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ラウダトゥールと話をしてから二日後。
アルレイシアは毎朝、ほぼ同じ時間に自室の扉が叩かれることに笑みを浮かべた。部屋を訪れる人物は受付の人間だが、毎朝同じ時間と言うのは花を届けにくる人物の性格が表れているのだろう。そんなことを考えながら、今日はどんな花なのだろうと少しわくわくするような心持ちで扉を開けに向かった。
「はい、……って、ティーア?」
「おはようございます、シア姉さま」
扉の向こうから表れたのは予想していた受付の人間ではなく、にっこりと輝くばかりの極上の笑顔を浮かべた彼女の末の妹だった。その予想外の人物の姿にアルレイシアは目を丸くする。
「まあ、どうしたの、こんなに朝早くから」
少女を室内に招きいれながらかけられた呑気な言葉に、フェレンティーアは笑顔を消して少しだけ拗ねたように唇を尖らせた。
「どうしたの、ではないわ、シア姉さま。今日は屋敷に帰って来ると言っていたから、迎えに来たの。そうでもしなければ、姉さまはなかなか帰って来ないじゃない」
「そんな、帰ると言った以上はちゃんと帰るつもりだったわよ」
基本的に客を持て成すのは応接室であるため、アルレイシアの私室には応接用の机や椅子は用意されていない。そのためアルレイシアは普段使用している椅子をフェレンティーアに譲ると、手早く香草茶を淹れ始めた。
準備をしている間にちらりと妹を見やれば、彼女はその白い小さな手に可愛らしい淡い黄色の花を大切そうに持っていた。そしてその緑柱石のような美しい澄んだ瞳は、きょろきょろと興味深げにアルレイシアの部屋を見回している。
ちっとも屋敷に帰ってこないアルレイシアに業を煮やして、フェレンティーアが訪ねてくることは度々あった。その時はちっとも変化の無かった室内に見られたところでどうと言うことはなかったが、今は嘗てとは随分と変わってであろう室内を見られることは、何とはなしに気恥ずかしかった。
「随分と花が増えたのね。まあ、こうして毎朝届けてくれる方がいれば、増えもするでしょうけど……律儀な方ねぇ」
そう言うと、淹れたての香草茶が入った茶器を持ってきたアルレイシアに、手に持っていた花を差し出した。妹の笑顔に僅かに眉を顰めて黙ったままそれを受け取ったアルレイシアに、にっこりと満面の笑みを向ける。
「ラウダ様やウィルから聞いていたより、もっと素敵な方だったわ。礼儀も正しいし、あの方ならお父さまも文句を言わないんじゃないかしら」
「どうしてそこでお父様が出てくるのか分からないわ」
貰った花をすっかりと慣れた手つきで処理をする。そして昨日水替えを行っていない花瓶とその花瓶に挿していた花の根元を洗い水を替えると、枯れ始めてしまった花を除けて、まだ咲いている花と一緒に貰った花を活けた。
手慣れた様子で花を活けている姉を楽しげに眺めながら、フェレンティーアは出されたお茶に口をつける。今まで贈られた花は全て問答無用で処分してきたアルレイシアだ。こうして貰った花を大切に手入れしているだけで、贈り主に対する気持ちの違いが透けて見えるようだった。
花の処理が終わるとアルレイシアは予備の椅子を用意してそこに腰掛けた。淡い花のように柔らかなお茶の香りを楽しむように茶器に顔を近づけると、一口口に含む。口いっぱいに広がるその味に満足して笑みを浮かべると、ご機嫌で香草茶を楽しんでいるフェレンティーアに視線を移した。アルレイシアの視線に気づいたフェレンティーアはその愛らしい顔に何か含むような笑みを浮かべる。
「どうしてって。シア姉さまがその年まで婚約者も決まっていないのは、姉さまだけの責任ではないでしょ。本来なら家のことだもの、姉さまだけではなくてお父さまだってもっと真剣に跡取りのことを考えるべきなのに、申し込みを尽く断っていたのはお父さまじゃない」
「それは……お父様は私のことを考えて、」
「甘いわ、シア姉さま。もちろん、お父さまはご自分が恋愛結婚だから、姉さまにもそれをお許しになるつもりで口を出さない部分もあるでしょうけど。実際は、娘を取られたくないだけなのよ。シア姉さまは婿を取って家に残ってくれるからまだ我慢できるとしても、私たちは嫁に行く立場だから。でも、一番上のシア姉さまが結婚しなければ、ティティ姉さまだってお嫁に行けないでしょ?」
