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一応R15指定しているため大丈夫だとは思いますが、注意書きをさせていただきます。
それほど酷くはありませんが、無理矢理な描写がありますので、そういった表現が苦手な方はご注意ください。
9話と10話は挿話的な位置づけのため、ご覧にならなくても大丈夫だと思います。
そういった表現を絶対に受付けない、我慢出来ないという方はご覧になるのを回避されることをおすすめします。
「本当に、お前は……」
腕の中、捕らえた女の浅はかさにフェリクスは喉の奥で低く嗤った。
そんな風に他の男の名を呼ぶことがどんな事態を招くのか、男をどんな気持ちにさせるのか。きっと彼女は考えもしていないのだろう。分からないならば教えてやらなければならない、と捕まえた蝶の羽を捥ぐような残忍な気持ちで考えた。
女性としては背が高くとも、騎士としてきちんと鍛えているフェリクスにとっては、必死の抵抗だとしてもアルレイシア程度の力では児戯に等しい。涙腺が壊れてしまったように涙を零し続けるに瞼にくちづけて、その涙を掬い取るようにじっくりと唇と舌を這わせた。そして眦まで唇を移動させると、小さくそっと涙を啜る。
左目から零れる涙はフェリクスによって堰きとめられてしまったが、右目からは未だに――――むしろ先刻よりも激しく涙が流れ、頬だけではなく顎までもを濡らしていた。雫が滴り落ちる顎を捉えている手に力を籠めて、無理矢理に顔を正面へと向けさせれば、その力が痛かったのかアルレイシアの眉間に深い皺が刻まれた。それに構うことなく、「いや」と小さく呟き続けている震える唇に、自らの唇を寄せようとした、その時。
「そこで何をしている!」
飛んできた鋭い誰何の声に、腕の中のアルレイシアの体がびくりと大きく震えた。咄嗟に声の主に助けを求めようと開いたアルレイシアの唇を、顎を掴んでいた手が塞いだ。そしてそのままその手によって背後の木の幹に頭を押さえ込まれる。
覆いかぶさるフェリクスによってアルレイシアの視界は塞がれており、声を掛けてきた人物の姿を見ることも出来ない。それは恐らく相手側からも同じで、ようやくの助け手に救いを求めることが出来ずにアルレイシアは必死にその手から逃れようと首を振った。
そんなアルレイシアの様子とわざわざ声を掛けてきた相手とに、フェリクスは内心で舌打ちして声のした方に視線を向けた。木陰からは少し眩しさを感じる陽の差す道に立ち、こちらを険しい表情で睨んでいる人物には見覚えがあった。だが、相手の名や素性を咄嗟には思い出せずに柳眉を顰める。
そんなフェリクスの反応など気にした風もなく、相手は陽射しを受けて煌く銀色の髪を靡かせて颯爽と近づいてきた。見られたくない場面に居合わせた人物に、だがそんなことを悟らせるつもりはなくフェリクスはゆっくりと唇の端を持ち上げて嘲笑に近い笑みを形作った。
「見て分からないのか? 逢引中だ、邪魔をするなよ」
揶揄を含んだ口調で言えば、迷いのない足取りが一瞬だけ立ち止まった。美しい顔を怪訝に歪めて、そちらからははっきりとは姿を見ることが出来ないであろう、彼の腕の中に捕らわれている相手を確かめるように視線を移す。そうしてから今度は立ち止まることなく傍らまで歩み寄って来た。
今度こそチッと短く舌打ちしたフェリクスの腕が、細い腕からは想像も出来ない程強い力で掴み上げられる。そのまま力ずくで、少し乱暴にアルレイシアの口を塞いでいる手が引き剥がされた。
「到底、そうは見えないな。貴殿も騎士としての心得があるならば、嫌がるご婦人に無体な真似はしないことだ」
ようやくフェリクスの腕から解放されてずるずると木に背を預けたまま地面に座り込むと、がたがたと震える体を自らの腕で抱きしめて泣いているアルレイシアの様子を痛ましげに見詰めて、淡々とした声が言った。
菫色の瞳と緑柱石の瞳が互いに鋭い眼差しで睨みあう。
フェリクスは陰のために濃さを増して見える緑の瞳に、妙な既視感を感じて知らずきつく眉根を寄せた。だが、それが何かを捉える前に相手の瞳は逸らされて、視線は案じるように座り込む女性へと落とされる。ゆっくりと腰を折ってアルレイシアの傍らに膝を就くと、力ずくでフェリクスの腕を引き剥がしたのと同じ手とは思えないほど丁重に、涙で濡れて頬に張りつく朱色の髪を優しく払った。
「大丈夫ですか、アルレイシア姫?」
先刻までの鋭さを微塵も感じさせない柔らかな声に、フェリクスはどうやらこの二人が知り合いらしいと察した。内心でもう一度舌打ちしたが、幾ら言葉を重ねたところでこの相手はこの場を引かないだろう、ということは理解できた。仕方なく、未だ泣き続けるアルレイシアにもう一度視線を落とす。
非道なことをした自覚はあったが、彼の胸中にあるのは手に入れそこなった悔しさだけで、自分自身でも驚くほど自らの行いへの後悔はなかった。
