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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第三章~彼の秘密、彼女の想い
27/34

 しん、と耳が痛くなるほどの沈黙が落ちた。広い部屋には二人も人間がいるにもかかわらず、呼吸の音すら聞こえない。

「……え……?」

 変わらない美しい冷笑のまま傲然と顎を上げているユースティティアを見詰めていたアルレイシアの唇からようやく出た言葉は、掠れてきちんとした声にすらならなかった。そしてようやく呼吸を思い出したように深く息を吸い込んで唇を引き結ぶ。無意識のうちに小さく震える両手をぎゅっと握り合わせると、青紫の瞳をそっと伏せた。

 予想はしていたはずの言葉だった。だがその時になって、アルレイシアはそれを実際に告げられた場合に自分がどうするつもりなのかを、全く考えていなかったことに気づいた。

(どうするか、なんて……)

 ぎゅっと握り合わせる手に力を籠めて下唇を噛み締めた。ユースティティアの美しい紫紺の瞳はその華やかな美貌に浮かんだ笑みを裏切り、どこまでも冷然とアルレイシアの様子を探るように見詰めている。視線を逸らしても、その眼差しを肌で感じていた。

(どうするかなんて、決まっているわ)

 どちらも口を開かないまま流れた沈黙は長かったのか。

 アルレイシアはゆっくりと一度瞼を閉じた。その瞼裏に自分に向かって微笑む黒髪の青年の姿が浮かび、ぎゅっと胸を締め付けられるような痛みを感じる。それでも、一度下した決断は覆らなかった。痛みならば、自分が耐えれば良い。それ以上に、絶対的に譲れないものがあるのだ。

 再びゆっくりと瞼を持ち上げて、顎を上げた。すぐに彼女を見詰め続けていた紫紺の眼差しと目が合い、アルレイシアは真摯な表情でじっと妹のその瞳を見詰め返す。そうしてから、ゆっくりと頷いた。

「分かったわ、ティティ。貴女が、そう言うなら……私は、」

 パンッ。

 広い部屋に響き渡った鋭い打擲の音が、アルレイシアに最後まで言葉を紡ぐことを許さなかった。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかったアルレイシアはじわじわと熱を持ち始めた頬に手を当てて、ようやく自分がユースティティアに頬を張られたことに気づいた。痛みに無意識に眦に浮かんだ涙を気にすることなく見開いた瞳で見詰めた妹の表情は、どこまでも冷え冷えとした怒りを湛えていた。

「どこまで……」

 美しい薔薇の花びらのような唇が震えているのは怒りのためなのだろう。ユースティティアは悔しげに一度その唇を真珠のような美しい歯で噛み締めてから、いつも光を湛える紫紺の瞳を黒く見えるほどの怒りで染めてきつくアルレイシアを睨みつけた。

「姉さまは、どこまでわたしを馬鹿にすれば気が済むの」

「なっ……」

 あまりにも心外な言葉に反論しようとしたアルレイシアの言葉は、苛烈な眼差しによって遮られた。

「そんなつもりはない? まさか、そんな馬鹿げたことを言うつもりではないでしょうね? いつだって、貴女はそう。わたしの欲しいものを全て、最初から手に入れることが出来るのに、そうやって、それらがまるで何の価値もないものみたいにあっさりと手放して。わたしのため? 笑わせないでよ」

「ティ、ティ……」

 ふっと嘲るように笑った妹の、終ぞ見たことのないような怒りにアルレイシアは最早何も言うことが出来ず、ただ呆然と彼女の名を呼んだ。その呟きに返ってくる眼差しは恐ろしく冷たい。

「姉さまにとって、アストはその程度の存在だと言うことなのね。あの人はあんなに姉さまだけを求めているのに、アストの想いは姉さまにとって、他のものと同じようにあっさりと投げ捨てられる程度のものなんだわ。ラウダ様も、アストも……貴女は一度だって自分を想う人の気持にきちんと向き合ったことがあるの? わたしが、今まで一体どんな想いで……っ」

 昂りすぎた気持ちで言葉が続かず、ユースティティアはアルレイシアの頬を叩いた手をぐっと強く握り締めた。震える唇を引き結んで一度言葉を切ると、ぎっと強すぎる怒りを籠めた瞳で未だ呆然と見詰める姉の顔を見据える。

