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女伯爵の憂鬱  作者: 橘 月呼
第三章~彼の秘密、彼女の想い
23/34

 既に夜の帳が降り始めている王宮の回廊を、足早に王立研究院へと向かっていたアルレイシアの視界に見覚えのある黒髪が過ぎった。思わず足を止めてそちらを見てしまったアルレイシアに、背を向けている青年は気づくことなくゆったりとした足取りで中庭を奥へと歩いていく。

 闇夜に紛れてしまえば黒にも見える深い緑の上衣に覆われている背中は、朝ラウダトゥールの私宮の回廊で見送ったのと寸分違わないものだった。アルレイシアはその背中に声を掛けるべきか否か逡巡しつつも、一歩回廊から中庭へと足を踏み出した時、パタパタと少し忙しない足音が聞こえてきた。

「アスト!」

 アルレイシアが決断するより早く、回廊の反対側から駆けて来た足音の主が高く澄んだ声で青年の背中を呼び止めた。呼び止められたアストラスが足を止め、そちらへと振り返る。その横顔を目にして、咄嗟にアルレイシアは回廊の立派な柱の影にその身を隠していた。

「エティ、王宮内を走るな」

 走り寄ってきた相手をアストラスが淡々とした口調で窘めた。けれど夜の闇を揺らすように響いたその低い声音に、今まで感じたことのないような親密さを感じて、アルレイシアは思わず息を詰める。

 駆け寄ってきた相手は注意をされて大人しく歩調を緩めたようだった。土を踏む音から忙しなさがなくなり、アストラスの声とは対照的な明るく溌溂とした高い声がはっきりとアルレイシアの耳にも届いた。

「ああ、ごめんなさい。今日は訓練の後の片付けが長引いてしまって……待った?」

 その声からも、口調からも、アストラスを呼び止めた相手が若い女性であることがはっきりと伝わってきて、アルレイシアはハッと息を呑んだ。そして身を隠していた柱の影から、そろそろと慎重に離れる。

(これではまるで、盗み聞きをしているみたいじゃないの)

 そんなつもりは全くなかったのに、まるでこそこそと様子を窺っているような現状に、アルレイシアは苦い思いで柱の影から回廊の向こうを見た。広い王宮の外回廊は見通しが良く、中庭からは丸見えである。今この場から離れようとすれば、確実に存在を気づかれてしまうだろう。

(どうしよう……)

 悩んでいる間も中庭にいる二人の会話はどんどん進んでいく。

「いや、それほど待っていないから気にするな」

「そう、良かった。それで、わざわざこんな所に呼び出して何の用? 別に宿舎まで来てくれてもいいのに」

「そうはいかない。俺はもう、騎士団を離れた人間だ。あそこは色々としがらみが多い場所でもあるし、出来れば足を踏み入れたくない」

 苦笑を含んだようなアストラスの柔らかい声に、女性のくすくすとした笑い声が重なる。

 アルレイシアはアストラスと出逢ってから今日までの僅かな間に、ラウダトゥール、ユースティティア、ウィルトゥースと言ったそれなりに彼と親交のある人物とのやり取りを見てきていた。中でもウィルトゥースとは元上司と部下というだけではない親しさを感じられたが、それとは比べものにならないほど、今一緒にいる女性は彼に近しい存在なのだと些細なやり取りからですら察せられた。

(まさか……)

 どくっ、と心臓が一つ高い音をたてた。今度の逡巡は一瞬。静かな回廊にその音が響いてしまうのではないかと思うような音をたてている胸に手を当てて、アルレイシアは意を決するとゆっくりと柱の影から中庭を覗き見た。

 夜闇に紛れるような色彩のアストラスは変わらずその広い背をアルレイシアに向けており、そんな彼の傍らには予想通り一人の女性が佇んでいる。

 まず何よりも目を惹いたのが、その髪だった。アストラスとは真逆の、闇の中でも光を放つような輝く銀糸。癖一つないその美しい髪は女性にしては短く、背の中ほどまでしかない。その髪を首元で一つに束ねていた。

 すらりと伸びた肢体を包む衣装と腰に下げた剣から、彼女が確かに騎士団に所属する人物であることが分かる。マントの襟元に付けられた房飾りは騎士として叙任されている証だった。だが闇夜に浮かぶその白いかんばせは到底騎士だなどとは思えない様相を呈していた。

