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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第三章~彼の秘密、彼女の想い
24/34

 アストラスと並んで夜の王宮の回廊を歩いていく。アルレイシアにとっては我が家ほどに歩き慣れた道だ。一人で歩くことになんら不自由はないが、結局「ぜひに」というアストラスの申し出を拒みきることが出来なかった。

 夕食も終わった今の時分、王宮の回廊にはほとんど人気がない。時折姿を見かけるのは要所要所にいる警備の者と、王宮内に部屋を持っている官吏の者ぐらいだ。それでも、こんな時間に男性と二人で歩いているなどとは、流石のアルレイシアでも人目が気になる。そのため、必要以上に俯きがちになってしまっていた。

 そんな彼女の様子に気づいているのか、アストラスは特に話を振って来ることもなく、長い回廊を二人黙々と歩いていた。それでも不思議とその沈黙は気詰まりではなかった。

 王宮内から研究院へと続く道に入って、アルレイシアはようやく顔を上げる。やはり所々に警備の者はいるが、それでも王宮内よりは人目も気にならなくなったためだ。彼女の隣からはきちんと整備された石畳の道を踏む規則的な長靴の音がしており、夜の外苑にその音は意外なほど良く響いていた。歩きながらその音にしばし耳を傾けていたアルレイシアは、ふと気づいた。

(随分とゆっくりだわ)

 そう考えて、それも当然だと思い直す。アルレイシアが歩く速度は全く普段と変わっていない。だが、アストラスが彼女と同じ歩幅だなどということはありえなかった。それは朝立ち去って行く背中を見送ったためによく分かっている。即ち、彼女が歩く速さを上げていなければアストラスが彼女に合わせてゆっくりと歩いているしかありえないのだ。

 そのことに気づき、ふと足が止まる。

 半歩も進むことなく、彼も立ち止まったアルレイシアに気づいて足を止めた。

「どうかなさいましたか?」

 急かすでもなくごく穏やかな口調でかけられた声に、アルレイシアは俯いて首を振ることしか出来なかった。

(どうして、この人は……)

 アストラスの気持ちを受け入れるか否かきちんと考える、と約束したけれど、本心では迷ってばかりいた。まるでその迷いを知っているように、そして諦めないと言った言葉を表すように、彼は自らの気持ちを言葉だけでなく態度でもはっきりと示してくる。そのことに気づかされる度、彼女はただ翻弄されて狼狽えてしまうのだった。

 増えていく部屋の花の分だけ、自分の中の何かが変わっていくようで。そのことに躊躇して、恐怖を覚える。

 けれどアストラスは決して強引ではないながらも、そんな彼女の迷いに切り込むような強さで踏み込んでくるのだ。

「アルレイシア姫?」

 呼ぶ声は柔らかい。そのことに、気づいた。気づかされてしまった。

 エピストゥラといた時の彼は親しげではあったけれど、こんな声で話してはいなかったのだ。その低い声は艶やかな甘さを含んでとても耳に心地良い。その声が、アルレイシアにだけ向けられている特別なものなのだと。向けられる翡翠の瞳が湛える穏やかな甘さも、特別なもの。

 エピストゥラの言っていた分かり易い、というのはこういうことなのだ。アルレイシアが当たり前だと思って甘受していたアストラスの態度全てが、彼女に向けられた特別なものなのだということに今さらながら気づかされた。

 本当ならばすぐにでも彼に背を向けて駆け去ってしまいたかった。その瞳を向けられると、かつてそうしたように見ないで欲しいと懇願したくなる。しかし今はもう、それをすれば彼が傷つくと分かっているから出来なかった。

(本当に……何も分かってなかったんだわ、私)

 ウィルトゥースに鈍いと揶揄されても仕方がない。アルレイシアにとって出逢った時からアストラスはこうだったから、誰に対してもそうなのだろうと思い込んでいた。自分に向けられている彼の態度や眼差しが特別なものだなどと、考えようともしなかった。

 エピストゥラのように普段のアストラスを知る人物にしてみればあんな一瞬で気づいてしまえるほど、彼のアルレイシアに向けらる好意はあからさまなのだと知らされて、最早困惑することしか出来ないでいるのだった。

 そっと窺うように隣に立つ青年を横目で見れば、真っ直ぐに彼女を見つめる真摯な瞳と目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。けれどそうしてしまってから、今度は視線の逸らし方がわざとらしかったかと悩む。そして俯いている視界には映っていないにもかかわらず、その眼差しが真っ直ぐに注がれていることを肌で感じずにはいられなかった。