「貴女が何の価値もないものみたいにあっさりと投げ捨てたものが、わたしにとってどれほど欲しくて堪らないものだったか分かる? そのためにわたしがどれほどの努力をしてきたか……姉さまになんて、絶対に分からないわ。分かるなんて言う事は許さない。アストのことだってそうよ。わたしが彼の気を惹くために、どれほど頑張っていたと思うの? 貴女は何の努力もしていないくせに、あっさりとアストの気持ちを手に入れて。それなのに、彼の気持ちをまるで、道端の石ころみたいに扱うのね」

「そんなつもりはっ……」

 ユースティティアの言葉に堪らず声を上げた。彼女の怒りに油を注ぐだけだと分かっていても、それでも言わずにはいられなかった。

 だが。

「まだそんなふざけたことを言うの?」

 アルレイシアの反論はやはりユースティティアの冷たい声によって、最後まで言い切ることすら許されなかった。アルレイシアの反応に、ユースティティアはその顔から怒りを消し、氷のように冷ややかな表情を浮かべる。

「わたしは、絶対に認めないし、諦めないわ」

 断固とした口調で言い切ったユースティティアが、その表情よりも更に冷たい瞳で姉を見詰めた。星のない夜空のような昏い紫紺の瞳に浮かぶのは、紛れもない蔑みと怒り。その眼差しにアルレイシアは思わず息を呑んだ。

(駄目、だわ……)

 自分の不用意な言葉がここまで妹の心を傷つけるとは、考えもしていなかった。それでも、本当にそんなつもりではなかったのだ。ユースティティアが大切だから。嫌われていても、憎まれていても、彼女はアルレイシアにとって何よりも愛しい妹だった。

 蔑まれ、傷つけられ続けてきた子ども時代。何の打算もなく無邪気に自分を慕ってくれる彼女の存在がなければ、アルレイシアはとっくに周囲の視線に負けてしまっていただろう。ユースティティアの存在ゆえに比べられてなお蔑まれたとしても、彼女の存在がアルレイシアを支えていた。だからこそ、誰に何を言われても胸を張って生きてこれたのだ。

 それなのに。

 そんな大切な妹を、ここまで追い詰めてしまっていたなんて、今の今まで気づかなかった。

(どうして、私は)

 自分自身の不甲斐なさに歯噛みする。

 逃げ続けて来たつけがこれだというならば、あまりにも自分は愚かだったと言えよう。

「ティティ、お願い、話を聞いて」

 それでも、ここで逃げる訳にはいかなかった。ユースティティアのためにアルレイシアに出来ることは、きちんと自分の気持ちを伝えることだけなのだと。それだけは分かっていたから。だからこそ、一方的に言い負かされるのではなくきちんと話さなければならなかった。

 だが、今のユースティティアには、もう、アルレイシアの言葉は届かなかった。

「結構です。これ以上、お姉様とお話することはございませんわ」

「ティティ!」

 悲鳴のようなアルレイシアの声にも、ユースティティアはただ冷たい瞳だけを返す。そして顎を上げ、しっかりと自分よりも少し高い位置にある姉の瞳を睨み据えた。

「お姉様に譲っていただかなくても、わたくしは自分の努力で、必ずアストを振り向かせてみせますわ。貴女はいつまでも、卑屈に研究院に閉じ籠っておられるのがお似合いよ。そうやって、そこから自分には関係のない顔をして高みの見物をしていればいいのです。わたくしはわたくしの力で、欲しいものを全て手に入れてみせますから。どうぞ、ご覧あそばせ」

 言い捨てて、さっさと踵を返したユースティティアの手を掴もうと伸ばした手は、あっさりと振り払われた。

「ティティ!」

 呼び声も、手も、届かない。

 アルレイシアの声にも一度も振り向くことのないまま、ユースティティアは部屋を出て行ってしまった。

 華奢な背を飲み込んでバタリと閉じられてしまった扉を呆然と見詰めて。ずるり、とアルレイシアの体は床に崩れ落ちた。

「どう、して……」

 唇から零れた言葉に嗚咽が混じる。柔らかく彼女の体を受け止めた高級な絨毯が、パタパタと落ちた雫を吸い込んで色を変えた。

「ティティ……」

 大切な、大切な妹。

 彼女のためならば、自分に出来るどんなことでもしてやりたかった。アストラスを諦めることがどれほど辛くとも、それがユースティティアの幸せに繋がるのならば、と。アストラスを諦める苦しさより、ユースティティアが傷つくことの方が耐えられなかったから。そんな自分の中の秤こそが、ユースティティアを傷つけ、追い詰めてしまった。

 最早止めることも出来ずに溢れ出す涙に目を開けていられなくて、きつく瞼を閉じた。その瞼裏に、先刻見たユースティティアの整った冷たい顔や瞳が、浮かんでは消える。

(どうすれば、良かったの?)

