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広い回廊の奥に向かって幾つか並んでいる扉の一番手前の扉がラウダトゥールの私的な応接室だ。その扉から少し離れた奥にある扉が彼の私室であり、私室内にある扉から寝室に繋がるような作りになっている。また、回廊の反対側には警備の兵士が常駐する部屋や女官や侍女が待機する部屋、衣装などが置かれている部屋が存在している。
並ぶ扉を横目に通り過ぎ、アルレイシアは応接室ではなくその奥のラウダトゥールの私室の扉を叩いた。
「シア? 開いているよ」
室内から返った応えにアルレイシアは思わず眉根を寄せた。立派な造りの少し重い扉を開くとすぐに、広々とした飾り気の少ない室内の中央に設えられたテーブルにラウダトゥールの姿が見えた。大きな窓から入る明るい陽の光を存分に浴びた彼の姿はまるで光の粒子を纏っているように輝いていて、ゆったりと椅子に腰掛け足を組んでいる姿ですら、まるで一つの芸術品のように素晴らしく美しかった。
だが、そんな目にした人間が思わず感嘆のため息を漏らすような彼の姿も、見慣れているアルレイシアにとっては今さら何の感慨を生むこともなく。彼女は感嘆するどころか顔を顰めて口を開いた。
「ラウダ、女官や警備の兵は?」
室内に足を踏み入れてぐるりと見回し、ラウダトゥール以外の人影がないことを確認してアルレイシアは更に眉間の皺を深くした。
本来ならば王族の私室などには警備の兵と侍女ないし女官が常駐しており、扉もそういった者たちが内側から開けるものなのだ。それがないことで予想がついていたとはいえ、相変らずのラウダトゥールの様子にアルレイシアの彼を見る視線は自然と厳しくなる。そんな彼女の視線にラウダトゥールは悪びれた風もなく、わざとらしく肩を竦めて見せた。
「向かいの部屋にいるよ。そんなに険しい顔をしないで、シア。別にいつも追い払っている訳じゃないよ。今日は君が来るから、人払いをしただけだ」
ラウダトゥールの言い分にまだ疑わしげな視線を向けつつ、アルレイシアはとりあえず大人しく彼の待つテーブルへと歩み寄った。テーブルの上には既に二人分のお茶や茶菓子の用意がされており、そのうちラウダトゥールの分はすでに半分ほど手が付けられていた。
彼の目はアルレイシアが室内に入ってきてからずっとテーブルの上に広げられた書類のようなものを見ており、彼女の方を見ることはなかった。そんなラウダトゥールの対応にも慣れているアルレイシアは構うことなくさっさと彼の向かいの椅子に腰掛ける。
「で、アストには会ったんだろう? 何と言っていたかな、彼は」
くすり、と小さな黒子のある艶やかな口元を笑みの形に釣り上げて、悪戯めいた光を浮かべた瑠璃が書類からアルレイシアへと視線を移していた。その瞳にため息を一つ零して、答えることなくアルレイシアはまだ温かい香草茶の茶器を手に取った。一口含んで飲み込んだが、結局お茶と一緒に飲み込みきれなかったため息が再び零れる。
「あのねぇ、ラウダ。そもそもあなた、一体どういうつもりなの?」
意識して抑えなければ詰問するような口調になってしまいそうで、アルレイシアは淡々と話すことを心がけた。それでも口調がきつくなってしまうのは致し方ないだろう。じろりと視線では遠慮なく正面の美貌を睨みつける。最も、彼にはそんな視線が堪えるはずもなく、怒りに煌くアルレイシアの瞳に映るラウダトゥールはくすくすと愉しげに笑みを零していた。
「どういうって何がかな?」
「何が、じゃないわ、わざとらしい。いいわ、しらばっくれるつもりならはっきり言おうじゃないの」
手に持っていた茶器をテーブルに戻し、アルレイシアはすうっと一つ大きく深呼吸をした。怒りに任せて話をしても、丸め込まれていいように誤魔化されてしまうだけだ。落ち着いてきちんと話をしないと、彼から知りたいことを聞き出すのが難しいのは長い付き合いから分かっていた。それでもいい加減、彼には言いたいことが有り過ぎた。沸々と湧き上がる怒りを深呼吸で堪えて、ゆっくりと口を開く。
「聞きたいことはたくさんあるけれど、まずは一つめ。貴方が選んだ私の婚約者は一体どこの誰なの?」
「……ふぅん、またどうしてそんなことを気にするのさ。アストは君の御眼鏡に適わなかったかな?」
「誤魔化さないで、きちんと答えなさい。そうでないなら、私にも考えがあるわよ」
