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リガートゥルは体調面を考慮して途中で席を外したものの、フェレトニーナとアストラスのもてなしでとても楽しい時間を過ごすことができた。
明るく話上手なフェレトニーナはソーラ伯爵家兄弟の幼馴染ということもあって、アストラスの幼少時の話などもしてくれたためアルレイシアはとても興味深く聞いていた。アストラス自身は子どもの頃の話などには少し困ったような顔をしたものの、特にフェレトニーナを咎めたりすることもなく話をするに任せていた。
またフェレトニーナはアルレイシアの本日の装いも褒め、それとともに色々と似合う色や形を勧めたりもした。フェレトニーナ自身の装いは、少し色の淡い亜麻色の髪と鳶色の瞳を引き立てる優しい若葉色で、以前アストラスが話していた通りに華美ではないもののとても彼女に良く似合った美しいものだ。あまり自分を装うことに興味のなかったアルレイシアだったが、フェレトニーナの話は興味深く聞くことが出来た。
病弱な夫を持ち、社交界に出ることもほとんどなく過ごしているフェレトニーナの装いは、偏に夫であるリガートゥルのためのものなのだろう。彼のために季節の花を育て、彼のために室内を飾り、彼のために装う。
アルレイシアの記憶の中の両親の姿も実に仲睦まじいものであったが、それでもそれは最早遠い記憶だ。だからこそ目の当たりにしたリガートゥルとフェレトニーナの二人の姿に、アルレイシアは強い憧れの念を抱いた。
ファーブラー公爵家の跡取りであるアルレイシアにとって、結婚はいつまでも他人事ではいられない。相手が誰になるかはともかくとして、彼らのような夫婦関係を築けたら、と思わずにはいられなかった。
それは今までのアルレイシアにはなかった思いだ。今までの彼女にとって結婚は義務であり、夫など自分の研究の邪魔にならなければ誰でも良いはずだった。けれど今はそれだけではなく、もっと、と願ってしまう。
リガートゥルとフェレトニーナのような、自分たち姉妹の両親のような、互いに尊敬と愛情を持てる夫婦関係を築きたい、と。それは更に一つの思いへと通ずる願いだ。
幸せになりたい、と。
今までのアルレイシアは、彼女自身の幸せはただ研究と近しい人たちの幸せの上にのみあったものだった。それ以上を望んだことなどなく、彼女が何より願っていたのは、大切な人たちの幸せだけだった。
けれど、それ以上のものが欲しくなってしまった。
そんな自身の変化を胸の内で噛み締めながら、アルレイシアはそっと隣にいるアストラスを窺った。彼女に変化をもたらしたのは、紛れもなくアストラスに違いない。
目が合えば微笑まれて、その笑顔に微笑み返す。それは胸が温かくなるやり取りに違いなかった。
フェレトニーナとの楽しいお喋りと、美味しいお茶とお菓子。隣にはアストラス。そんな風にして、一日はあっという間に過ぎていく。
席を外したリガートゥルもフェレトニーナの許しがあったのか、夕食はともにすることができ、四人での晩餐はとても楽しい時間だった。
ここ数日は笑顔を忘れていたようなアルレイシアもその顔に微笑を取り戻し、フェレトニーナと笑いあう。そんな自分たちの大切な女性二人を、ソーラ家の兄弟は優しい眼差しで見守っていた。
食後のお茶を終えて、夜空に輝く皓い月が輝きを強くする時刻。アルレイシアとアストラスは、ソーラ伯爵家の広い庭園を散策していた。
最も花の盛りである季節、夜に咲く花も数多くあり、庭園は甘い花の香りに満ちている。そんな花々の間を縫うように、二人は並んで庭園を歩いていた。
今宵は月の女神の力が最も地上に満ちる満ち月の夜と言うこともあり、夜空にある皓い月は神々しいまでの輝きを纏っているように見えた。白銀の光に照らされた花々も夜だというのに、瑞々しく咲き誇っていた。
庭園の奥まった一角に存在している温室。その中に目的の花は存在していた。
月の女神の花として神殿の壁画にも描かれている美しい花、ミシェルニア。その花は月の光を浴びて、蒼白い輝きを放っていた。繊細で可憐な細く白い花びらが幾重にも重なり開き、中心の芯の部分はくっきりと濃い黄色。両の手のひらに乗るほどの大きさのずっしりとした大輪の花の存在感は、まさに夜を支配する月の女神の花に相応しかった。
「これが、ミシェルニア……」
生まれ始めてそれを目にした感動に、アルレイシアは思わず一言呟いただけで言葉を詰まらせた。そしてじっとその花を魅入られたように見つめる。呼吸すらも止めたまましばし女神の名を冠する花に目も心も、五感の全てを奪われていたアルレイシアは、だから、その変化に気づくのが遅れた。
月の女神の力が満ちる、特別な夜。
ガラス張りの温室の天井から注ぐ月光が、微かに彩を変えていた。その光を受けて、蒼白い光を放っていた女神の花の花びらが銀色に染まっていく。ゆっくりと、けれど確実に。女神の力が満ちていく。
魔力と言うものを生まれ持たないアルレイシアにも、生まれて初めてはっきりと感じられた満ち月の変化。綻んだ花の花びらが微かに揺らいだような気がして、アルレイシアは思わず詰めていた息を飲んだ。
ここは温室で、全ての窓はしっかりと閉めきられている。どこからも風が入る余地はない部屋で、花びらが風に揺れるはずがない。それを察してようやく、アルレイシアはこの決して広くはない温室の室内隅々にまで、目の前の花から零れ出るのと同じ力が満ちていることに気づいた。
(どうして……?)
