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アルレイシアはラウダトゥールの見慣れた眩いばかりの笑顔を胡散臭いものでも見るように目を細めて睨みつけた。ラウダトゥールはそんな彼女の眼差しに苦笑を返して、既に冷めてしまった香草茶に手を伸ばす。アルレイシアもつられるように茶器を手に取ると、その視界にテーブルに広がったままの書類が入った。
「ラウダ、仕事の書類ならばしまっておくべきじゃないのかしら」
ラウダトゥールの仕事の書類となれば、大なり小なり国政にかかわるものである。到底アルレイシアが見ても良いようなものではないはずだった。無用心さに思わず眉を顰めたアルレイシアにラウダトゥールは悪びれることなく実にあっさりと答える。
「ああ、これ? 別に構わないよ、仕事のものじゃない。と、言うより君に見せるために用意したんだ」
「私に?」
予想外の返答に目を瞬いてテーブルの上に広げられている書類に視線を落とした。書類は三枚ほどあり、ざっと目を通したところでは何かの報告書のようだった。
「これは……」
表書きに記された一文に引かれてその一枚を手にした。そこに書かれていたのはカスティーガ侯爵家の現在の当主及びその子どもたちの経歴であった。
カスティーガ侯爵家は先代の当主の正妻が子どもを生さないまま亡くなっており、先代当主の死後は弟が侯爵位を継いでいた。現当主である彼には先ほど名の上がったストゥルティを次男として、長女、嫡子である長男、末の次女という四人もの子どもがいる。そのうち長女は既に他家に嫁いでおり、アルレイシアとラウダトゥールより四つ年下である末娘はラウダトゥールの后の有力候補であった。
ジール王国内で現在最も貴族たちの関心を集めているのは王太子妃の選定である。アルレイシアが王太子妃の候補から退いた後、現在までにラウダトゥールの后候補は事実上四人に絞られていた。国王の従妹を母に持つアミークス公爵家のアスペラ、レークス侯爵家のパルティース、カスティーガ侯爵家のインサーニア、そしてファーブラー公爵家のユースティティアだ。
身分的、年齢的にラウダトゥールにつりあいの取れる女性たちが選ばれていると言われているが、年齢という点で言えばアミークス公爵家のアスペラはアルレイシア、ラウダトゥールと同じ年であり王太子妃としては既に薹が立つ年齢である。彼女は母親の強い希望で王太子妃候補として残っているが、恐らく本人も含め公爵夫人以外の周囲の人間は彼女が選ばれることがないであろうことは分かっていた。
また、残る候補の中でカスティーガ侯爵家のインサーニアは身分という点で足りていると言い難かった。彼女の父である侯爵は先々代の次男であり、表立って非難されることはないが嫡子相続を原則としているジール王国では嫡子以外が爵位を相続すると家格を落とすと考えられている。そのため彼女は本来ならば王太子妃候補などに選ばれることはないはずであったが、王太子本人の強い希望で候補に組み込まれていた。
彼女の年齢が十七歳という花の盛りであることもあり、それらの事情を知る者たちは四人の候補の中でインサーニアこそが最有力の王太子妃候補だと考えている節があった。そういったことからインサーニア姫は社交界デビューの折に王太子によって見初められたのだ、などと、いつの間にやらどこからか真しやかにそんな流言が広まっていた。そして当のインサーニア自身もそれを承知の上のようだった。
そんな噂を聞くたびにアルレイシアはいつもホッとするような、笑いたくなるような妙な気持ちを味わっていた。彼女はインサーニアがなぜラウダトゥールによって王太子妃候補に選ばれたのか、その理由を知っていたのだから。
(呑気な連中だわ)