相変らず余裕の笑みを浮かべたままのラウダトゥールにアルレイシアの声が低くなる。その声音に本気の怒りを感じて、ラウダトゥールは浮かんだ笑みを苦笑に変えて肩を竦めた。
「まあ、君に誤魔化せるはずもないか――――僕が君のために選んだ婚約者候補がアストだよ、と言えば、君は満足かな?」
ラウダトゥールの答えにアルレイシアは今度は怒ることなく僅かに眉を寄せて考えを巡らせた後、再び口を開いた。
「分かったわ、私の聞き方が悪かったのね。あの舞踏会で王太子の招きをすっぽかした、私の婚約者候補だと周囲の人間に思わせていた人物はどこの誰? 私に誤魔化しきれると思うなら、甘いわよ」
「……本当に君は、色々察しが良すぎて困るよ。色恋沙汰にはあんなに鈍いのに……その察しの良さを少しそっちに回す気はないのかい? そうすればアストの気苦労も減ると思うんだけど」
「喜んで彼の気苦労を増やしている人間がよく言うわよ。いい加減そろそろ白状しないと、本気で怒るわよ」
アルレイシアの眼差しが剣呑さを増したのに気づいて、ラウダトゥールは軽口を言っていた口を噤むとにっこりと笑みを浮かべて首を傾げた。
「カスティーガ侯爵家のストゥルティだよ」
「………え?」
あれほど誤魔化そうとしていたのが嘘のようにあっさりと告げられた人物の名に、アルレイシアは大きく目を見開いた。どういう反応をするべきなのか分からないまま、それでも思考は目まぐるしく動き、ラウダトゥールの意図を推し量ろうとする。そして導き出された答えに、アルレイシアは再びはっきりと眉間に皺を寄せた。
「それは……まだ時期尚早ではないの? 下手をすれば、これから貴方や陛下がしようとしていることへの障害になるかもしれないのよ? カスティーガ家のことはもうしばらく様子を見て……」
「僕も最初はそのつもりだったんだよ。でも、シアの婚約者候補の選定をすることになった時に思いついてしまってね――――それに、今まで十分我慢してきたつもりだよ、僕は。もうあれから十五年だ。そろそろ奴らも自分たちの犯した罪を忘れて油断する頃だろう」
ラウダトゥールの美貌が氷のような冷ややかさを帯び、その貌に抜き身の刃のように凄みのある笑みが浮かんだ。向き合う人間の背筋を震えさせるようなその笑みを、だがアルレイシアはじっと逸らすことなく静かな瞳で見詰めていた。美しい深い瑠璃色の瞳と澄んだ青紫の瞳が視線を交錯させ。やがて青紫の瞳が僅かに伏せられた。
「そう……もう、決めたのね」
「ああ。心配しなくても大丈夫だよ。この件でこれ以上、シアのことを巻き込むつもりはないから。シアはただ、自分の幸せのことだけを考えていてくれれば良い」
ふっと瑠璃色の眼差しを和らげて言われた諭すようなラウダトゥールの言葉に、けれどアルレイシアは静かに首を横に振った。そして毅い意志の光を秘めた瞳でラウダトゥールの揺らぐことない真っ直ぐな瞳を見返す。その眼差しを受けてラウダトゥールは彼女の決意を悟ったように、困ったような笑みを浮かべた。
「いいえ。貴方がそう決めたのなら、私も覚悟を決めるわ。一人で何もかもしようとしないで。まあ、確かに出来ることはあまり多くはないけれど、それでも協力は惜しまないつもりよ。私の力が必要なら、いつでも言ってちょうだい」
「シア」
「否は聞かないわ。良いわね? それと……この件は、ウィルには伝えるの?」
念を押すようなアルレイシアの言葉に眼差しに、ラウダトゥールは再び苦笑を浮かべて大人しく頷いた。彼が首肯したことを確認してから、アルレイシアは最大の懸念事項を口にした。その言葉にすっとラウダトゥールの表情が改まる。
「いいや、ウィルに伝えるつもりはない。彼をこの件に巻き込むつもりはないし、あくまでもこれは『僕が』することだ」
その答えにアルレイシアの無意識に力が入っていた肩からふっと力が抜けた。息を一つ吐いて、彼女はその顔にゆっくりと苦笑を浮かべる。
「そう。まあ、貴方ならそう言うと思ったけれど。あの子は貴方の剣、後から知ったら確実に怒るわよ。覚悟しておきなさいね」
「残念ながら、僕は振られた側だよ? ウィルは僕の剣より騎士になることを選んだじゃないか」
整いすぎているほどの美貌に不釣合いな拗ねた表情を浮かべて頬杖をついたラウダトゥールは、皿の上にあった苺を一粒摘むとぽいと口に放り込んで咀嚼する。それを見たアルレイシアは行儀の悪さに軽く眉を顰めたが、久しく見ることのなかった彼の臍を曲げている様子に苦笑するだけに留めた。