「……なるほど」
澄ました顔で言い切った妹の言葉に、アルレイシアは目を瞬いて納得すると呆れたように頷いた。確かに幾らアルレイシアがファーブラー家の跡取り娘だとしても、二十歳を過ぎてしまった娘は歴とした嫁き遅れだ。貴族の家ならば本人の意思などにかかわらず、とっくの昔に親に婚約者を押し付けられていてもおかしくない。
それがないことを今まで特に疑問にも感じていなかったアルレイシアは、婚約者がいたにもかかわらず熱烈な求愛で母を射とめた父の恋愛結婚への拘りだと考えていた。しかしフェレンティーアの指摘に改めて考えてみれば、彼だって自分の娘が両親のような熱烈な恋愛をする性質ではないと、とっくに気づいていない筈が無い。そのことからしても、フェレンティーアの言い分は至極納得のいくものだった。
「まあ、それでも」
今さらになって妹の言葉に気づかされているアルレイシアの呑気な様子にフェレンティーアは苦笑する。そして元々は必要最小限の物と本ばかりの殺風景と言えるような部屋が、美しい色とりどりの春の花で飾られている様を見渡してにっこりと微笑んだ。
凛と澄んだ白、優しく温かい黄色、爽やかな淡い緑色、美しく色づく桜色。
愛を伝えるにはごく控えめな色合いに感じられるそれらは、けれどアルレイシアがいつも生活している空間に、その色合いから感じられるよりも遥かに強くはっきりとした色を添えていた。強く主張しなくとも、傍らに寄り添ってずっと見守るように、包み込むように。殺風景な部屋を彩る花は、しっかりとアルレイシアの傍で咲き誇っていた。
だからこそなおのこと、この花たちを贈った人物の想いの深さが垣間見えるような気がする。それは決してフェレンティーアの思い込みではなかった。
「どうやら、お母さまにとってのお父さまのような方が、シア姉さまにも現れたのだもの。お父さまもいよいよ、観念しなければならないわね」
「ティーア」
困ったように眉を顰めるアルレイシアの姿にくすくすと楽しげに笑いを零して、フェレンティーアは姉の淹れたお茶を飲み干した。そして使った茶器を片付けると、緑柱石の瞳をきらきらと輝かせて弾むような足取りでアルレイシアの目の前へと歩いてきた。そんな妹の姿を、アルレイシアは眩しいような心持ちで見詰める。
フェレンティーアが歩くのに併せて、結い上げていない腰ほどまでもある豊かな、長い深紅の髪が楽しげに踊る。艶やかなその髪は、まさに紅蓮の炎のように鮮やかで印象的だ。
くっきりとした弧を描く髪と同じ色の柳眉、澄んだ美しい緑柱石のような瞳、大きな目を縁取る睫は長く、白いきめ細かな頬に影を落としている。すっきりとした鼻筋、少し薄めだが形の良い唇、小さな白い顔にそれらが理想的と思える配置で並んでいた。
まだ女性らしい丸みこそ少ないけれど、すっきりと伸びた若木のようなしなやかな体。その体を包む春らしい淡いベビーピンクのドレスは、彼女にとても良く似合っていた。
そんな妹の姿は成長していくほどに、在りし日の母を思い起こさせる。それを思えば、フェレンティーアが言う父と母のような恋は、彼女のような娘にこそ相応しいと思えた。
フェレンティーアは自分の言葉に、口にこそ出さなかったものの自信なさげに眉を下げた姉の姿に軽く目を瞬いた。一瞬何かを言うべきかと思ったが、姉が妹たちに感じている劣等感を言葉にはされずとも察していたため、結局は何も言わずに口を噤んだ。姉の劣等感を払拭できるのは、フェレンティーアにとっては残念なことながら、彼女たちの言葉ではないととっくの昔に察していた。
父に良く似て王家の血を濃く表すユースティティアにも、母に生き写しと言われるほどに良く似ているフェレンティーアにも、どれほど言葉を重ねたところでアルレイシアの劣等感を消し去ることはない。幼い頃からどれほど否定しても、妹たちや幼馴染たちの言葉ではアルレイシアの凝り固まってしまった心を解きほぐすことは出来なかったのだ。
だからこそ。
(そう、これからはアストラス殿に頑張ってもらわなければね)