 けぶるように長い睫を持つ緑柱石(エメラルド)のような澄んだ切れ長の瞳。くっきりとした美しい弧を描く銀の柳眉。すっきりとした鼻梁の下には少し薄めだが形の良い淡い花色の唇。それら一つ一つが抜けるように白い小作りな顔の中に美しく配置されている。

 年の頃はユースティティアと同じくらいか、少し上と言ったところか。年頃の女性にしては全体的な丸みの少なさがどこか中性的な美しさを醸し出していたが、それでも美しく着飾って社交界に出れば確実にその美しさに求婚者が列を成すだろうと思える美貌の乙女だった。

 まさに彼女は以前フェリクスやユーリアルムの戯言に聞かされた、銀髪の美女であった。アストラスに向けられた彼女のその白い美貌を彩る微笑みは、まるで夜空に輝く星の如く鮮烈にアルレイシアの瞳を焼いた。その笑顔にアストラスも穏やかな笑みを返している。

(あの人がエピストゥラ・リーヴェル……?)

 エピストゥラの美貌に呆然と目を奪われたままのアルレイシアの耳を、二人の交わす会話がすり抜けていく。何にそれほど衝撃を受けているのか自分自身でも分からないまま、アルレイシアはその場から逃げるように数歩後退った。

 混乱した気持ちのままだったため、すっかりと忘れていた。回廊と中庭、距離を隔てているとはいえ、目の前にいる二人はジール王国が誇る最も実力、名声ともに優れた騎士団に所属していた騎士であることを。

「そこで何をしている!」

 先ほどまで柔らかな笑みを湛えていた高い声が、研ぎ澄まされた刃のような誰何をした。その声の鋭さに、びくりとアルレイシアの体は恐怖に震える。そんな彼女の姿を見たわけでもないだろうが、動じた風のない低い声が淡々と傍らの女性を窘めた。

「エティ、ここは王宮の回廊だ。別に誰が通りかかってもおかしくは――――アルレイシア姫?」

 その声に背を押されるように、柱の影から中庭へと足を踏み出したアルレイシアの姿を認め、アストラスの声が柔らかさを帯びて彼女の名を呼んだ。それに朝のように笑顔を返すこともできない強ばった表情のまま、アルレイシアは今度は覗き見るのではなくはっきりと二人の姿を視界に収めた。

「アルレイシア姫……王太子殿下の乳兄弟でいらっしゃる、ファーブラー公爵令嬢? それは、失礼を致しました」

 アストラスの呼びかけでアルレイシアの身分を察した銀髪の乙女は警戒を解くと、きりりと表情を引き締めて慣れた所作で騎士の礼を取った。

「初めてお目にかかります。第一騎士団第三部隊所属、エピストゥラ・リーヴェルと申します。ご無礼をお許しください」

 ぴしりと一分の隙もない動きで取られた礼にアルレイシアは表情を緩めることなく頷いた。

「いいえ、意図したわけではなくとも立ち聞きのような真似をしたのは私の方、謝らねばならないのはこちらでしょう。ご歓談に水をさしてしまって、ごめんなさい」

「いえ、別にたいした話をしていた訳ではないのです。お気になさらないでください。姫は今時分、殿下のところからお帰りですか?」

 穏やかな笑みを浮かべたアストラスから掛けられた言葉に、ようやくアルレイシアは強ばったままだった表情を僅かに緩めた。まだ少しぎこちないながらも、何とか笑みのようなものをその頬に浮かべてゆっくりと頷く。

「ええ。夕食を殿下とご一緒させて頂いたものですから、遅くなってしまいました」

「そうでしたか。ですが、幾ら王宮と隣接しているとはいえ、このような時間にお一人で研究院まで歩かれるのは危険です。ご迷惑でなければ、研究院までお送りさせてください」

「えっ!?」

 思ってもみなかったアストラスの申し出に、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。そのことに少し慌ててぱっと口を押さえると、アストラスの傍らに立つエピストゥラに視線を移す。そして目に映った予想外な彼女の様子に、アルレイシアはその青紫の瞳を大きく見開いた。

 エピストゥラは何が可笑しいのか、白い手袋を嵌めた手で口元を覆って僅かに顔を逸らし肩を震わせていた。きっちりと髪を結わえているため、俯いて口元を覆っていてもその表情がはっきりと見えてしまっており、笑っていることは一目瞭然だった。