幼い頃からフェレンティーアとともに育ってきた彼女には分かった。この満ちている力は、『神の真理を知るもの』が齎しているものなのだと。
(でも……月女神の魔力に干渉できるなんて……『黒の聖女』ぐらいのはずなのに)
アルレイシアの妹、フェレンティーアもかなり強い力を持つ『アウグスタ・ウェーリタース』だ。幼い頃から幾度か妹の力を垣間見る機会を得ていたアルレイシアには、その名が表す意味を肌で感じて知っていた。
人でありながら、神の加護を受けて生まれてくるもの。
その身に聖なる刻印と、神の力を宿して生まれる彼らの存在は、アルレイシアを研究へと駆り立てた一端だった。
身動ぎすら出来ないまま狭い空間を支配する魔力に肌を粟立たせていたアルレイシアは、けれど幾度か呼吸を繰り返しながら落ち着きを取り戻すことによって、その異変の中心がどこであるのかを察し始めていた。
(そんな、まさか……)
花に目を奪われて踏み出したアルレイシアの数歩後。彼女の背の向こうの存在が、今、この空間を支配している主だ。そして現在。銀色の月明かりが差し込み、強い月の女神の魔力で満たされたこの室内に存在している人間は、たった二人だった。
アルレイシア自身と、そして彼女をこの温室まで案内してきたアストラス、その人だ。
どくどくと激しい音を立てる胸を強く抑えながら、浅い呼吸を繰り返し。きゅっと唇を強く引き結んで覚悟を決めると、アルレイシアはゆっくりと振り向いた。気配も、存在感も変わらない。けれど、明らかに違う。
振り向いたアルレイシアの瞳を攫ったのは、美しい銀色の輝きだった。
「え……?」
邸内で最後に見たときは確かに変わらない二粒の翡翠だったアストラスのその左目だけが、まるで今降りそそぐ月の光のような銀に染まっていた。
言葉もなくその輝きを見つめるアルレイシアの脳裏を、昔読んだ神典の一説が過ぎる。
其は月と陽をその身に宿し。
空と海をその身に映す。
至高の神の一柱。
「まさか……そんな。それは……聖痕?」
乾いたアルレイシアの唇を割って、驚愕の声が零れ落ちた。掠れたその声は、だが確かに、シンと静寂に満ちた温室内の、密度の濃い空気を揺らす。
アルレイシアに言葉を聞いて、アストラスは翡翠と銀の瞳を湛えたその異相で静かに微笑んだ。
「ええ、そうです、アルレイシア姫。これが、私が貴女にお話したかったことです」
「そんな、だって……」
『アウグスタ・ウェーリタース』とは、神殿の神典に存在する双女神と九柱神と呼ばれる特に神格の高い九つの神の加護を得た人間のことを言う。その中で特に双女神の加護を得たものを『デウス・アマンシア』と呼び、それ以外の神の加護を得る『アウグスタ・ウェーリタース』と区別しているのだ。
そして、もう一柱。
神典の中で、最も神格が高いとされている至高神。双女神の夫であり神々の王とも呼ばれているその神の、『アウグスタ・ウェーリタース』は存在していないはずだった。
もう一つ、瞳に金や銀の色が混ざる現象を『聖眼』と言ったが、それはあくまでも混ざりものなのだ。これほど純粋な銀の光、それも狭いとはいえ周囲の空気すら圧するほどの強い魔力を宿す瞳が、ただの『聖眼』であるはずがなかった。
混乱に染まって目まぐるしく思考を巡らせるアルレイシアの考えを読んだように、アストラスは変わらぬ静かな笑みを浮かべる
「アルレイシア姫、貴女が考えておられる通りですよ。私のこの瞳は、ただの『聖眼』ではありません。神殿に、その存在を秘されている、至高神エイムダリクの聖痕です」
「存在を、秘する……」
震える睫を揺らして、見開いていた瞳にゆっくりと瞬きを繰り返した。
アストラスの言葉は嘘ではないだろう。
その道では名の知られる神学者であるアルレイシアでさえも、今日、今この時まで、その存在を知らなかった。知ることが出来なかった、至高神の聖痕。
神典ではその神は、空と海を表す美しい青い髪に、太陽を宿す黄金の右目と月を宿す銀の左目を持っていると謳われている。そしてこの世界では髪や瞳にその彩を持って生まれる者は存在していないはずだったのだ。
「以前お話したましたが」
アルレイシアの驚愕を察しながらも、アストラスはごくごく淡々と変わらぬ口調で話し続けていた。
「私は生まれて間もなく、両親に連れられてトリミア教主国の大神殿を訪れております。それは、この瞳が原因なのです」
そう言いながら、アストラスの長い指を持つ手がゆっくりとその銀色の輝きを放つ左目を覆い隠す。
