12
アストラスの手を借りて、迎えの馬車に乗り込む。
たっぷりとしたペチコートを重ねて着ているドレスは、普段の動き易い簡素なドレスと違って身動きがしにくい。慣れない下衣捌きに多少の苦労をしながら、アルレイシアは馬車内の椅子に腰掛けた。
アルレイシアがきちんと椅子に腰掛けたのを見て、アストラス自身も馬車に乗り込んだ。アストラスが御者に馬車を出すよう指示しているのを横目に、アルレイシアは車窓から僅かに身を乗り出すようにして見送りに立っているフェレンティーアを見つめた。姉の視線に気づいて、フェレンティーアはにこりと笑顔を浮かべると大きく手を振る。
そんな妹の姿に笑みを零しながら、アルレイシアも小さく手を振り返した。そんな二人のやり取りが終わるのを見計らったように、馬車がゆっくりと走り出す。
フェレンティーアの姿が見えなくなるまで窓の外を見ていたアルレイシアは、正面に向き直るなり視線の合ってしまった翡翠の瞳に目を思わず目を瞬いた。そしてずっと見られていたことに気づいて頬が熱を持つのを感じたが、それを誤魔化すように真っ直ぐと見つめてくる真摯な眼差しに笑顔を向けた。
「わざわざ迎えに来て下さって、ありがとう……アスト」
まだ本人に向かっては多少の気恥ずかしさを感じる呼び名を口にすれば、アストラスの少し硬かった表情がゆるりと綻んだ。
すい、とごく自然な動きで白い手袋に包まれた大きな手が伸び、今日はドレスに合わせた白いレースの手袋に覆われているアルレイシアの手を取った。最早すっかりと慣れた仕種でその手の甲に唇が落とされ、そのままその手を包みこむように握り締められる。
「いいえ、私がそうしたかっただけですから」
言ってから、その深い翡翠の瞳がじっと探るようにアルレイシアの様子を見つめた。アルレイシアの手を握っているのとは反対の手が伸び、そっと確かめるように頬から顎にかけての線を撫で下ろされる。そしてそのまま顎を取られ、顔を覗き込まれた。
「大丈夫ですか?」
唐突にも聞こえる問いに、アルレイシアは思わず目を伏せてしまった。
昨日フェリクスの手から助け出してくれたのがエピストゥラだと思えば、問われることに何ら不思議はない。
それでも咄嗟には答えられないアルレイシアの顎を捉えていた指が、気遣うように優しくごく薄い化粧で誤魔化している目尻を撫でた。手袋ごしでも感じるその指先の熱にぴくりと小さく肩を震わせて、僅かに身を引く。
「……っ、だ、大丈夫、です」
何をして大丈夫だというのか、自分自身でも良く分からないながら、咄嗟に言葉が口をついて出た。そんなアルレイシアのことを見通したように、アストラスの大きな手のひらが彼女の頬をそっと包み込む。馬車の中という狭い空間の中、体温さえ感じられるような近くにアストラスの存在を感じ、思わず触れられた頬が熱を持つのを感じた。
それでも、触れてくる手のひらはどこまでも優しく労わりに満ちていた。昨日フェリクスに触れられたときはただ恐怖と混乱しか感じなかったのに、今は恥ずかしさと同時に安堵も感じている。睫を伏せてそっと頬を包む手に自分から頬を寄せれば、手袋ごしでもはっきりと感じる温もりに、思わずため息が零れ落ちた。
「アルレイシア姫」
ごく静かに名を呼ばれ、伏せていた瞳を上げる。静かな、それでいて狂おしいほど熱を持った二粒の翡翠がじっと彼女を見つめていた。頬に触れている手に自らの手を重ねながら、求められているような心地に促されるまま唇を開く。
「アスト……」
「……っ」
馬のひずめと轍が石畳の道を走る音が支配する車内はそれほど静かというわけではなかったが、それでもどれほど小さな囁きすらも聞き逃すはずもないほど、いつの間にか近くにいた。アルレイシアの耳に、目の前の青年が息を飲む音がはっきりと聞こえた。
次の瞬間。握られていた手を引かれ、アルレイシアの体は椅子から浮き上がっていた。驚きに目を見開くアルレイシアの頬を包んでいた手に腰を攫われ、気が付いたときには彼女の体はアストラスの膝の上にあった。光の加減で黒にも見える深い濃藍色の上着の滑らかな生地を肌に感じて、思わず息を飲む。
「ア、アスト!?」
咄嗟に逃れようと身を捩ったが、しっかりと腰を捕らわれており、ただ身動ぎしただけに終わる。戸惑うアルレイシアの背をかき抱くように、アストラスの体温が彼女の全身を包みこんだ。
「アルレイシア」
聞き飽きるほどに繰り返し聞いた自分の名前。それなのにこの声に呼ばれると、誰に呼ばれても感じることのなかった熱が胸の中に灯るようで。アストラスの腕の中、そのすらりとした長身の体を縮めて感じる熱に小さく震えた。