 じりじりと肌に焼きつくように見詰められていることに耐え切れずに、アルレイシアは急かされるように口を開いた。

「あのっ」

「はい」

 特に何を話そうと考えがあったわけではなく、返事を返されて慌てて動きの鈍い頭を回転させる。先ほどまでは気詰まりではなかったのに、今は少しの沈黙も耐えられそうになかった。これ以上黙ってあの視線に晒されたら、本気で泣き出してしまいそうだ。

「その……エピストゥラ殿のことなのですが」

 何となく頭に浮かんだ銀色の髪の美女の微笑みに救われたような気がして、アルレイシアは何とか不自然でない程度に言葉を続けることが出来た。そうして言葉にして初めて、彼女に関して訊きたいと思っていたことがあったことを思い出す。

 まだあの翡翠の瞳を見返す決心がつかないため、失礼だとは思いつつも、俯きがちに視線を伏せたままアルレイシアは言葉を続けた。

「エピストゥラ殿は、アストラス殿の妹君なのですよね……?」

「はい。三人の兄妹の中で私だけが父方の祖父の血で黒髪ですが、妹と兄は母親似の銀髪なのです。姫は私とエティが似ていると仰っていましたが、そんなことを言われたのは初めてでした。兄と妹は幼少時より良く似ていると言われているのですが、私は間で一人、似ていない兄妹だと言われていたので」

「そう、なのですか? 確かに髪色などで受ける印象が大きく違いますからすぐには分かりませんでしたけれど、お顔立ちはとても似ていらっしゃると思いますわ」

 似ていない姉妹というならば、自分たちだろう、とアルレイシアは内心で自嘲する。

 ユースティティアのような華やかさも、シェレスティーアのような鮮烈さも持たない彼女自身と比べたら、アストラスとエピストゥラの差異など大したものではないように感じられた。そんなアルレイシアの気持ちを察したようにアストラスの硬い手が彼女の手に触れた。そうして引かれた手の指先に、朝にも感じた柔らかさが落ちる。

「我々兄妹が似ているかどうかは私には分かりかねますが、正直、どうでも良いのです――――私は、誰とも違う貴女が愛おしい。そのことだけは、忘れないで下さい」

「アストラス、どの……」

 くちづけとともに落とされた言葉に、アルレイシアの瞳が揺れた。先刻までの躊躇いを忘れ、見下ろしてくる瞳を見上げる。アルレイシアの視線を受けて、その翡翠の瞳が愛おしげに細められた。

「ご迷惑でなければ、どうぞ、アスト、と呼んで頂けますか」

「え?」

 ゆっくりと睫を瞬いてから、ようやく彼の言葉を飲み込んだ。指先は変わらず捕らわれたまま、それでもきっと拒めばあっさりと解放されるだろうそれを、朝のように振り払う気にはなれなかった。

 俯いて息を呑む。緊張に少し乾いた唇を潤すように軽く舌で湿らし、捕らわれているのとは反対の手で胸を押さえた。その手にどきどきと脈打つ鼓動が伝わってきて、その大きさに目の前の青年に聞こえてしまいそうで夜の静けさが気になった。それでも意を決して口を開く。

「アスト……」

「はい」

 出た声は擦れたようにごく小さなものだったが、アストラスにはきちんと聞こえたようだった。満足げな声で返された返事にも顔を上げることは出来なかったが、見てはいないもののアストラスが微笑んでいることは気配から伝わってきた。その雰囲気にいたたまれず浮かんでくる羞恥を必死に噛み殺して、アルレイシアは何とか話題の軌道修正を図ろうとする。

「え、ええと、その。あの、お話の続きを……させていただいても、よろしいかしら」

 所々噛みながらも何とか告げた彼女にアストラスが喉の奥で小さく笑う声が聞こえた。掴んでいたアルレイシアの手を返して、今度は指先ではなく手のひらに唇が落とされる。そして驚きで固まったアルレイシアにその手を解放すると微笑みかけた。

「どうぞ。貴女が訊かれたいことは、出来る限り答えさせて頂きますので」

「あ、え、ええ。その……」

 咄嗟の事態に直前まで考えていたことが頭から飛んでいってしまい、アルレイシアは耳までも赤く染めながらうろうろと落ち着かなく視線を彷徨わせた。そんな彼女の様子をアストラスは辛抱強く見守っているのだ。その視線すら居た堪れなくて、真っ直ぐに見返すことすら出来ない。

(本気で、逃げたい……)