それがアルレイシアのカスティーガ侯爵家に対する正直な心情だ。アルレイシア自身は滅多に夜会に出ることもないが、その数少ない機会の中でインサーニアがまるで既に王太子妃に選ばれたかのように勝ち誇って女王然と取り巻きに囲まれている姿を目にしていた。
現在のジール王国の社交界では、そのずば抜けた美貌と群を抜いた教養という輝くばかりの本人の資質によって咲き誇る大輪の花であるユースティティアと、王太子妃候補の最有力という理由で衆目を集めているインサーニアの二人が中心となっているのだった。
しかしながらインサーニア自身はそこそこの美貌に恵まれた娘でしかなかった。確かに美しいが彼女程度の容姿は貴族の姫ならば幾らでもいるのだ。むしろ美貌で言うならばユースティティアは言うに及ばず、多少年嵩でも王家の血を濃く引くアスペラや、派手ではないが清楚な美しさを持つパルティースの方が遥かに優れていた。
即ちインサーニアという姫の価値は『王太子のお気に入り』という一点に尽きるのだった。インサーニア本人はともかく、そのことは当然カスティーガ家の人間たちは理解しているはずだ。
それにもかかわらず、先日の王太子が主催した舞踏会では彼女の兄であるストゥルティが王太子の面子に泥を塗ったのである。幾ら『王太子のお気に入り』と言えど、むしろそうであるからこそ、カスティーガ家はこの事態には当然危機感を持っているだろう。
(カスティーガ家が動かない訳はないわね)
事実、アルレイシアが手にした二枚目の紙はカスティーガ侯爵とすっぽかしの当人であるストゥルティからの連名の謝罪文だった。そこには召致に応えられなかった理由という言い訳と謝罪が交互につらつらと書かれている。その内容を興味もなく冷めた目で追って、アルレイシアは鼻で嗤った。
「野盗にあって馬車が脱輪。ストゥルティは応戦したため命は無事だったが利き腕と足を負傷したため舞踏会には出席できなかった、ね。馬鹿ね、本物の野盗だったらそんな怪我を負っておいて命が助かる訳がないと思わないのかしら?」
淡々と紡がれたアルレイシアの言葉にラウダトゥールの視線が彼女の手の中の紙を見やる。そしてそれが何かを察するなり失笑した。
「ああ、それね。ちょっと失敗したかな、とは思ったんだよ。とりあえず舞踏会に来れなくするのが目的だったから馬車を壊して馬を奪うように言ったんだけど、血の気が多いのか切りかかってきたらしくてね」
香草茶を一口口にして喉を潤すと、呆れたように肩を竦めて続ける。
「最初は怪我をさせるつもりはなかったんだけど、切り結んでおいてそれじゃ怪しまれるだろう? 仕様がないから出来るだけ大きな怪我にならないよう気をつけたらしいんだけど、ね」
「そう……この件は、怪しまれたりしていないのね?」
三枚目の紙を手にしながらアルレイシアが視線をラウダトゥールに向けると、彼はその艶やかな唇をにっと笑みの形につり上げた。その笑みは悪戯を企んでいた子どもの頃の笑顔に重なるけれど、今彼が企んでいるのは悪戯などという可愛らしいものではない。
「一応探らせているけれど、まあ大丈夫だろう。元々大した謀が出来るような頭もないんだ、万が一怪しんだとしても尻尾を掴ませたりはしないさ」
言い切って悠然と足を組み替えたラウダトゥールに頷きだけで返して、アルレイシアは三枚目の紙に目を落とす。先の二枚の書類と同様のつもりで書かれた文字を目で追って、違和感に目を瞬いた。
「ラウダ……これは一体何?」
書類から目を上げて不審げに眉を顰めるアルレイシアに愉しげな光を浮かべた瑠璃色の瞳が細められた。
「見たままだけど?」
「見たまま、って……」
言われた言葉にもう一度手元の紙に目を戻して、一つため息を零すとそれを内容が見えないように二つに折った。もちろん気にならない訳ではないが、こういうやり方は好きではない。不愉快な思いに唇をしっかりと引き結ぶと、二つに折った紙の中心を持って勢い良く二つに引き裂いた。
