっていた。

 それに例えパートナーがいたとしても、未婚で決まった相手のいない彼女のような者は、ダンスを申し込まれればよっぽどのことがない限り全てを断ることなどできないのだ。そのため、否が応でも舞踏会に出席すれば幾人かと踊らなければならないのだが、大抵が相手の男の背丈によって非常に見栄えの悪いカップルになってしまう。

 アルレイシアより背の低い男性は、元より彼女に申し込みなどしてこない。だから、申し込んでくる相手は彼女より背が高いはずなのだが、やはりほとんど目線の変わらない男女の組み合わせは、不恰好以外の何者でもなかった。父のように幾分か年上の相手ならば話は別だったが、アルレイシアが嫌々ながらも舞踏会に出席していた数年前に、組んで踊った同年代の青年で周りの嘲笑を買わなかった相手は、パートナーを引き受けてくれた従兄と王太子ラウダトゥールぐらいのものだった。

 もちろん相手の男性が高貴な立場過ぎて、周囲の人間も嗤うことなど出来なかったというのもあるだろうが、十五、六の頃からほとんど体形の変わっていないアルレイシアは、当時の年頃の女性としては本当に背が高すぎて、釣り合いが取れる人間が少なかったのだ。

 アストラスと踊りながら、彼の見事なリードと安心して身を任せられるその腕に、アルレイシアは今までになくダンスを楽しいと感じていた。決してラウダトゥールのように優雅で完璧、と言うようなリードではない。それでも彼のダンスの腕前は見事なもので、滅多にダンスなど踊らない人並程度の腕前しか持たないアルレイシアも、全く躓くことなく踊りの輪に溶け込んでいた。

 軽やかに踏むステップやターンに合わせて揺れる豪華な衣装の長い袖や裾の流れも美しく、まるで揃いの一対のような衣装を纏った背の高い二人は、実に似合いの一組として衆目を集めていた。今までは周囲の嘲笑の的だったファーブラー家の『出来損ない』が、まるで妹たちに勝るとも劣らない貴婦人のように美しい姿で踊る様を、普段彼女を嗤う者たちは呆気に取られて見つめていた。

 だが、踊るアルレイシアの瞳にはそんな周囲の人間の姿など映ることなく、軽やかに彼女をリードする青年の姿だけを見つめていた。彼女の普段は仏頂面や憮然とした表情の多いその顔に、珍しく愛想笑いではない心からの笑みを浮かべて、まるで羽のようにステップを踏む。楽しげな彼女の笑みに釣られるように、アストラスの唇にも笑みが浮かんでいた。

 曲が終わるのを残念だと思ったのは初めてだった。

 ダンスの終わりを飾る礼を交わしながら、繋いだ手を放すことに名残惜しさを感じた。顔を上げて交わった視線に、そんな思いが互いに同じであることを感じ、どちらからともなく再び始まった音楽に合わせて身を寄せ合った。頭一つは背の高い顔を見上げてしまえば、その淡々とした無表情に似つかわしくない、真摯な熱を宿した翡翠の瞳に絡め取られる。見詰め合ったその眼差しを、逸らすことができなかった。

 少なくともアルレイシアにとってはその場凌ぎのパートナーであるにもかかわらず、まるで互いしか目に入らない本物の恋人同士のように、踊りながら楽しげに微笑みあう。言葉はなくとも、今この場で二人の間にそんなものを必要だとは感じなかった。繋ぎあった手が、支える腕が、交わす視線が、雄弁なまでに互いの気持ちを伝えていた。

 そんな風に伝わる思いを、不思議と思うこともなく信じられた。

 気づけば最初の一曲だけと言う話はどこへやら、運動不足のアルレイシアの足が音を上げるまで、二人はずっと踊り続けていた。

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