13
「お越しくださって嬉しいですわ」
アストラスの言葉通り、ゆっくりとした足取りで玄関口に近づくと、笑顔の女性が両腕を広げて歓迎の意を示した。その隣に立っている柔和な面立ちの男性も、柔らかく歓迎の笑みを浮かべる。
「本日はお招き頂きましてありがとうございます」
下衣を軽く摘んで膝を折りながら深く腰を折る。貴族の令嬢として実に堂に入った仕種で優雅な礼をしたアルレイシアに、少し慌てたように優しげな僅かに高い男性の声が降ってきた。
「そのようなご挨拶は不要です、ファーブラー女伯。むしろ、こちらこそお越し頂いて光栄なのですから」
端整な顔に困惑を浮かべて言い募ろうとする男性の言葉を、彼の隣に立つ女性が遮った。
「まあ、リーディったら。そのような言葉は無粋ですわ。このようなときは、素直に光栄です、とだけ言えば良いのですわよ」
ころころと朗らかに笑う女性の言葉に、男性は少しだけ困ったように首を傾げて苦笑を浮かべた。だが特に反論することなく、アルレイシアに向き直る。
「お会いできて光栄です。アストラスの兄リガートゥルと申します」
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
「私のことはどうぞ、アルレイシアとお呼びくださいませ。伯爵と呼ばれるほどの貴族の務めなど、果たせておりませんので……」
「いえ、アルレイシア姫はとても立派な学者だとお伺いしております。貴族の務めなど、一つとは限りませんでしょう」
「ありがとうございます」
微笑んだリガートゥルのその顔を正面からはっきりと見て、アルレイシアは以前のアストラスの言葉を思い出した。確かに彼はエピストゥラに良く似ている。その白銀の髪色も、深く澄んだ緑柱石のような瞳も二人がはっきりと兄妹であることを示している。
そしてまた、アストラスとも良く似ていた。その端整な面差しからは、はっきりと二人に血のつながりがあることが感じられるのだ。
(良く似た兄妹だわ)
アストラスは似ていないと言っていたが、そんなことはない。確かに纏う柔和な雰囲気と線の細さが、騎士として磨きぬかれた黒耀石のようなアストラスとは大きく異なっているため、そのように感じるのかもしれなかったが、実際にその面差しや雰囲気は良く似ていた。
そんなことをしみじみと考えてから、アルレイシアはゆっくりとリガートゥルの隣に立つ女性に視線を移した。小柄な女性だがすっと背筋の伸びたその肢体は、女性らしい丸みを帯びていてしなやかだ。隣に立つ青年と似通った柔らかな空気を纏い、その愛らしい顔に相応しい笑みを湛えていた。
「初めてお目にかかります、アルレイシア様。私はアストラスの義姉でフェレトニーナと申します。お会いできてとても嬉しいですわ。どうぞお見知りおきくださいませ」
ふわり、とまるで花が開くように優雅に礼をしたフェレトニーナに見惚れながら、アルレイシアも丁寧に礼を返した。
「初めまして、アルレイシアです」
「ええ、お話はかねがね伺っております。どうぞ、これからもアストともどもよろしくお願いいたしますわ」
「え?」
にっこりと向けられた笑顔に思わずきょとりと目を瞬いたアルレイシアに、それまで二人のやり取りを黙ってみていたアストラスが口を挟んだ。
「義姉上、あまり余計なことは……」
「ふふ、はいはい。ああ、アルレイシア様。お花は気に入っていただけました?」
「あ、はい。とても嬉しかったです」
咄嗟に答えたアルレイシアに、フェレトニーナはますます嬉しそうにその鳶色の瞳を輝かせて笑みを深めた。
「まあ、良かった。アストが毎朝、貴女のために庭から摘んでおりましたのよ。自分で選んで。この朴念仁が女性のためにそのようなことをするなんて、と私もリーディもとても感心しておりましたの。そしてこれはぜひ、貴女に一度お逢いしなければと思いまして」