「あーあ、酷いな、シア。折角調べさせたのに。苦労したんだよ、主にヨクムが、だけど」
大して気にしている様子もなく口先だけで文句を言うラウダトゥールを横目で睨んで、アルレイシアは書かれていることが分からないよう更に細かく書類を千切った。そうしてただの紙くずになった書類だったものをくずかごに捨てると、見せつけるようにもう一度大きくため息を吐いてこめかみを押さえた。
「こういうやり方は悪趣味よ、ラウダ」
じろりと鋭く睨みつけてくる青紫の瞳のらしさにラウダトゥールはこっそりと内心で苦笑した。けれどそんな内心を悟らせないように表情には飄々とした笑みを浮かべている。
「どこが? 君はきちんと見る前に破いてしまったみたいだけど、別にそんなに大したことは書いていなかったんだよ。シアは僕やウィル、ティティと違ってあまりアストのことを知らないだろう? 彼が本当にシアの婚約者に相応しい人物であることを証明するために用意したのに」
「嘘おっしゃい。そんな大したことを書いていなくて、どうして調べたヨクム殿が苦労するの」
「ああ、それは当然女性関係まで調べさせたから。アストはその辺が叩いても叩いてもちっとも埃が出てこなくてつまらなかったんだよね」
「………やっぱり悪趣味なことをしているじゃないの」
呆れたように頭を落としたアルレイシアはけれど女性関係という言葉に連想された人物に思わず顔を上げてラウダトゥールを見詰めた。唐突に顔を上げてまじまじと見詰められラウダトゥールはきょとんとした表情を浮かべたが、すぐに面白そうな笑みを浮かべて彼がすると実に優雅に見える仕種で首を傾げた。
「何か気になることでもあった? シア」
「…………」
気になっている、のは事実だった。それでもそれをラウダトゥールに尋ねるのは酷く気が引ける。アルレイシアはしばし眉間に皺を寄せて逡巡したが、結局ラウダトゥールに尋ねることは止めて首を横に振るに留めた。そんな彼女にラウダトゥールは少し残念そうだったが、それは見なかったことにする。
女官がいないため自分でお茶のお代わりを淹れるべく立ち上がった。手際良く香草茶を淹れながら、アルレイシアはふと先日のアウタディエースのお茶会でのことを思い出した。そのことから話の流れで有耶無耶になってしまっていたが、ラウダトゥールにはまだ尋ねたいことがあったことを思い出したのだった。
茶葉が蒸らしに入るとくるりと振り向いて呑気に茶菓子を摘んでいるラウダトゥールを睨みつけた。先触れもなく睨みつけられた王太子はきょとりと目を瞬かせると、純金の髪をさらりと揺らして首を傾げる。
「なにかな、シア。目が怖いんだけど」
「なにかな、じゃないわ、ラウダ! そうよ、貴方にはまだ訊きたいことがあったのだわ」
「……まだ?」
流石にそろそろ勘弁して欲しいと思ったが、それを言っては火に油を注ぐだけだと分かっていたので何とか言葉を飲み込む。そんなラウダトゥールの様子を腰に手を当てて睨み下ろしたアルレイシアの口から、彼女の怒りを感じさせる張り詰めた少し高い声が紡がれた。
「貴方、ディーエ様に一体何を言ったの!? 先日お会いした時に舞踏会やらアストラス殿のことを貴方に聞かされていたと言われて、私がどんな思いをしたと思っているの!」
アルレイシアの怒りっぷりに一瞬何を言われるのかと戦々恐々していたラウダトゥールだったが、言われた言葉に今度こそ拍子抜けした。ゆっくりと男性にしては長い黄金色の睫を持つ瞳を瞬いて目の前のアルレイシアの姿を見詰める。確かに彼女ははっきりと怒りを露わにしているが、その様子からはいつもの迫力が感じられない。