「エティ……」

 アルレイシアの視線に釣られる様に、傍らに視線を落としたアストラスの表情が苦虫を噛み潰したようなものに変わる。その口から零れた彼女の名を呼ぶ声は、常よりも更に低く地を這うように響いた。アルレイシアが自分に向けられたならば恐怖に身が竦みそうなアストラスの声に、けれどエピストゥラは動じることなく笑い続けている。

「だ、って、アスト、貴方、分かり易すぎ……っ」

 笑いの発作のために妙なところで途切れさせながらも、何とかそれだけ言葉を紡いだエピストゥラは、それでも一応笑ってはいけないと思っているのだろう。その美しい緑柱石の瞳に涙まで浮かべながら、必死に笑いを堪えていた。

 声を殺して必死に笑いを抑えているエピストゥラと、そんな彼女を憮然と睨み下ろしているアストラスを見比べてアルレイシアは途方に暮れた。エピストゥラの反応も良く分からないが、もっと分からないのは彼女の言葉だ。

(分かり易いって、何が? 何がそんなに可笑しいのかしら……)

 困惑したままちらりと上目で窺うようにアストラスを見れば、彼女の視線に気づいたアストラスは憮然とした表情を消し、いつの間にか見慣れてしまったような気がする柔らかな眼差しで見返してくる。瞬きの間ほど見詰め合うと、アルレイシアはやはりエピストゥラの笑う理由が分からないまま彼女に視線を戻した。

 エピストゥラはまだその美しい顔に笑みを浮かべたまま、実に愉しげにアルレイシアを見詰めているアストラスを見ていた。彼女はアルレイシアの視線に気づくと、目を細めて柔らかく微笑んだ。

(えっ?)

 そんな笑顔を向けられる理由が分からず、戸惑ったアルレイシアはその瞳を直視出来ずに小さく唇を噛んで俯いた。そんな彼女の反応にエピストゥラは一瞬目を瞠ったが、すぐに何かを察したように頷く。そして暫し考えると、傍らの青年の注意を惹くために深緑の上衣の袖を引っ張った。

 ぐい、とかなりの力で右腕の袖を引かれたアストラスはアルレイシアに向けていた柔らかな笑みを消し、柳眉を寄せてエピストゥラを見る。

「エティ、袖を引くのは止めろと、いつも言っているだろう」

「だってアストは背が高いから、袖が引きやすいところにあるんだもん」

「口で呼べば良いだろう。何で服を引っ張るんだ」

「良いでしょ、別に。口うるさい男は嫌われるよ? 兄さん」

 にっこり。

 音が聞こえそうなほど満面の笑みを浮かべたエピストゥラをアストラスは訝しげに見下ろす。

 そんな二人の親密なやり取りを横目で見ていたアルレイシアは、聞こえてきた言葉に思わず目を瞬いた。

(今、何て……)

 疑問に思った彼女の心の声が聞こえたように、エピストゥラが言葉を紡ぐ。

「大体、可愛い妹をこんな所に呼びつけておいて、用が済んだらほったらかしとか酷いと思わないの? アルレイシア姫を送っていくなら、私も一緒に宿舎まで送ってくれるべきでしょ」

「……別にお前は送らなくても大丈夫だろう。そんじょそこらの男では太刀打ち出来ないくらい強いんだ。それにさっきも言ったように、俺は騎士団の宿舎には近寄りたくない。一人で帰れ」

 切れ長の翡翠の瞳に呆れの彩を浮かべて肩を竦めたアストラスにエピストゥラは小さく唇を尖らせる。

「姉さまに言いつけてやる」

「エティ……」

 端整な顔を僅かに引き攣らせたアストラスに溜飲が下りたのか、エピストゥラはくすくすと笑いを零しながら青紫の瞳を驚きで瞠っているアルレイシアに視線を移した。そしてその涼やかな美貌に年相応の少女のような悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「驚かれました? 実は、兄妹なんです、私たち」

「きょう、だい……」

「はい。エピストゥラ・リーヴェルと言うのは仮の名で、私はソーラ伯爵家の第三子、エピストゥラ・エスト・ソーラと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」

 先ほどの騎士としての礼とは異なり、片足を引き膝を軽く曲げて腰を折るという女性がする礼を取ったエピストゥラの姿にアルレイシアはゆっくりと二度、大きく瞬きを繰り返した。そしてじっと並んで立つ二人の男女の姿を見比べる。