「義姉上」
再び窘めるようなアストラスの声にも、目の前の女性はちっとも気にした風もなく笑顔でアルレイシアの手を取った。
「お逢いできて、本当に嬉しいですわ」
「あ……ありがとう、ございます」
期待に満ち満ちた瞳に少し気後れしながらも、何とか答えたアルレイシアの姿に、リガートゥルが苦笑して今度は彼が自分の妻を窘めた。
「その辺にしておきなさい、ニーナ。アストを困らせるのは構わないが、アルレイシア姫にご迷惑だろう」
先ほどのアストラスの言葉など全く気にしなかったフェレトニーナは、けれど夫の言葉には素直に頷いて手を放した。
「ああ、申し訳ありません。あまりにも嬉しかったものですから。それにいつまでも玄関先でなど、本当に失礼でしたわね。さあ、どうぞ中にお入りになって」
「あ、はい。失礼致します」
うきうきと軽い足取りでアルレイシアを邸の中へと招くフェレトニーナの様子に、残された男性二人はその背中を見送って肩を竦めた。
「誰の客だか分からないな」
「兄上……」
普段は淡々とした無表情で機嫌の良し悪しも見分けにくい弟の、あまりにもあからさまな仏頂面に思わずリガートゥルは吹き出してしまう。そして励ますようにアストラスの肩を叩いた。
「ああ、すまない。ニーナは後できちんと遠慮させるから。どうせ夕食までゆっくりして頂くのだろう」
「そのつもりではありますが……」
「ああ……あのことを話すなら、実際に見てもらった方が良いだろうし、な」
「ええ。――――反対、しないのですか」
ごく囁くような小さな声で言われた言葉に、リガートゥルは一瞬だけ自分より背の高い弟の顔を見上げ。それからふっとその整った柔らかな顔に笑みを浮かべた。
「お前のことだ、お前が決めなさい。少なくとも、お前が選んだ人ならば、私は反対するつもりはないよ」
ぽん、と柔らかく背中を押して、アストラスを邸内へと促す。アストラスは兄の言葉にゆっくりと頷いて何かを吹っ切るように一度だけ瞳を伏せると、先に行った二人に追いつくべく促されるまま歩き出した。
邸の応接室に通されたアルレイシアはにこにこと嬉しそうに微笑み続けているフェレトニーナに、笑顔を返しながらも戸惑っていた。その気持ちのまま、ちらりと隣に腰掛けているアストラスを見上げる。彼はすぐにアルレイシアの視線に気づいて、柔らかな笑顔を返した。その笑みに何となく安心して視線を正面に戻せば、満面の笑みを湛えているフェレトニーナと視線が合った。
「あの……?」
「ああ、お気になさらないでくださいませ。ただ、貴女とご一緒にいる時のアストは、本当に幸せそうだと思いまして。嬉しくなってしまったのですわ」
「……あ、ええと」
あまりにも答えにくい言葉に何と答えるべきか戸惑っているアルレイシアに、リガートゥルがすまなそうに微笑んで再び妻を窘めた。
「ニーナ。アルレイシア姫はまだアストのお相手と決まったわけじゃないのだから、あまりそういうことを言うものじゃない。嬉しいのは分かるが、さっきから姫がお困りになっているだろう」
「あら、そうでしたわね。ごめんなさい、アルレイシア様。私、嬉しくて浮かれているようですわ」
「あ、いえ、大丈夫です」
謝罪までされてしまい、慌てて首を振るとアルレイシアはそっと出された茶器に手を伸ばした。柔らかな花の香りが鼻腔をくすぐり、思わずほぅと息を漏らす。一口味わってから茶器を戻すと、失礼にならない程度にゆっくりと室内を見回した。
天井が高く広い室内は窓を大きくとってあり、とても明るい。柔らかな黄味がかったクリーム色の壁紙を始め、室内はとても落ち着ける趣だった。座っている長椅子やらの調度品も華美ではなく、品があってとても質の良いものだ。そして何より目に付くのは、室内のあちこちに季節の花が飾られていることだった。
