1
丁寧に櫛を通して艶を出した髪を結い上げると、アルレイシアは姿見の前でもう一度くるりと自分の姿を確かめた。そして自分の仕度に満足したところを見計らったように私室の扉が叩かれた。
ここ数日毎朝訪れる人物は同じのため、アルレイシアは姿見の横に置かれた化粧台の上に飾られている花をちらりと見てから扉に向かった。果たして扉の前にはにこにこと満面の笑顔を浮かべた王立研究院の受付嬢の姿があった。その笑顔に彼女に気づかれないようにこっそりと嘆息すると、アルレイシアは意識して頬を持ち上げて笑みを作り上げた。
「おはよう、リーン」
「おはよう、シア。うふふ、今朝も貴女に届け物よ。今日の花はピンクなの」
言うなり、はい、とばかりに鼻先に突きつけられた一輪の甘やかなピンクの花にアルレイシアは大きく目を瞬く。そして苦笑すると手を伸ばしてその花を受け取った。
アストラスを研究院に招いてから既に三日。それ以来、毎朝日課のよう彼はアルレイシアに花を届けに来ているのだった。恐らくアストラス自身が朝摘んできたのだろうと思われる花を一輪、彼は毎朝研究院の受付に預けていく。そしてその花を預けられたリーンがこうして毎朝満面の笑顔と共にアルレイシアの部屋までわざわざ届けに来ているのだった。
にこにこと言うよりはにやにやと言った方がいいような意味深な笑顔を浮かべたリーンを尻目に、アルレイシアは手早く受け取った花の処理をする。そして昨日と一昨日に受け取った花を挿してある花瓶に処理を済ませた花を同じように飾った。先に挿してあったのが白い花のため、同じ花瓶に挿してもそれほど不自然ではないだろうと、アルレイシアは飾り終わった花を少し離れて確かめると一つ頷いてから扉を振り返った。
「それにしても、まめねぇ、彼。毎朝毎朝、花一輪のために研究院に立ち寄って。これが毎回花束だったりしたら、今頃貴女の部屋は花に埋もれるところね」
勝手知ったるとばかりに断りもなく室内に足を踏み入れて、リーンは四日前にアストラスから贈られた花束が飾られている窓際の机に手をついた。そしてもう大分開ききってしまった白い花を軽く指先でつつく。ふわりと花の甘い香りが漂って、リーンは首を傾げると室内を見回した。
アルレイシアの私室は以前はどちらかというと花の甘い香りよりは香草の爽やかな香りがしていた。しかし、ここ数日ですっかりと花の香りが違和感が無くなっている。そんな変化に気づいてますます笑みを深くするとくるりと踵を返して部屋を出るべく扉へと向かった。
「リーン?」
リーンの笑顔の意味が分からず、僅かに眉を寄せて顔を顰めたアルレイシアにリーンは意味深な笑顔を向けるだけだ。彼女としては、本音はこの晩生な愛すべき友人をからかいたくて仕方がなかったが、それでアルレイシアが妙な意地を張ったりしたためにアストラスとの中が拗れたりするのは避けたいところである。なのでもう一人の友人であるミーナとしっかりと話し合って、二人がある程度纏ったところでアルレイシアを問い詰めようと決めたのだった。
そんなことは露とも知らないアルレイシアは、普段は二人揃って姦しい友人たちの不気味な静けさに首を傾げつつも、余計な追求をされないことには胸を撫で下ろしていた。
「今日は外出? 最近は多いのね、珍しい」
扉の前でくるりと振り返って小首を傾げたリーンにアルレイシアは一つ頷いて、王宮の図書室に返さなければならない書籍を入れてある鞄を手にした。そしてリーンの発言には小さく肩を竦めて見せる。
「私だって今まで好きで外出しなかった訳じゃないのよ。ようやくまともに外出出来るようになったからそうしているだけだわ」
「そうねぇ。確かに研究院を一歩出るなり求婚者の列に囲まれたりするような心配は無くなったものね。まあ、とりあえず一度お屋敷には帰りなさいよ」
「わかってるわ。ティーアにも言われているし、数日中に帰るつもりよ」