それを出来るのはアルレイシアを誰とも比べることなく、彼女を彼女として認める人物以外には無理だろう。フェレンティーアはアストラスの話を聞いてからずっと、彼にその役割を期待していた。そして今日初めて彼と会い、ますますその確信を強めたのだ。
最後に会ってからほんの数日しか経っていないと言うのに、フェレンティーアの目から見て姉は明らかに変わっていた。どこがどう、とははっきりとは言えない。容姿ではないのだ。それは言うなれば雰囲気といえるものだった。
アルレイシアという人物を良く知らない人間が見ても分からないだろう。けれど、だからこそ彼女を知る人間にはその変化はいっそ劇的に感じられるほどだ。
アルレイシアが纏う香りが香草から薔薇の花に変わった如く、それは花を忘れた若木の芽吹きのように鮮やかに。香りという近くに居なければ分からない、けれど確かな変化と同じように、アルレイシアは今まさに花開くための準備を始めたのだ。
固く閉じていた蕾が綻ぶように、硬い殻が割れるように。じっと長い冬を耐えて養分を蓄えてきた木は、春とともに葉を茂らせて花を咲かす。
アストラスという青年と出会ってからの短かい時間で、アルレイシアにはジール王国と同じように遅い春が――――花開く時間が訪れようとしているのだ。
フェレンティーアを眩しいもののように見上げるそんな姉の姿こそを眩く感じ、知らず彼女は頬を緩めていた。
「とりあえず、詳しいお話は屋敷に帰ってゆっくりとしましょう。ね、姉さま」
差し伸べられたフェレンティーアの手に、アルレイシアは苦笑してゆっくりと自身の手を重ねた。
今でも妹の白くたおやかな手と並べてしまえば、アルレイシアの手は大きい。以前ならば手を差し伸べられても、それを取ることは躊躇ったかもしれない。それでも、大きな手を以前ほど恥ずかしいと感じなくなったのは、確かにアストラスという存在がアルレイシアに齎した変化であった。重ねられた手をフェレンティーアは嬉しそうにぎゅっと握り締める。
仲の良い姉妹は手を握り合うと、にっこりと互いに笑顔で顔を見合わせたのだった。
アルレイシアは準備をしていた荷物を手に、フェレンティーアが乗ってきたファーブラー公爵家の馬車に乗り込んだ。実家である屋敷に帰るのだから、元々それほど荷物は多くない。そのため、馬車に乗り込む際には従僕の手を断って自分で荷物を積み込んだ。
二人を乗せた馬車は王立研究院の正門を出ると、順調に王都リジエラの貴族の屋敷が存在している高級住宅街へと向かっていた。
「そういえばシア姉さまの髪、随分伸びたのね。今日は髪を切るの?」
今日は結い上げていない朱色の髪は常に保っていた胸元を越え、今はその背中を覆い始めている。きちんと手入れをされて美しい艶を保ってはいるが、色が好きではないと一定の長さを越えると切っていた。しかし、今はそうするつもりは無かった。
下ろされたままの髪を一房手に取り、じっと眺める。先日彼が美しいと褒め、くちづけを落とした髪。嫌いな髪色も優しくて温かいと言ってくれた。
「姉さま?」
質問に答えないまま黙りこくったアルレイシアに、フェレンティーアの不思議そうな声が掛けられた。自身の髪を握り締めたままぼんやりとしていたアルレイシアは、その声にはっとして少し忙しなく目を瞬く。そして先刻の質問を思い出すと慌てて髪を手放した。
「え、ええと、髪は……切るのは止めたのよ。その、もうこんな年だし、あまり短いのもみっともないでしょう。だから、もう少し伸ばしてもいいかと思って」
別に恥ずかしい訳でもないはずなのに何故か頬が熱くなるのを感じながら、何とか笑顔を繕って少し早口に言ったアルレイシアに、聡い妹は何かを察したような表情になって。けれど、それ以上のことを尋ねたりはせずに同じように笑顔を返した。
「そう。良いと思うわ、シア姉さまはご自分の髪色が嫌いだと言うけれど、私は好きだもの。もっと長くしても良いのに、とずっと思っていたのよ」
「そう、なの?」
「ええ。ふふふっ、今度はその髪色に似合うドレスを作りましょうよ。舞踏会の夜のように私が見立ててあげるわ」
嬉しそうににっこりと微笑んだフェレンティーアにつられるようにアルレイシアも笑顔を浮かべた。
今までならばあまりまともに受け取らなかった妹の言葉も、今はすんなりと信じられる。何よりも、その変化が嬉しかった。