「生まれたばかりの赤子であった私の目が開いたとき、この瞳を見て、両親も驚かずにはいられなかったそうです。そして私を連れて大神殿を訪れ、そこで大神官様に私のことを相談しました。大神官様は特に驚かれることもなく私のこれが大神エイムダリクの聖痕であることを認め、そして必要な時期が訪れるまで、この聖痕の存在は明らかにしてはならない、と仰られたそうです」
自身の指で確かめるように左目の瞼に触れてから、アストラスは手で覆い隠していた瞳を再び月の光の下に晒した。
「この瞳は、普段は大神官様の目くらましの力で隠されているのですが、月の魔力と縁が深いらしく。どうしても満ち月の月夜の月の下でだけは、大神官様の目くらましですら隠しきれないようなのです。なので、昔からこの日は外に出ることを禁じられていました」
小さく苦笑を交えて告げられたアストラスの言葉に、秘密を秘密として守り抜くための彼の苦労が滲んでいる気がした。騎士団という特殊な場で生活してきたアストラスにとって、その禁を守り、秘密を守り通すことは容易いことではなかったのだろうと、アルレイシアにもうっすらと察せられた。
「なぜ隠されているのか、時期とはいつなのか……私も知りません。恐らくそれは、神殿の中でもごく高位の人間のみが知っていることなのでしょう。そして神殿は我々にそれを明かすことはありません」
淡々とした口調とは裏腹に、アルレイシアにはその言葉の奥に隠されている彼の懊悩が見えた気がした。それは多分、自分自身という存在への根幹的な不安だ。誰もが求めるであろう、自分という存在のその意義。存在を秘された者であるがゆえに、彼は揺らいでしまうのだ。
それを察するなり、咄嗟にアルレイシアはその手を伸ばしていた。自分自身の行動を認識するより早く、アルレイシアの体はアストラスの逞しい胸に突進するようにその身を預ける。そうして精一杯腕を伸ばし、その広い背を包みこんだ。
突然飛び込んできたアルレイシアの体を揺らぐことなく受け止めながら、その細い腕にしっかりと抱きしめられるのを感じてアストラスの背が一瞬だけ驚愕と緊張に震えた。けれどすぐにそれは緩み、アルレイシアの肉付きの薄い細い体をそっと長い腕が抱きしめた。
抱きしめられたことを感じて、アストラスの胸に頬を寄せながらアルレイシアはますます背に回した腕に力をこめる。恥ずかしいなどと考える間もなく、今はそうしなければならないような気がしていた。捕まえなければ、消えてしまうような不安が胸を覆う。
濃い月の魔力の満ちる狭い室内に、呼吸の音すら聞こえないような静寂が満ちていた。月明かりに照らされて抱き合う二人の体は、まるで一つの彫像のように揺らぐことなく立ち尽くしている。
「貴女の論文を初めて見たとき」
夜に溶けるように淡々とした声が、静寂をそっと揺らす。
「とても、興味を引かれました。貴女ならば」
アルレイシアの肉付きの薄い背中を抱く腕に、ぐっと少し痛いほどの力がこめられる。その腕に背を撓らせながらも、アルレイシアは抗議することもなく自分自身の腕にも力をこめた。
「貴女ならば、もしかしたら、答えを見つけ出してくれるのではないかと。けれど」
最初は、ただそれだけだったのだ。
興味と、僅かな期待。
けれど、出逢った瞬間に、そんなものとは関係なく魅せられた。
「アスト……」
アルレイシアの唇から思わずのように零れた声に、アストラスはその唇にうっとりと幸せそうな笑みを刷く。
「今は、そんなことは何の関係もない」
片手が抱きしめていた背を離れ、アルレイシアの顎を捉えた。長い指にそっと顔を上げるように促され見上げれば、翡翠と銀の彩の異なる二粒の瞳がじっと熱を宿して見つめている。顎に添えられた指が、そっとアルレイシアの少し薄めの唇をゆっくりと撫でた。
「ぁ……」
思わず唇の狭間から零れた震える吐息が、そっとアストラスの指を揺らし。真摯な瞳がそっと伏せられた。至近距離でその伏せられた睫の長さに魅入っていたアルレイシアの唇に、そっとアストラスの唇が重ねられた。
躊躇うような、一瞬のくちづけ。
ぼんやりと開いたままだった青紫の瞳をゆっくりと瞬かせ、アルレイシアはそれを受け入れる。
すぐに離れたその唇から、熱を宿した言葉が零れた。
「愛しています、アルレイシア」
静寂をそっと縫うように囁かれたその言葉に。アルレイシアは魔法にかかったように、開いたままだった瞳をゆっくりと伏せた。
その動きに誘われるように、一度は離れた唇が、再びそっと重ねられた。