「まだ根に持っているの? 仕方がないでしょう。それとも、貴方はウィルの気持ちを知っていて、どうにかする気があったの?」
「それは――――」
笑みを浮かべたままながらも切り込むような彼女の口調に、ラウダトゥールは思わず姿勢を正した。そして何かを言おうとしたが、顔を顰めたまま言葉に詰まってしまう。そんなラウダトゥールをアルレイシアは小首を傾げて見詰めていたが、容赦なく言葉を続けた。
「したくともできないでしょう? 貴方がそうして立場と私情の板ばさみになることが分かっていたから、あの子は自分の気持ちを諦めきれない以上、貴方と距離を置くことを選んだのよ。分かっているんでしょう。間違ってもあの子の前でそんな姿を見せるのは止めなさいね」
「分かっているさ。説教くさいよ、シア」
一度は正した姿勢を再び崩してラウダトゥールはむすりと唇を不機嫌に曲げた。子ども染みた仕種をして見せてもその美貌が損なわれることはなく。むしろ外では常に柔和な笑みを浮かべていることが多い彼のそんな表情は一見の価値があるものではあったが、既にラウダトゥールの美貌など見慣れているアルレイシアはなんら感銘を受けることなく冷ややかに一瞥するのみであった。
「とりあえず、その件はいいとしましょう。約束を忘れないようにね、ラウダ――――次、二つめ」
「……まだあるの?」
部屋に入る陽の光にキラキラと煌くような黄金色の長めの前髪をかき上げてうんざりとした表情を浮かべたラウダトゥールに、にこりと笑顔を向けてアルレイシアは無言で手を伸ばした。
「って! 痛いよ、シア」
テーブルに身を乗り出して頬杖をついていたラウダトゥールは、女性にしては長い指を持つ大きな手に左耳を掴んで引っ張られて思わず悲鳴を上げた。そんなラウダトゥールの様子に頓着することなく、アルレイシアは笑顔を保っている。
「聞きたいことはたくさんあると言ったでしょう。私を誤魔化しきれると思わないことね。二つめは、どうしてアストラス殿なの?」
「………訊かなくても、答えなんか分かっているんだろう、シアは」
アルレイシアの魔手から逃れて椅子の背に体を預けたラウダトゥールは、相変らず不機嫌な表情のまま答えた。その答えを聞いて彼女は今度こそ呆れ返ったことを隠さずに、大きくため息を吐いてわざとらしく首を振って見せた。
「と、言うことは私の予想通りの答え、と言うわけなのね。全く………この間ウィルに会った時はあの子の成長ぶりに感動したものだけれど、貴方は成長しているんだかしていないんだか分からないわね。相変らず子ども染みた嫌がらせをして……。いい? 昔から何度も言っているけれど、ティティを本気で悲しませるようなことをしたら、幾らラウダでも承知しないわよ? 貴方と妹ならば、私は妹を取るから、そのつもりでいてちょうだい」
「それは、アストの気持ちを受け入れるつもりはない、ってことかな。言っておくけれど、アストの気持ちは僕が仕組んでいることとはなんら関係のない、正真正銘本物だよ。それを君は妹を言い訳にして踏み躙るつもりかい?」
彼女と距離を保ったままにっこりと余裕を取り戻した優雅な、それでいて皮肉気な笑みを浮かべるラウダトゥールの言葉に、アルレイシアは嫌そうに顔を顰める。そしてすっと目を細めて正面にあるラウダトゥールの輝くような美貌を睨みすえた。しかし睨まれた方はといえば、堪えた様子もなく笑顔を浮かべたまま小さく首を傾げた。
「アストを君の婚約者候補として選んだのは、何もシアが考えていることだけが理由じゃない。君ももう知っているかもしれないけれど、アストはティティからシアのことを聞いて、随分と君に興味を持っていたみたいなんだ。シアが書いた論文を読んだりもしてたしね――――それでもまさか、一目逢うなり恋に堕ちるとは、僕も予想していなかったのだけれど」
その時のことを思い出したのか、くすくすと笑いを零すラウダトゥールにアルレイシアはむっと眉を寄せた。そんな彼女の表情にラウダトゥールは再び笑いを零して、人差し指を伸ばすと眉間に刻まれた皺に触れる。そしてそれを伸ばすように硬い指先が優しく撫でた。
「皺が癖になるよ、シア」
ラウダトゥールに眉間の皺を撫でられて寄せていた眉を戻したアルレイシアは、少し不思議な気持ちでその指を受け入れていた。