ゆっくりと確かめるようにアストラスの指が幾度かアルレイシアの左の頬を撫でる。その指先に募る羞恥を堪えるように睫を伏せたアルレイシアの目尻までを優しく撫で上げ、指先が離れると同時に伏せた睫を熱を帯びた吐息が揺らした。
少し乾いた熱く柔らかな感触が、指先が触れた後を丁寧に辿っていく。離れると同時に何かを堪えるように湿った呼気が頬を撫で、再び熱が押し付けられる。
アルレイシアはいつの間にか、ぎゅっときつく目を閉じて体を硬くしていた。上着に皺が寄るなどという配慮も出来ないまま、縋るように広い背に回した腕で手に触れる滑らかな生地を強く握り締めた。
触れては離れ、離れては触れて。何かを拭い去るように幾度も繰り返しその熱はアルレイシアの頬を辿って行く。昨日混乱の最中思い出したように、それは熱情を感じさせながらも、彼女に対してどこまでも優しかった。
言葉はなく、ただ沈黙の支配する狭い車内。それでもアルレイシアの耳の奥には、いつかの夜に聞いたアストラスの、切ないような声音が紡いだ言葉が繰り返し響いていた。見つめる瞳が、触れる指が、唇が。彼の全てがどこまでも雄弁に謳っている。
その音色に、胸が震えた。
『貴女を、愛しています』
アルレイシアにとって愛情とは、家族をさすものだった。そして恋とは未知のもの。自分には縁がないものだと、ずっとそう思っていた。
ジール王国内の数多の女性が胸をときめかすラウダトゥールにさえも、アルレイシアが感じていたのは妹たちに向けるのと同じ愛情だった。それは親愛であって、男女のそれではない。
数多の求婚者たちにたくさんの花や美辞麗句と共に語られた恋も、一つも理解することは出来なかった。心を動かされることすらもなく、それらは全て花束や贈り物と一緒に屑籠へと捨ててしまえるものだった。
今だって、決して分かったとは言えない。
アストラスから向けられる想いは大きく強すぎて、アルレイシアの胸の中に生まれた小さな種火など、容易く飲み込まれてしまいそうだ。それでもその種火は、紛れもなく彼が彼女の中に生み出したものだった。
以前ならば、何かがあった時助けを呼ぶために呼んだ名は、ラウダトゥールや父の名だった。それなのに、それがいつの間にか変わっていた。彼女自身ですら、そんな状況に陥るまで気づかなかったその変化。優しく触れてくる手に、戸惑いながらも慕わしさを感じていた。
一度は、捨てることが出来ると思った。アストラスが向けてくれる想いは他のどれとも違って特別だけれど、それでも諦められると。なのにその温もりを諦めると決めてからも、結局は花一輪すら捨てることも出来なくて。
そんな自分の矛盾に苦しみながら泣いて過ごし、思い知らされたのは、あれほど変わりたいと思っていながら何も変わっていない自分自身だった。立ち向かいたいと思いながらも逃げ続けていることに気づけたからこそ、最早何を繕うこともなく自分の思いを認められた。
そうなって初めて、ユースティティアが何にあれほど怒っていたのか分かった気がした。
(ちゃんと言えば良かった)
恋も愛もきちんと理解できてはいないけれど。アルレイシアにとって、アストラスはきっととても特別な人だ。
彼を慕わしいと想っている自分をちゃんと認めて向きあったなら、あれほど妹を追い詰めることはなかったのではないかと、今ならば分かる。ユースティティアの想いを言い訳にして、自分自身の気持ちとともに向き合うことから逃げた彼女の態度こそが、ユースティティアを傷つけたのだ。
(やっぱり、悪いのは私の方だったわ、ティーア)
ここまで傷ついて傷つけなければ分からなかった、自分自身の不甲斐なさに苦笑が漏れる。やはりユースティティアは大切な妹で、今だって彼女の想いもアストラスの想いや自分の想いと同じくらい大切にしたいと思うけれど。それをもう、逃げることの言い訳にはしたくなかった。
馬車の揺れから守るように、しっかりとアストラスの腕がアルレイシアの体を抱きしめている。
彼と出逢ってからまだそれほど長い時間が過ぎたわけでもないのに、恐ろしいほどの速さでその温もりはアルレイシアの体に馴染んでいた。ずっと自分の背の高さや体形を気にしていたけれど、アストラスの存在で彼女は初めて自分が女性であるということを実感として思い知らされたのだ。
長身で女性にしては肩幅もあるアルレイシアの体を、軽々と抱き上げる腕。包みこむ広い背。硬い指先を持つ大きな手。しなやかで強靭な鍛え上げられた体は、それでも壊れ物のように大切にアルレイシアに触れるのだった。