そんなアルレイシアにラウダトゥールは浮かんできそうになる笑いを必死に噛み殺した。今ここで笑ってしまえば確実に怒りを増長させてしまうだろう。それは分かっていたが、終ぞ見たことのない可愛らしい彼女の怒りにラウダトゥールの口元は自然と笑みを浮かべてしまう。
「何って、僕は本当のことを言っただけだよ? 舞踏会の夜にディーエとティーアの『傑作』だったシアの姿を見て、一目で恋に堕ちた憐れな男がいるってね」
「なっ……」
かっと頬を朱に染めて目を瞠ったアルレイシアにラウダトゥールは実にゆったりと微笑みかけた。
「事実だろう? それに先日のディーエのお茶会の前や、この間王立研究院に君を訪ねて行った後も、アストは君に花を贈っているらしいじゃないか。シアも婚約者候補たちに散々今まで贈られてきた花束などは全部捨てていたのに、アストに贈られた花は大切にしているんだってね。なかなか良い変化だと、僕は思っているのだけど?」
「なっ……なんで……」
にっこりと全く他意も悪意もありませんと言うような輝くばかりの笑顔を浮かべたラウダトゥールだったが、その言葉に悪意はともかく他意がありまくりなのは常日頃鈍いと揶揄されるアルレイシアにだって分からないわけはなく。最早耳まで羞恥に赤く染めて紡ぐ言葉にも困っている見たことのないような彼女の姿に、ラウダトゥールは堪えきれずに噴出した。
「ラ、ラウダッ!!」
「あははは、真っ赤だよ、シア!」
上品で優雅な笑みではなくまるで子どもの頃のように腹を抱えて大笑いするラウダトゥールに、笑われたアルレイシアとしてはもう羞恥と怒りに震えるしか出来なかった。
(というより、何でそんなに何もかも筒抜けなの!?)
アウタディエースの茶会であったことは、この兄妹の仲の良さを思えば知られていても仕方がないと思える。だが、なぜアストラスが王立研究院に訪ねてきた時のことやその後の毎朝の花のことまで知られているのか。
(まさかアストラス殿が自分でラウダに話ているとは思えないし)
まだそれほどアストラスと言う人物に詳しいわけではないが、恐らくそんなことをぺらぺらと喋ったりはしないだろう。ならばどこが情報源なのか。分からないからこそ不気味で、アルレイシアは笑い続けるラウダトゥールを腹立ち紛れに無視すると、少し蒸らしすぎた香草茶を怒りに任せて勢い良く茶器に注いだ。
再び椅子に腰掛けて少し渋い香草茶を一口飲む。舌に僅かに残るような苦味と爽やかな香りがささくれ立つ気持ちを落ち着けていくようだった。もう一口二口飲んでから茶器をテーブルに戻すと、ようやく笑いをおさめたラウダトゥールの瑠璃色の瞳が愉しげに彼女の様子を観察していることに気づいた。そんな彼の表情を鋭く疑いを含んだ青紫の瞳が睨みつけた。
「ラウダ……貴方まさか、私のことまで『影』に探らせているんじゃないでしょうね?」
たっぷりの不審に塗れたアルレイシアの言葉に、ラウダトゥールは一瞬言葉の意味が分からないとでも言うように柳眉を寄せて。言われた言葉を理解するなり、再び笑いを零した。最も、今度は先刻のような馬鹿笑いではなかったが、笑われたという点には変わりなくアルレイシアはむっとする。そんな彼女の様子を察したラウダトゥールは何とか笑いを堪えて漸う口を開いた。
「ああ、ごめん。でもシアがあんまり可笑しいことを言うから……幾ら僕でも、乳兄弟の恋路を探るために『影』を使ったりしないよ。情報源は別にあるんだ」
「……誰なの?」
眉根を寄せて問われた言葉にラウダトゥールはにっこりと笑顔を返した。
「それは秘密」
愉しげな声と瞳の輝きにアルレイシアは更に眉間の皺を深くしたが、ここで更に問い詰めたところで無駄なことは分かっていた。諦めとともにふっと力を抜いて表情を緩めると、怒りを飲み込むように茶器に残っていた香草茶を一息に飲み干したのだった。