(そういえば……ここに来るまでの廊下にも飾られていたわね)
そんなことを考えながらじっと花の飾られた花瓶を見つめていると、それに気づいたアストラスが口を開いた。
「花が多いので、驚かれましたか?」
柔らかな口調の問いに、考える前に頷き返していた。そのままアルレイシアの視線は、広い窓の外へと向けられる。
(ここが応接室なのに……庭園はこちら向きに作られていないのね)
「庭園は、兄の部屋から見るために作られているのですよ」
まるでアルレイシアの内心を読んだように答えたアストラスに、アルレイシアはようやく視線を彼に向けた。不思議そうなアルレイシアの視線を柔らかな眼差しで受け止めて、アストラスはごく淡々と説明する。
「花は、毎朝兄上の部屋に新しいものを飾るために義姉上が摘んでいるのです。それで、前に飾っていたものは邸内に移されるのですが……毎朝のことなので、おかげでこの邸には常にあちこちに花が溢れてしまっています」
「あ」
そこまで説明されて、アルレイシアはようやくアストラスに以前聞いたソーラ家の事情を思い出した。そして柔和な微笑を湛えるソーラ家の嫡男を見やる。リガートゥルはアルレイシアの眼差しで事情を知っていることを察したのだろう。けれど何も言うことなくただ笑みを返した。
「あの……お体は大丈夫ですか?」
あまりにも普通に出迎えられたので、すっかりと忘れていたのだ。一見では線の細さぐらいしか分からず、それほど病み衰えている印象は受けなかった。けれど注意深く見ると確かにリガートゥルは病的なほど色が白く、ゆったりとした服で隠されてはいるものの、腰帯で締められた胴回りも男性にしてはとても細い。それらが彼の線の細さは確かに病みついているもの特有のものだと窺えた。
「お気遣いありがとうございます。季節の変わり目は多少体調を崩したりしますが、暖かくなればそれほどではないのですよ。今日もとても春らしい暖かい陽気ですから、体調も全く問題ありません」
「ええ。昔は暑くなったといえば体調を崩して、寒くなっても同様でしたわ。春も秋も季節の変わり目には体調を崩していたのですけれど、成長してからは大分強くなりましたのよ。昔は一年中寝台から出られないような時期もありましたのに、今では年の半分は起きていられますから」
とんでもない内容を憂いもなさそうな笑顔のフェレトニーナに聞かされ、アルレイシアは思わず目を見開いた。だがそんな彼女の反応を気にすることなく、フェレトニーナはにこやかに首を傾げて言葉を続ける。
「ですから、ソーラ家のことはそれほどお気になさらないでくださいませ。アルレイシア様には、ご自分のお気持ちだけで、アストとのことを考えていただきたいのです。家にはまだ、エティもおりますし」
「フェレトニーナ様……」
おっとりとした笑顔の奥に意志と芯の強さを窺わせながら、フェレトニーナはアルレイシアを安心させるようにしっかりと頷いた。それから少し恥ずかしげにはにかんだ笑みを浮かべた。
「それに私たちもそろそろお父さまたちに孫の顔を見せて差し上げたいですし、ご心配はいりませんわ」
「はい」
きっぱりと言い切ったフェレトニーナの言葉に、それ以上リガートゥルの体のことを言うのは逆に失礼だと気づいて、アルレイシアは笑顔で頷くに留めた。
アルレイシア自身、母を産褥で亡くしているので分かった。病気の人間の心配をする資格があるのは、本気で相手を案じている人間だけなのだと。良く知りもしない人間に挨拶代わりのように気遣われるなど、病状に回復する見込みがない人間にとっては苦痛でしかないはずだ。
そのため、それ以上のことを尋ねたりはせずに、アルレイシアは場を濁すように再び茶器に手を伸ばした。