王太子の決めた婚約者候補が何だというのか。既成事実さえ作り上げてしまえば、アルレイシアにはフェリクスを拒むことは出来ない。
フェリクスだとて、最初からそのようなことをするつもりはなかった。本当は、アルレイシアの心ごと欲しいと、今も思う。けれど、耳に残る自分ではない別の男に救いを求めるアルレイシアの声に、胸の奥の一番柔らかい部分が引き裂かれたように感じた。そのことが、彼を焦燥へと駆り立てている。
無理矢理にでもこの腕の中に閉じ込めてしまわなければ、奪われてしまう。
それでも、今は引くしかなかった。未だ傍らに立ち続ける男の危険な考えを察した訳ではないだろうが、睨みあげてきた緑柱石の瞳と再び目が合った。その瞳の中に混じる非難を鼻で嗤うと踵を返した。そんなフェリクスの背を、まるで咎めるようにアルレイシアの泣き声が追いかけてくる。
子どもの頃も今も、どれほど苛めたところでそんな人間の前で泣くことのなかったアルレイシアの涙。それを見た瞬間、拭ってやりたい想いに駆られた。強情な彼女を泣かせたいと何度も思ったけれど、自分たち以外の人間が泣かせたことに驚くほど腹が立った。それなのに、彼女はフェリクスの手を拒み、剰え他の男の名を呼んだのだ。
木陰から踏み出したフェリクスを、宥めるように春の風が吹きぬけた。しかしながらその風に混じる甘い花の香りは、確かに先刻まで腕の中に閉じ込めることが出来ていたアルレイシアを彷彿とさせ、更に彼の焦燥を煽るだけだった。
(誰にも渡さない)
一瞬だけ昏い菫の瞳で天を仰ぐと、フェリクスは立ち止まることも振り返ることもなく歩き去った。
そんなフェリクスの背を見送って、アルレイシアを彼の魔手から救い出した人物――――エピストゥラはゆっくりと柳眉を顰めて独り言ちた。
「あの男、確か親衛隊に所属しているアミークス公爵家の次男で、フェリクスとか言ったか……」
聞こえてきたフェリクスの名に、アルレイシアの肩がびくんと大きく震えた。そのことに気づいて、慌てて宥めるようにその肩を撫でる。
「ああ、申し訳ございません。怯えさせてしまいましたか? もう大丈夫ですよ」
優しく安心させるような高い声音に、アルレイシアは恐怖から固く瞑っていた目をゆるゆると開いた。涙でぼやける視界に、陽の当たらない木陰でも輝いているように見える美しい銀髪と、彼女の心を優しく慰撫する少し濃度の薄い緑の彩りを見つける。
フェリクスに捕らわれた腕の中、恐怖に支配されている間ずっと救いを求めていた相手に良く似たその彩が、アルレイシアの心にようやくの安堵を生んだ。そのことでますます涙が止まらなくなる。本格的に泣き出したアルレイシアの背を柔らかく叩いて、高く澄んだ声が彼女を宥めた。
「恐ろしかったのですね。遅くなりまして申し訳ありません。もう、大丈夫ですから」
「エピス、トゥラ、どの……」
「はい」
しゃくりあげながら名を呼ばれて律儀に返事をしながらも、エピストゥラは少し距離を取ってアルレイシアの様子を眺めた。木に押さえ込まれていたために髪が随分と乱れてしまっているが、纏っている衣服にはとくに乱れがないことを確認して、安心したようにほっと息を吐く。
流石にこんな所でそこまで無体な真似はしないだろうと思いたかったが、立ち去ったフェリクスの思い詰めたような瞳の彩を思い出せば、絶対になかったという保証はない。幾ら明るい昼日中とはいえ、人通りの少ない道である。通りかかったのは偶然だったが、エピストゥラはその偶然に心から感謝した。
宥めるように背を叩いてくれる手の感触に、アルレイシアはようやく決壊していた涙が落ち着いていくのを感じた。さわり、と春の風が梢を揺らして濡れた頬を撫でていく。火照った頬を冷ますようなその冷たさに、ぞくりと背筋が震えるのを感じた。そして無意識のうちに、手の甲で必死に涙に濡れた左頬を幾度も拭っていた。
ごしごしと少し乱暴に片側の頬だけを拭い続けるアルレイシアの不自然な動きに気づいたエピストゥラが、そっとその腕を掴んで留めた。掴まれた腕に抗うような力が籠もったことで、頬を拭う理由は尋ねない方が良いのだろうと察すると、懐から手布を取り出して少し赤くなった頬に当てる。
「あまり強く拭わない方が良いですよ。腫れてしまいますから」
頬に触れた布の感触に一瞬アルレイシアの体が強ばったが、その力はすぐに抜けた。そして当てられた手布が濡れた頬を拭うに任せる。
後悔、涙、混乱と恐怖。普段は大きく心乱されることもなく、淡々とした生活を送っているアルレイシアである。短い間に襲った多くの感情に疲れ果てた心は、思う存分涙を流した今、虚脱のように凪いでいた。何かを感じることも、考えることも億劫でぼんやりとする。