(ラウダに触れられても、別にちっとも平気なのに………)
幼い頃からずっと傍に居るが、今はもう互いに到底子どもとは言えない。昔はアルレイシアよりも低かった背はすっかりと伸びていつのまにか彼女を追い抜き、それに合わせて腕も足もすらりと長くなっている。多少細身ではあるが実際には一切の無駄なく鍛え上げられている体は、服の上から見るよりも遥かにしっかりとしている。当たり前のようにじゃれあっていた子どもの頃の姿は、今や面影しか残っていないのだ。
それにもかかわらず、ラウダトゥールには触れることにも触れられることにも未だに一切の照れも躊躇も感じない。それは彼の方も同じようで、こうしてことあるごとに子どもの頃の延長のように触れてくる。そしてアルレイシアはやはりその指先に触れられることに、どんな感情も湧かないのだ。ラウダトゥールの指先には労わりや優しさはあっても、それ以上の感情が一切ないのは互いに分かりきっていることだった。
けれど、アストラスはそうではなかった。彼に触れられるのは、それが例え神経の通っていない髪の毛であろうと酷く緊張した。アストラスの指はラウダトゥールと同じように優しくても、彼とは明らかに違っていた。肌を辿る動き、その指先の持つ熱、触れ方までも全てが、ラウダトゥールには存在していない、彼女が知らない感情を伝えてくるのだ。
(分からないことは、苦手だし――――怖いわ)
アルレイシアは自分が貴族の令嬢としては規格外であることを理解していたし、それと同時に興味のない事柄に関してはとても世間知らずであることもきちんと自覚していた。知的欲求は普通の人間よりも強いが、それが偏っていることも分かっている。それでいて自分に『理解出来ない』ことはとても苦手だった。だからこそ、彼女の知らない気持ちを真っ直ぐにぶつけてくるアストラスに怯えてしまうのだ。
自分自身を省みてそのことを認識した上で、けれどそんな風に理解出来ないことや成さねばならない責務から逃げ続けるのは彼女の矜持が許さなかった。だからこそ、アストラスの想いにもきちんと向き合う覚悟を決めたのだったが。
(そうは言っても、例えアストラス殿の想いがどれほど真摯で真剣なものであっても、私にも譲れないものはあるのだけれど)
それが大切な妹と秤にかけるようなことになるならば、アルレイシアには最初から選択の余地など存在していない。彼女にとっては幼い頃から今も、そして恐らくこれからも、変わることなく妹たちとジール王国の王太子と王女、そしてウィルトゥースは何よりも優先するべき大切な存在なのだから。
先ほどアルレイシアはラウダトゥールとユースティティアならばユースティティアを取る、と明言したが、それは半分本気で半分嘘だった。彼女の中ではラウダトゥールもユースティティアも、どちらかを選ぶことなど出来ないほど同じくらい大切な存在である。真実、どちらか片方だけしか選べない事態に陥ったら、自分にどちらかを選ぶことが出来るとは思えなかった。
それでもアルレイシアはジール王国の王太子妃としてではなく、ラウダトゥールの乳兄弟として同志として生きると決めた時から、常に自分の立ち位置はラウダトゥールの『心』に寄り添うようにする、と決めていたのだ。ジール王国の王太子として生きるためにラウダトゥールが犠牲にしなければならないものを、彼の代わりに守ろうと。
だからこそ敢えて彼女は事あるごとにラウダトゥールの前で明言して見せるのだ。アルレイシアが最も優先するものはジール王国の王太子ではない、と。そしてそれを実践してみせるつもりもあった。
(最も、自分の中で幾ら考えたところで、私はティティではないのだもの、本当のところがどうなのかなんて分かるはずもないわ。だからこそ、あの子と一度、きちんと話をしなければ)
改めてそう決意を固めたアルレイシアの様子を察し、ラウダトゥールはこっそりと苦笑する。
「まあ、そうして頭で色々考えている時点で、シアはまだまだ、ってことだね――――道程はまだ遠そうだし、アストにはもっと頑張ってもらわないと」
最後の方は口の中で独り言ちるように呟かれたためアルレイシアに聞こえることはなかったが、前半部だけを聞いても彼女の眉を顰めさせるには十分な言葉である。けれどそんな彼女の反応を気にした風もなく、ラウダトゥールは実に美しい笑顔を浮かべて見せたのだった。