アストラスに抱きしめられたまま、彼の肩口に額を預けるようにして寄りかかる。羞恥心が過ぎ去ってしまえば、そこはとても居心地のいい場所だった。
アストラスの大きな手は、アルレイシアの背を支えながら、時折優しくその背を撫でる。今日はきっちりと髪を結い上げているため、それが崩れないように気を使いながらも、意外と器用な手がそっとほつれた後れ毛を梳いた。先刻まで繰り返し頬に触れていた唇は、悪戯のように時々前髪や額、こめかみに触れてくる。
少しの気恥ずかしさと、多くの安心と。言葉はなくとも満たされるような、そんな親密な空気が二人を包み込んでいた。
馬車が王都の貴族街にあるソーラ伯爵邸へと到着するまで、二人はそんな風に満ち足りた時を過ごしていた。
御者が到着を告げると、アストラスは名残惜しげにそっとアルレイシアの体を放した。そして先に立って馬車を降りる。抱き合っていた時は恥ずかしさよりも安堵を感じていたのに、離れたことで再び羞恥を思い出したアルレイシアは、少し慌てて身繕いをする。少し皺が寄ってしまった下衣を調え腰を上げれば、馬車の扉を開いたアストラスが手を差し伸べた。
「ありがとう」
羞恥心と嬉しさとにはにかみながらその手を取れば、アストラスもその端整な顔に笑みを浮かべる。そしてアストラスの手に支えられたアルレイシアの体は、まるで重さなど感じさせずにふわりと、あっという間に馬車の外へと下ろされていた。
とんっと靴の下に地面の感触を感じると、アルレイシアは目を瞬いて傍らの自分より更に背の高い青年を見上げた。
襟の詰まった艶のある濃藍に鈍い銀糸で控えめな装飾が施されている上衣と、すっきりとした黒の下衣。腰はきちりと上衣と同色のベルトで締められていて、すらりとした体形の良さを映えせていた。その下に隠されている体はしっかりと鍛え上げられた騎士のもの。
短めに整えられた黒髪、切れ長の涼やかな翡翠の瞳。初めて逢ったときと同じ、しなやかで美しい黒い獣を連想させるその姿にアルレイシアは改めて感嘆を覚えた。
「どうかなさいましたか?」
しみじみと眺めてしまっていたアルレイシアに、アストラスが柔らかく微笑みながら尋ねた。その問いにアルレイシアはなんと答えたものかと、少し気恥ずかしい気持ちで首を傾げる。流石に馬鹿正直に貴方に見惚れていました、と伝えることはアルレイシアには難しかった。
そんなアルレイシアの様子に意外に長い睫を持つ切れ長の瞳を不思議そうに瞬いて、それからまじまじと見上げる彼女の姿を見つめる。今度はアルレイシアが目を瞬く番だったが、ふっと笑みを深くしたアストラスの口から出た言葉にアルレイシアは今度こそ真っ赤になった。
「そういえば、きちんと伝えておりませんでした。今日の姫はいつもに増してとてもお美しいですね。私は女性の装いなどには疎いので申し訳ないですが、そのドレスもとても良くお似合いです」
一瞬、何を言われたのか理解できず。僅かの間の後、理解するなりアルレイシアは頬といわず耳といわず、首の下まで真っ赤に染め上げた。
「ア、アスト!」
「紛うことなく本当の気持ちですよ。朝、研究院で一目お姿を見たときからずっとそう思っていました。でも、朝の姫は到底そんなことを伝えられる雰囲気ではなかったので、伝え損なってしまっていたのです。貴女は以前自分の髪色が嫌いだと仰っていましたが、気にする必要など全くありません。その髪も、瞳も、とてもお美しいです」
「わ、分かりました。分かったから――――もうやめて」
羞恥で泣きそうになりながら、真っ赤に染まった顔を俯ける。見つめる青年が小さく笑い声を立てたのに気づいて、つい恨みがましく睨みあげた。
「これからご挨拶をするのに。こんなみっともない姿では、行けないじゃないの」
拗ねたようなアルレイシアの言葉にも、アストラスはますます笑みを深めるだけだった。
「それでは、ゆっくりと行きましょう」
手を取られて正面を向けば、少し離れた所にある玄関口ではにっこりと満面の笑みを浮かべた小柄な女性と、その隣に線の細い青年が並んで立ってこちらを見つめていた。その後ろには数人の使用人らしき姿も見える。
見られていたことに再び恥ずかしくなって、アルレイシアは思わず空いている方の手で頬を隠した。そんなアルレイシアの姿をアストラスは優しい瞳で見下ろして、握り締めた手に力を籠めた。僅かに青紫の瞳を瞠る。けれどすぐに柔らかな笑みを刷くと、彼女もまた握る手に力を籠めた。
たくさんの花が咲き誇る美しい庭園を抜けてきた春の風が、アルレイシアのカナリアイエローのドレスの裾をそっと揺らして吹き抜けて行った。