(言われて見れば……)

 髪の色こそ対照的に異なっていたが、その長い睫を持つ切れ長の目、濃度こそ異なっているが怜悧な緑の瞳、すっと通った鼻筋、そして少し薄い唇の形、それら一つ一つを取って比べてみれば彼らは確かに良く似ていた。印象的な髪色の違い、男女という性差、そしてその雰囲気の差から一目見てはそう感じられないが、こうしてじっくりと見比べてみれば兄妹というのは疑いようがない。

「確かにすぐには分かりにくいですけれど、こうして見ますとよく似ていらっしゃいますね」

 思わず感心したように言ったアルレイシアの言葉にも兄妹の反応はそっくりだった。まるで鏡に映したように、よく似た顔立ちに同じような嫌そうな表情を浮かべる。

「ええー。こんな無愛想鉄面皮とそっくりと言われるのは、もの凄く不本意なんですけれど!」

「それはこちらの台詞だ。お前のように思慮も落ち着きも足りない未熟者と似てるなどと、アルレイシア姫のお言葉でも受け入れ難い」

 角突きあわせて言い合う兄妹の姿に、アルレイシアは湧き上がって来た安堵とともに笑いが込み上げてきた。それを堪えることなく、くすくすと笑いを零す。そんなアルレイシアの笑い声を耳にして、アストラスは仕様がないとばかりに苦笑して肩を竦め、エピストゥラは納得がいかないと言うように渋面を作ったままそっぽを向いた。

 その体勢のままエピストゥラは肘でアストラスのわき腹を突いた。アルレイシアを見ていたためすっかり油断していたアストラスは、全く予想していなかった攻撃に眉を寄せたが、切れ長の瞳を剣呑に半眼にして睨みつけてくる妹の様子に訝しげに目を瞬いた。

「何だ?」

「何だ、じゃないでしょ、兄さんの鈍感。本当に、感謝しなさいよ!」

「……? ああ」

 兄のその鈍い反応に自分の意図が全く伝わっていないことを感じ取って、妹はわざとらしく大げさに肩を落として見せた。

「あー、もう。絶対分かってないでしょ。まったく、これだから朴念仁は……まあ、とりあえず今日はいいわ。口止めだけ、ちゃんとしといてね」

「分かった」

 淡々と頷いた兄の似ていると言われた顔をじとりともう一度睨んでから、エピストゥラは笑みを湛えて小さく首を傾げているアルレイシアに目を遣った。目が合うと互いににこりと笑みを浮かべる。

「それでは、失礼致します。王宮内とはいえ、お気をつけて戻られてください」

 きちんと足を揃えて背筋を伸ばし、表情から笑みを消して礼を取ったエピストゥラはもう立派な騎士の姿に戻っていた。アルレイシアも慌てて姿勢を正し、下衣を摘むと優雅に礼を取る。

「ありがとうございます。エピストゥラ殿、とても楽しい時間でしたわ」

「勿体無いお言葉、痛み入ります」

 エピストゥラは傍らの兄を一瞥すると颯爽とした足取りで中庭から回廊へと歩き出した。回廊と中庭の境界で立ち尽くしていたアルレイシアは、すれ違う一瞬、囁かれた一言に目を瞠った。

「兄さんを、どうぞよろしくお願いいたします」

 その意味を問い返す間もなく、あっという間にエピストゥラは回廊を去って行き。その背中を呆然と見送って、アルレイシアは言われた言葉を反芻した。

(それは、つまり)

 ここに至ってようやく、アルレイシアは先刻からのエピストゥラの言動の意味を察した。

(分かり易いって、そういうこと……っ!)

 かあっと一瞬で熱を帯びた頬を両手で押さえて、アルレイシアは深く俯いた。そんなアルレイシアの様子に、傍らに歩み寄ってきた青年が首を傾げる。

「どうかなさいましたか、アルレイシア姫」

「……っ、い、いいえっ! 何でもありませんっ」

 慌てて顔を上げれば、そこには柔らかく慈しむような光を湛えた翡翠の瞳がアルレイシアを見詰めていて。

 その瞳を見つめてしまったために再び頬が熱くなるのを感じて、アルレイシアは困惑に視線を彷徨わせてしまう。自身の腹部で両の手をきつく握り合わせながら、夜の闇が顔の赤さを隠してくれることを胸の裡で祈っていた。

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