苦笑して頷いたアルレイシアにリーンも笑顔を向けて、今度こそ彼女は部屋を後にした。その小柄な背中を見送って、アルレイシアは時計を確認する。約束の時間にはまだ余裕があったが、図書室に本を返してから行けばちょうど良いだろう。そう判断すると、リーンが出て行った扉に鍵を掛けてテラスに続く窓から外に出る。
研究院の正面玄関から出入りするより、こちらから出て職員用の通用門を使った方が王宮へ行くには便が良いのだ。テラス窓にもきちんと鍵を掛けると、アルレイシアは自身の細腕にはかなり重たく感じる鞄を両手で持ち上げて王宮へ向けて歩き出した。
職員用の通用門への道を歩きながら、あの日アストラスの腕に抱かれてこの道を通ったことを思い出しアルレイシアは頬が僅かに熱を持ったことに気づいた。鞄が重いため手で顔を隠すことも出来ず、頬の熱を冷まそうと軽く首を振る。春の心地よい風がさわさわと少し熱い頬を撫でていき、その心地よさにほうと一つ息を吐いた。
そうして彼と過ごした時間のことを思い出せば、思わず頭を抱えたい心地に陥るのだった。アストラスからはっきりと想いを告げられた四日前からアルレイシアは共に過ごした僅かな時間の彼のことを思い返していたが、そうすればするほど、彼の言葉を裏付けるようなことばかり思い出してしまうのだ。
初めて逢った夜の彼の眼差し。彼女を抱き上げた腕の力強さ。足の怪我の手当てをしてくれた時に感じた熱。あの当時はただただ申し訳ないとしか思わなかったそれらに、特別な意味があったのだと知ってからその時のことをこうして思い出して感じるのはとてつもない羞恥だった。
二度目に中庭で逢った時にはアストラスは彼女のために花を摘んでくれた。その指でアルレイシアの頬に触れて、思わず怯えるほど熱い瞳で彼女を見詰めていた。その意味をきちんと考えもしないで彼に自分を見るなと言った時に、その翡翠の瞳に浮かんだ傷ついたような彩は、思い返すたびに自分の無神経さを呪ってしまうのだった。
アストラスと出逢ってからまだ僅かな時間しか過ぎていないのに、気づけば彼は驚くほどの速さでアルレイシアとの距離を縮めてきていた。元々決して社交的とは言いがたく人見知りで他人に対しては事なかれ主義であるアルレイシアにしては、たった三回程度顔を合わせただけのアストラスのことを真剣に考えるなどあり得ないことだったのだ。
それなのに今までにないことにかなり多くの時間をアルレイシアは彼に関することの思考に割き、今もこうして彼を思い起こさせるものに触れただけでその時のことを思い出してしまう。そんな自分自身の今までにない変化に彼女はただ翻弄されて戸惑うことしか出来ないでいる。
(本当に、どうすればいいの)
アルレイシアがアストラスについて知っていることなど決して多くはない。アストラスとは彼のことを知ってからきちんと考えて求婚の返事をする、などと約束を交わしてしまったけれど、全く恋愛ごとに免疫のないアルレイシアはここ数日でその約束を果たすことの困難さに日々憂鬱を覚えていたのだった。
そんな彼女の気持ちなど知らぬげに、アストラスは毎日彼女のために花を摘み、それを自ら届けに来る。その彼の行為に、日々室内に増えていく花の香りに、諦めないと言ったアストラスの決意が表れているようで、なおのこと彼女は戸惑わずにはいられないのだった。
そしてようやく昨日。アルレイシアはいつまでもただ部屋に閉じ籠って悩んでいても仕方がないと思い立つと、とりあえずアストラスのことは一端置いておいて片付けなければならないことに向き合うことにしたのだった。
(まずは、きちんとラウダから話を聞かなければ)
アルレイシアはそもそも自身の婚約については王太子であるラウダトゥールに一任しているのだ。例えアストラスの想いがどうであろうとも、ラウダトゥールがアルレイシアの夫として誰を考え、どういった理由でアストラスがその代役を務めることになったのか、そのことを知らなければならなかった。その結果如何によっては、当初の予定通りアストラスではなくラウダトゥールが選んだ別の人間を婚約者として選ぶ可能性もあるだろう。
またアストラスに関しては、彼の爵位相続についての疑問は解決したものの、確かめなければならないことがまだ幾つか存在している。