 それすらも、分からなかった。分からない自分に、更に苛立ちが募る。

 いつから、彼女はあんな思いを抱えていたのか。気づかないできた自分の愚かさと呑気さに、アルレイシアはいっそ消えてしまいたいような心地になった。

「ふっ、……うぅ……」

 必死に堪えても込み上げてくる嗚咽が、堪えきれず唇から零れ落ちて。そのまま、自身の膝を抱え込んで顔を伏せた。

 アルレイシアの中の天秤がアストラスではなくユースティティアに傾き続けている以上、きっと彼女は何度でも同じ選択をしただろう。それこそがアルレイシアにとって『譲れないこと』だったが、それでも、それがユースティティアを傷つけると分かってしまった今はもう、何を選ぶことも出来そうになかった。

 静まり返った広すぎる室内に、ただ悲しげに咽び泣くアルレイシアの声だけが響いていた。


 ふわり、と動いた空気にアルレイシアの沈んでいた意識が呼び覚まされた。それでもすぐに目を開くことが出来ずに、きつく眉根を寄せる。瞼は張り付いてしまったように重く、持ち上げるのにかなりの意志の力を要した。

「無理に開けなくていいから、シア姉さま」

 言われて、アルレイシアは瞼に入れた力を抜いた。それが分かったのか、ひんやりとした感触が瞼を覆う。熱を持って腫れぼったかった瞼に感じたその感触に、アルレイシアは知らず知らずほっと息を吐いた。

「泣いたまま寝たりするからよ、姉さま。すっかり腫れてしまってるわ。しばらく冷やして腫れを引かせないと、晩餐でお父さまが心配するわよ」

 まるで子どもを叱るような口調に眉を寄せたアルレイシアの脳裏に、在りし日の母の姿が過ぎった。けれどその話し方が、彼女が母ではないことを伝えている。

「……ティーア?」

「そうよ、シア姉さま。お茶をすると約束していたのに、ちっとも来られないから心配したわ。様子を見に来たら、泣き腫らした酷い顔で眠っているんですもの、びっくりしたんだから」

 呆れたようなそれでいて労わりを含んだ末妹の言葉に、冷たい水で濡らした布に覆われた瞼が再びじんわりと熱を持った。堪える暇もなく、瞼から溢れた雫は布に吸い取られて零れ落ちることはなかった。それでも聡いフェレンティーアには姉が泣いていることが分かったのだろう。床に放り出したままアルレイシアの手に温かく滑らかな手が触れて包みこんだ。

「全く、ティティ姉さまもシア姉さまも、二人ともしょうがないんだから。姉さま、あまりティティ姉さまの言うことは気にしすぎなくても大丈夫よ。しばらくすれば、ティティ姉さまも頭が冷えるでしょ」

「で、も」

 言葉を紡ごうと口を開いたが、しゃくり上げてしまって上手く言えなかった。それに泣き過ぎたために声が嗄れてしまっている。そんなアルレイシアを宥めるように、優しい手が柔らかくアルレイシアの手の甲を撫でた。

「良いのよ、姉さま。ティティ姉さまだって、ちゃんと分かっているの。あんなの、ただの八つ当たりなんだから。でもね、それでも言わずにはいられなかったのよ。許してあげて」

「ゆるす、なんて」

 むしろ、許して欲しいのは自分の方だ。

 フェレンティーアがどんな顔で話しているのか知りたくて、アルレイシアはぎこちなく首を動かした。長椅子に頭を預けて寄りかかるようにして眠ってしまっていたため、首も肩も張ってしまって少し動かしただけで痛みを感じた。幾ら絨毯を敷いてあるとはいえ、床に座りっぱなしの腰もお尻も同様だ。

 それでも何とか固まってしまった体を解すように動かして、アルレイシアは顔の上半分を覆っていた布を取った。冷やしたためだろう、先刻は張りついてしまっているように感じた瞼だが、少しは楽に開くことが出来た。それでもやはり腫れぼったく重たかったが、それを無視して妹に目を遣る。

 室内に差し込む陽の光は大分強さを減らして、もうとうに昼を過ぎているだろうことを感じさせた。それでもずっと閉じていた目にその光は眩しく、ゆっくりと数度瞬きを繰り返す。ようやく焦点のあった目を、末妹の美しい鮮烈な赤が焼いた。