 だが緊張で体が強ばり膝が笑っている状態では、逃げ出した所で無様に転んで終わりだろう。そう自身の状態を客観的に頭の中で判断すると、次第に冷静さが戻ってくるようだった。解放された手をもう片方の手で握りこんで、アルレイシアは小さく深呼吸を繰り返す。握り締めた手のひらが驚くほど熱いような気がするのを、無理矢理意識の外に追いやり何とか思考を整えた。

「エピストゥラ殿は貴方の妹君なのに、なぜ『リーヴェル』と名乗っておられるのですか?」

 そのせいで一部の騎士団の者たちには彼女がアストラスの恋人だと思われているのだ。最も、アルレイシアにその話をしたのは騎士団の者だけではなかったが。

「ああ、そのことでしたか」

 アルレイシアの問いにあっさりと頷いて、アストラスはそのすっきりと引き締まった頬に僅かに苦笑を刻んだ。慈しみとどこか呆れを含んだその初めて見る笑みにアルレイシアは目を瞬いた。僅かな驚きを含んだ彼女の視線にアストラスは少しわざとらしく困ったように肩を竦めて見せた。

「私の妹だと知られて、七光だと思われるのが嫌なんだそうです」

「え?」

 言われた言葉の意外さに、思わず間の抜けた声を上げてしまったアルレイシアに微笑んで、アストラスは言葉を続けた。

「私はウィルトゥース殿ほどではありませんが、騎士としての叙任を受けたのは早い方でしたし、それに伴って騎士団内での出世も早かったのです。エティ……妹が騎士団に入ってきた時にはもう、第一騎士団の部隊長を任されておりました。そのために、彼女は自分の実力外のこと、即ち私との縁故を疑われるのを嫌って妹だと公にするのを嫌がったのです。そのため義姉上の実家であるリーヴェル子爵家の名を借りて騎士団では過ごしているのですよ。ああ、もちろん第一騎士団は身元証明が不可欠ですので、当然団長以下騎士団の主だった幹部の方々は妹の素性を知ってはいますが、彼女の意向を尊重し、リーヴェルと名乗ることを許してくださっているのです」

「それは……随分としっかりした考え方の妹君なのですね」

 もちろんジール王国一とも言うべき騎士団に縁故入団はありえない。エピストゥラは正真正銘自力で認められたのだろうが、それでも難癖つける人間はいるのだろう。そんな火の粉を嫌った彼女の気持ちは分からないでもなかった。大きすぎる後ろ盾はありがたいこともあれば、それ自体が障害になることもあるのだ。

「しっかりというより、負けず嫌いなのです。なぜかあれは昔から私のことを異様に敵視しているので……縁故だと言うのが嫌というよりも、私の(・・)妹だから、と周りに思われるのが我慢ならないのでしょう」

「まあ」

 大げさに竦められた肩とその言葉にアルレイシアは目を瞠って。それから堪えきれずにくすくすと笑いを零した。アストラスは変わらずその切れ長の翡翠の瞳で彼女の様子を見守り、月明かりが照らす美しく整えられた外苑には暫しアルレイシアの柔らかな笑い声が響いていた。

 一頻り笑って気が済んで顔を上げたアルレイシアの目の前、先ほどよりも近い位置にアストラスの端整な顔を見つける。思わず目を瞬いて見つめたアルレイシアに、アストラスは優しく甘やかな微笑を向けた。

 ゆっくりとアルレイシアに逃げられるだけの猶予を与えて手を伸ばすと、少し強い春の夜風に乱されてほつれた後れ毛をそっとその硬い指先で丁寧に梳く。そのままするりとその手がアルレイシアの後頭部に回り、軽く頭を抱き寄せられた。

 女性にしては大柄なアルレイシアだったが、それでもアストラスと並んでしまえばその体は多少肉付きの薄さはあれど女性にしか見えないものだ。抱き寄せられた腕に軽々と体を抱えられた時のことを思い出してしまい、咄嗟に硬直したアルレイシアを、けれどアストラスはそれ以上強引に抱き寄せはしなかった。しかし抱き寄せられた頭に顔が寄せられ、ちょうど彼女の額の辺りにアストラスの吐息を感じてしまうと、ますます彼女は硬直するしか出来ない。

「先日から気になっていたのですが」

「は、はい」

 顔を言わず体中の血が沸騰したように熱くなり、ぐるぐると脳髄をかき混ぜられたように思考が回っていたが何とか返事だけは返すことが出来た。それでも彼の言葉を半分も理解出来てはいなかったが、そんなアルレイシアの様子に気づいた風もなくアストラスはああ、と何かに納得したような声を漏らした。