そんな状態のまま、理由も聞かずに甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるエピストゥラに泣き過ぎて真っ赤になった目を向ければ、目が合ってにこりと微笑まれた。
「立てますか? 大丈夫なようでしたら、研究院までお送りいたします」
「いえ、でも……」
考えるまでもなく条件反射のように遠慮しようとしたアルレイシアに、だが有無を言わさない強引さでエピストゥラは彼女の手を掴んだ。
「いいえ、お送りいたします。今ここで貴女を置いて戻ったりなぞしたら、私はアストに殺されてしまいますから」
僅かに冗談めかして言われた言葉に含まれた名に、反応するようにアルレイシアの肩がぴくりと跳ねた。そんなアルレイシアの様子を緑柱石の瞳で冷静に観察しながらも、エピストゥラは追求することなく手を貸すと彼女を立ち上がらせる。
立ち上がったアルレイシアは少しもたつきながらも、下衣に付いた土を払い、乱れた髪を手櫛で整えた。泣き腫らした顔はきちんと冷やさなければどうにもならないだろうが、あまりにも乱れた格好で戻れば友人たちにまた心配を掛けてしまうという判断が辛うじて働いたのだ。
「あの、……ありがとう、ございます」
何とか身支度を整えると、ぎこちないながらも笑みらしきものを浮かべて礼を述べたアルレイシアに、エピストゥラも笑顔を返し。丁重にその手を取って、先導するように歩き出した。
相手の歩幅に気をつけてゆっくりと歩きながらも、時折暗い表情で俯きがちに歩いているアルレイシアの様子を窺う。二人の間に落ちる沈黙は決して気詰まりではないが、エピストゥラとしては何がしか言葉を掛けたい思いもあった。それでなくても、アルレイシアとは話したいことがたくさんあるのだ。
けれど、今のアルレイシアには話し掛けることを躊躇わせる雰囲気があった。あのような目に遭ったのだ、女性としては到底呑気にお喋りなど出来ない心境は察することが出来た。その張りつめた糸のような雰囲気と泣き過ぎて痛々しい姿に、エピストゥラは何とも言えない苦い気持ちで視線を前に戻すと、美しい銀色の眉を寄せた。
(アストに言ったら……血の雨が降りそうよね。さて、どうしたものかしら)
アルレイシアを見詰めていたフェリクスの昏く燃える様な菫色の瞳を思い出し、恐らくこのままでは終わらないだろうと彼女の騎士としての勘が告げていた。やっかいなことになりそうだ、とこっそりと息を吐く。
(とりあえず……忠告だけはしておかなければ、ね)
エピストゥラがこの場を通りかかったのは偶然だったが、助けに入ったのはアルレイシアがアストラスを呼ぶ声を聞きつけたからだった。その声を聞かなければ、助けは間に合わなかったかもしれない。尤も、その声がフェリクスの火に油を注いだであろうことは、想像に難くなかったが。
ちらりともう一度、エピストゥラよりも僅かに背の高いアルレイシアの表情を窺った。顔色は白を通り越して蒼褪めてさえ見え、暗い表情が更にその顔色を悪く見せている。そんなアルレイシアの顔を見ながら、エピストゥラは気の毒に思うと同時に苦い笑みが浮かぶのも感じた。
(きっと、この人は分かっていないんでしょうね)
エピストゥラの目から見ても、フェリクスがこの女性に抱いている感情など一目瞭然だった。しかしながら、その感情を向けられている当の本人は分かっていないのだろう。分かっているならば、あの場でアストラスの名など呼べばどうなるか想像出来たはずだ。そう思えば、フェリクスには同情を禁じえなかった。エピストゥラに同情されたところで、彼にとっては嬉しいことではないだろうが。
アストラスと言い、フェリクスと言い、この女性の何がそれほど彼らを惹きつけるのかは、アルレイシアのことを良く知らないエピストゥラには分かりかねた。それでもあの何事にも執着したことのないような兄があれほど分かり易く大切にしている相手だ。それだけでエピストゥラが彼女を助ける理由としては十分だった。
「まあ、本来はアストが助けに来るべきなんでしょうけれど」
姫君を守る騎士としても男としても、微妙に失格なのではないか。
今頃は政務宮で王太子に扱き使われているであろう兄に対して、そんな風に容赦のないことを考える。そんな思考がぼそりと無意識に口から零れると、その言葉に、アルレイシアが「え?」と顔を上げた。泣き腫らした青紫の瞳と目が合ってしまい、繕うようににこりと笑顔を向ける。
「いいえ、何でもありません」
エピストゥラの否定にアルレイシアは戸惑うようにゆるりと瞬きをしたが、恐らく深く思考をする気力もないのだろう。それ以上の疑問を紡ぐことなく、彼女は再び静かに視線を落とした。
数日前に見たときには、朗らかに楽しげな笑みを浮かべていたアルレイシアのあまりの落ち込みように、エピストゥラはもう一度深く柳眉を寄せて。彼女を無事に送り届けたら、その足で兄に会いに行くことを心に決めたのだった。