「もう少し、冷やさなければだめよ、姉さま」

「ティーア、わたし……」

 アルレイシアの手から素早く布を取りあげると、フェレンティーアは傍らに置いてあった盥に張ってある水に再度その布を浸した。そして有無を言わせず、再びアルレイシアの瞼を覆う。視界が覆われる寸前に見た妹の緑柱石の瞳が湛えた労わりと優しさに、アルレイシアは傷ついた心がそっと慰撫されるのを感じた。

「わたしが、ティティをきずつけたの」

「シア姉さま」

 擦れた声で何とか紡いだアルレイシアの言葉に、フェレンティーアの少し冷えた手がもう一度アルレイシアの手を握った。

「そんなつもりはなかった、なんて、いいわけね……」

「それは違うわ、姉さま」

 自嘲するような呟きに、フェレンティーアがやんわりと、けれど断固とした口調で言いきった。

「シア姉さまだけが悪いわけじゃない。ティティ姉さまも同じくらい悪いのよ。シア姉さまは、どうしてティティ姉さまがあんなに怒ったのか、ちゃんと分かっている?」

「それ、は」

 言い淀んだアルレイシアに、最初から答えなど分かっていたのだろう、フェレンティーアの声が柔らかくなる。

「分からないのでしょう。良いのよ、だって分かってもらう努力をティティ姉さまはしていないんだもの。平気な顔をして、我慢して装って。それで、分かってくれないと怒るなんて、子どもの癇癪と同じだわ。喧嘩は両成敗だし、シア姉さまも悪いけれど、今回は圧倒的にティティ姉さまが悪いの。だから、それほど気にしなくても大丈夫よ」

 自分より八つも年下の妹の大人びた口調に、アルレイシアは言い返すことも出来ずに口を噤んだ。そしてフェレンティーアの言葉をまだ鈍く痛む頭で反芻して――――ようやくそれの意味することに気づいて息を呑んだ。

「ティーアは――――しって、いるの? ティティが、おこったりゆうを」

「ええ、まあ。確信はないけれど、なんとなくは。っていうか、どう考えても姉さまたちの諍いには、あんの腹黒策士が一枚噛んでるとしか思えないわ。後で覚えてなさいよ」

「え?」

 最後の方は小声になったため、上手く聞き取れなかったアルレイシアにフェレンティーアは何でもない、と首を振って、すぐに姉には見えていないことを思い出して口を開いた。

「いいえ、何でもないわ、姉さま。こっちの話。気にしないで」

「でも」

「良いから。とりあえず、姉さま。動けるなら寝台に移って、晩餐まで少し眠ったら? 瞼はちゃんと冷やしてね」

 言い募ろうとしたアルレイシアの言葉を遮って、フェレンティーアが何かを誤魔化すように握ったアルレイシアの手をそっと引っ張った。それに促されるように痛む体を宥めすかして立ち上がる。一度布を外し、開けた視界に映ったフェレンティーアはにこりと微笑んでいた。

「ティーア?」

「泣き疲れてるんでしょ。そんな頭で考えても碌な考えが浮かばないわ。ゆっくり休んで、しっかりご飯を食べて、お風呂に入ってさっぱりして、考えるのはそれからよ。大丈夫、私は姉さまの味方だから」

 優しく温かい妹の言葉に、傷ついて擦り切れたような心がじんわりと癒された。滅多なことでは泣いたりなどしなことがなかったはずなのに、まるで涙腺が壊れてでもいるかのように再び目頭が熱くなる。

「ああ、もう。これ以上泣いちゃだめよ。また目が腫れてしまうわ。ほら、こっちにきて」

 フェレンティーアに誘われるようにして、寝室へと足を向けた。私室と同じように久々に足を踏み入れる寝室は、それでも記憶にあるままだった。きちんと洗濯されている、柔らかな感触の敷布からする優しい香りも記憶のままだ。

 アルレイシアは寝台の上、掛布に身を包むと幼子のように膝を抱えた。普段はそんなことをしない。それは落ち込んでいる時の彼女の癖だった。そんなアルレイシアを慰めるように、優しくフェレンティーアの繊手が頭を撫でる。

「ゆっくり休んで、姉さま」

 その温かく優しい手と亡き母を思い出させる妹の声に、アルレイシアは余計な物思いを忘れ、再びとろとろとした安らかな眠りに引き込まれていった。

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