 そのため息のような声とともに落とされた吐息に前髪が揺れ、アルレイシアはぐにゃりと腰が抜けたようにその場にへたり込みそうになってしまう。力が抜けてしまったアルレイシアの体を、少し慌てたようにアストラスの逞しい腕が抱きとめた。

「申し訳ありません。大丈夫ですか?」

「………」

 本当は大丈夫だと抱きとめる腕を突き放したかったが、それをしてはみっともなく座り込むことになってしまうのが分かっていたため出来なかった。アルレイシアに出来たのはただただ耳朶から首筋まで羞恥に真っ赤に染めて、少し潤んだ瞳で恨みがましげに背の高い青年を見上げることだけだった。

 そんな彼女の様子にアストラスは一瞬息を呑んで。それから少し困ったように苦笑した。

「失礼」

 いつかのように端的に謝罪を述べて、その支えてくれていた逞しい腕が軽々とアルレイシアの体を抱き上げた。ふわり、と彼女の髪や肌から立ち上った芳香にアストラスはそっとため息を零す。

「本当に申し訳ありません。貴女をそんなに驚かすとは思わなかったのです。ただ、香りが……」

 呟いたアストラスの唇が抱き上げたアルレイシアの米神に寄せられた。

「貴女の纏う香りが以前とは異なっていたので気になっておりまして。これは、薔薇の香りですか?」

 甘さを含んだ中にも凛とした爽やかさを感じさせるそれは、アストラスが以前贈った白い薔薇を彷彿とさせた。腕の中の女性に、彼が最も似合うと思った花。

 アルレイシアは地面に足が着かない不安定さに心もとなくなりながら、身を焼く羞恥に両手で頬を覆い隠した。

 アストラスの指摘通り、アルレイシアが纏う香りは確かに以前と異なっていたのだ。以前使っていた香り袋は気にいった香草を詰めたものだったが、先日から彼に貰った白薔薇の花びらを詰めたものに変えたのだった。踏み潰されてしまった花のためあまり無事だった花びらは多くなかったが、それでもフェレンティーアの協力のおかげでちゃんと香り袋にすることが出来たのだ。

 だがいかに鈍いアルレイシアとて、今この場でそれを告げるのはあまり自分にとって良い事態を招かないことは予想がついた。だから彼女はただ掛けられた問いに頷くだけに留める。それでもアルレイシアの体を腕に抱く青年には何か思うところがあったようだ。流れた沈黙が妙に居心地の悪さを感じさせて、アルレイシアは無意識に身を捩っていた。

「アルレイシア……」

 彼女のそんな動きに触発されたようにアストラスの腕に力が籠もり、低い囁きとともにぐっとその体を彼の体に強く押し付けられた。

「やっ……」

 思わずアストラスの肩に手を突いて抗ったアルレイシアに、瞬時にその腕に籠もった力が抜ける。けれど変わらず彼女を抱き上げたまま、その肩口に顔を伏せたアストラスの唇から少し苦しげな声が零れた。

「貴女を、愛しています、アルレイシア。気が狂いそうなほど………どうか、俺を拒まないで下さい」

 抱き上げられているのはアルレイシアの方にもかかわらず、縋りつかれているような気がしてしまい、それ以上拒絶の言葉を言うことは出来なかった。それでも抱きしめ返す決心もつかないまま、アルレイシアはただアストラスの腕の中で小さくなるしか出来ない。そんな彼女の傍らでアストラスが何かを堪えるように深い呼吸を繰り返しているのを感じていた。

「戻りましょう――――申し訳、ありませんでした」

 やがて顔を上げた彼の口からは常の落ち着いた声が紡がれ、アルレイシアはようやく強ばっていた体から力を抜いた。それでも何だか無性に居た堪れない気持ちになってしまっていて、縮めこめた体を戻すことは出来なかった。

 王立研究院までのそれほど長くもない距離を黙々とアストラスの腕に揺らされている間に、何とか気持ちは落ち着いてきていた。そしてようやく顔を上げてアストラスの腕の中から周囲を窺い、そこがもう研究院の間近であることに気づいて少し慌てた。研究院と王宮の敷地の間には通用門があり、そこには警備の兵がいるのだ。怪我をしていた時は堪えたが、そうではない今このまま戻るのはさすがに恥ずかしすぎた。