だから気づかなかった。アルレイシアを除いた三人が何かを思案するように眼差しを見交わしていたことなど。
舌に残る甘いような爽やかさに思わず頬を緩めたアルレイシアに、フェレトニーナが思いついたように手を叩いた。
「ああ、そうですわ。アルレイシア姫、よろしければ本日は夕食の後に我が家の庭園をご覧になりませんこと?」
「え?」
「今は春ですから、ミシェルニアの花がとても美しく咲いているのですわ。アストに案内させますから」
「まあ……」
ミシェルニアは月女神の名を冠するその名の通り、月夜にしか咲かない美しい花だ。温暖な気候の地域では年中咲く花だが、冬の寒さが厳しいここジール王国では春から夏にかけてしか咲かないのである。また、多年草ではあるが越冬の手間がかかるため、ジールではそもそも栽培していることが少ない。
神学者として月女神に由来する花などはとても興味を引かれるものだった。それも滅多にお目にかかれない珍しい花ならば、願ってもない。アルレイシアは目を輝かせて躊躇うことなく頷いた。
「はい、喜んで。ぜひ拝見したいです」
アルレイシアの答えにフェレトニーナも嬉しげに微笑んで、卓の上に置かれているお菓子の乗った皿を少しアルレイシアの方へを押した。
「よろこんで頂けて嬉しいですわ。ああ、よろしかったらお菓子も召し上がってくださいな。ふふ、アストはアルレイシア様に花をお贈りするようになるまで、庭園になぞちっとも興味を持っておりませんでしたのよ。ですけど、今は毎朝貴女のために花を選んでいるので、私と庭師の次に庭園に咲いている花に詳しくなりましたの」
「言い過ぎですよ、義姉上。花の名前などはまだまだ分からないものの方が多いです」
義姉の言葉に苦笑して答えたアストラスに、アルレイシアは思わず驚きの視線を向けてしまった。今まで毎朝アストラスから花を贈られており、恐らくそれは彼が自分で選んで摘んで来てくれているのだろうとは思っていた。
もちろん貰った花の状態からそれが道端で咲いている花などではなく、きちんと世話をされて咲いているものなのは分かっていたのだ。だから恐らく邸の庭園などで育てている花を摘んできているのだろうと予想はしていたが、まさかそれほど真剣に選んでくれていたとは思いもしていなかった。
そんなことからも、アストラスの彼女に向けられた真摯な思いを改めて感じてしまい、アルレイシアは思わず頬が熱くなるのを覚える。それでも今胸に湧くのは嬉しさだ。
そっと胸元に両手を当てて、一度だけゆっくりと息を吸った。そうしてから、そっとアストラスを見やる。まるで示し合わせたように視線が合って、アルレイシアは思わず目を瞬いて気づいた。
(視線に気づいたのではなくて……私を、見ていたの?)
気配を感じさせないほどひっそりと、けれど確実に。アストラスの眼差しはアルレイシアを見つめていたのだ。そのことにはっきりと気づいて、ますます恥ずかしくなってしまう。けれど、意を決してその美しく深い翡翠の瞳を見つめ返した。
「あの、そういえばまだ、きちんとお礼を申し上げていませんでした。毎朝、お花をありがとうございます。とても嬉しいですわ」
「いえ。貴女に喜んで頂けるなら、何よりです」
にこり、と嬉しげに向けられた笑顔に笑顔を返しながら、もっと早くに伝えれば良かったと僅かに内心で悔いた。
(嬉しいと、もっと早くに伝えるべきだったのに)
花だけではない。初めて向けられた真摯な想いそのものが。何よりも嬉しいと、もっと早くに伝えるべきだったのだ。
(アスト……)
柔らかくとても大切な宝物を見つめるように細められた切れ長の瞳を見つめながら、アルレイシアはそっとその名の響きを確かめるように心の中で呟いていた。