「あの……アスト」

 躊躇いのために小さくなってしまった声を、それでも彼はちゃんと聞きつけてくれた。見下ろしてきた瞳に先刻のような焦燥の影がないことにホッとしつつ、それでもその瞳の奥に翳りがあるような気がして、また傷つけてしまったのかと胸が痛んだ。

「もう歩けますから……その、降ろして頂けますか。これ以上先に進むと警備が……」

「あ、ああ……そうでしたね」

 アルレイシアの言葉に思い出したように頷くと、アストラスはとても大切なもののように丁重にアルレイシアの体を地面に降ろした。ふわりと離れていく温もりに安堵と寂しさが同時に過ぎり、彼女はなんとも言えない心地で背の高い青年の顔を見上げる。アストラスもまた激情こそないものの、深い翡翠の瞳が切なさを宿して彼女を見下ろしていた。

「ここまでくれば、もう、一人でも大丈夫です。お手数をかけて、ごめんなさい」

 告げたアルレイシアにアストラスは静かに首を横に振って、その唇が何かを言いたそうに動いたが、それは声にはならなかった。そんな彼の表情の動きを具に見て、アルレイシアは何か言わなければいけないような焦燥に駆られた。

 いつものように一歩下がって礼を取ろうとしたアストラスの腕を、手を伸ばして掴まえる。驚いたように見開かれた翡翠を必死の心地で見詰めた。

「あの、以前のお約束を覚えていらっしゃる?」

「………ええ」

 そんなアルレイシアの必死さが伝わったように、アストラスの表情が緩んで小さく苦笑が刻まれた。その顔に安心してつられるように表情を緩めるとアルレイシアは言葉を続けた。

「何時でしたら、日がよろしいんですか?」

 アルレイシアの問いにアストラスは暫し逡巡した後、ゆっくりと唇を開いた。

「それでは、次の満ち月の日――――十日後に、お逢いできますか」

「ええ、分かりました。お待ちしていますわ」

 にこりと笑顔を向けて頷いたアルレイシアは、相応の意志を込めて言葉を紡いだ。今までのような偶然の邂逅でも、お礼などという口実でもない純粋な約束であるそれを心待ちにする意図を持って。そんなアルレイシアの気持ちが通じたのだろう、アストラスもゆっくりと頷くと今度こそ見慣れた柔らかな笑顔を向けてくれた。

 そのことに泣きたくなるほど安堵しながら、アルレイシアはその手に掴み取ったアストラスの手を見下ろした。彼女の手より遥かに大きく硬い手。それでも、それが自分を傷つけることはない、と信じたいと強く思った。

(思うだけでは、駄目。考えるだけでは何も変えられない。逃げ続けたくないと、決めたのでしょう)

 自分自身に言いきかせる。

 自分を傷つけないものに囲まれた居心地のいい世界に逃げ込んで生きてきた。そんな世界に波紋を齎す存在は、今でもやはり怖いけれど。それでも、これ程強くアルレイシアという存在を求めてくれる人は、きっと他にはいないと思えるから。今度こそ本当に、口先だけではなくしっかりと彼の気持ちに報いれるように考えたいと思った。

 その意志を込めて。

 握り締めた手の甲に、ゆっくりと唇を落とした。

 一瞬だけ触れた唇に、手の持ち主が驚いたように硬直したのが分かった。パッと手を離して、いつも彼がするように後退さって距離を取る。

 頬が熱い。きっと顔はとても赤いだろうけれど、今俯いては駄目だと思ったから、意志の力を総動員して顔を上げたまま笑顔を作った。妹に鉄面皮と揶揄されたアストラスはそんな言葉が信じられないほどアルレイシアの前では表情豊かだったが、見上げたその顔に初めて見る表情を浮かべていた。少し日に焼けた頬は朱を刷き、瞳は見開かれている。

 その表情に相応しい言葉は、きっと驚愕だろう。

 そんなアストラスの表情に、いつもやられっぱなしの彼女は何だか胸がすくような気持ちになった。その青紫の瞳に悪戯めいた光を浮かべ、火照った頬をそのままににっこりと笑顔を向ける。

「それでは、おやすみなさい」

 アストラスの返事を待たないまま踵を返し、逃げるように駆け出した。鼓動がうるさいのは、決して走っているせいではないだろう。

 通用門の辺りで立ち止まり一度振り返ると、闇に紛れるような色彩の背の高い青年はまだその場に立っていた。その姿に再び鼓動が跳ねたような気がしつつ、一度軽く手を振ると今度こそ自室へ向かって歩き出した。

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