(嘘か真実か分からない彼の『恋人』の存在と――――そして、何より確かめなければならないことは、)
考えても分からない自分の気持ちから逃避するように、アルレイシアはそれらのことをどうやって確かめるべきかに頭を悩ませた。二つ目については特に、確かめることそのものがアルレイシアにとっては重大なことだった。
(アストラス殿は否定していたけれど、ティティと彼の関係がどうなのか。ティティの様子は――――とても彼が言っていたようにただ仕事の話をする間柄には見えなかったもの)
舞踏会の夜のユースティティアの様子を思い返せばアストラスが言っていたことを鵜呑みには出来なかった。周囲の人間からは鈍いと言われているアルレイシアだったが、それでも彼女は自分が大切に思うごく少数の身近な人たちの機微に関してだけはとても鋭敏なのだ。それが例え微妙にアルレイシアに距離を置いている妹であろうと変わりはなかった。
ただユースティティアが彼女に対して距離を取っていることを自覚しているだけに、アルレイシアとしては単刀直入に訊くことが躊躇われてここ数日の悩みの種になっているのだった。下手な尋ね方では傷つけてしまいかねないと思えば、どうしたって慎重になってしまう。
一つため息を零してから頭を振って気持ちを切り替えると、アルレイシアは見えてきた王宮内の図書室が存在している棟へと回廊を歩く速さを上げた。王宮の図書室はジール王国内でもそこにしか存在していない貴重な書物も多くあるお気に入りの場所であったが、如何せん彼女にとっては王宮という場所そのものが良くなかった。ぐずぐずと長居をすればいつまた先日のように彼女を目の敵にしている顔見知りとばったり会ってしまうか分からない。そのことを考えれば鞄の重さなど気にならなかった。
王宮の図書室は昼日中は解放されていて、王宮内や王宮に付随する施設で働いている人間ならば誰でも利用することが出来る場所である。開きっ放しの扉をくぐって本を置く関係上あまり陽の光が入らないように作られている広い室内に足を踏み入れると、受付台にいる顔見知りの司書の女性に挨拶をした。そして持ってきた鞄の中から返却する本を取り出して置けば、彼女は慣れた動きで出された本を一冊一冊確かめる。
「はい、全部問題ないわね。今日は何か借りていくの?」
司書はアルレイシアが持ってきた本を返却リストと照らし合わせて問題ないことを確認すると、満足げに頷いて多少愛想が足りないながらも親しみのこもった口調で尋ねてきた。彼女の言葉に一瞬だけどうしようか考えたアルレイシアだったが、この後の約束のことを考えて首を横に振った。そして本を借りないのならば長居は無用とばかりに、司書に失礼にならないよう再度挨拶をすると軽くなった鞄を持ってさっさと踵を返したのだった。
歩き慣れた王宮の回廊を王族の私室のある宮へと向かいながら、アルレイシアは用心深く周囲に人の少ない道順を選んで歩いていた。間違っても先日のようにぼんやりと考え事をしたために注意を怠って、道を外れるようなことをするつもりはなかった。
そうして長い回廊をしばらく歩くと、ようやく見慣れた王族の私宮が見えてきた。この周辺までくれば、警備の人間と許可のある人間以外立ち入れないため、ようやくアルレイシアは張っていた気をほっと緩めた。そして幼い頃から幾度も訪れたことのある通いなれたラウダトゥールの私室への回廊へ足を踏み入れた所で、回廊の反対側から歩いてくる人物に気づいた。
アルレイシアが気づくと同時に相手も彼女の存在に気づいたようで、彼はその切れ長の翡翠の瞳を瞬かせてまじまじと彼女の姿を確かめるとその端整だが無表情だった顔ににこりと笑みを浮かべてみせた。
「アルレイシア姫」
その存在を目にした瞬間思わず逃げ出したい衝動に駆られたが、さすがに今それをしてはあまりにもあからさま過ぎるとアルレイシアは逃げようとした足を叱咤してその場に留まる。そんなアルレイシアの内心の葛藤に気付くはずもないアストラスは、その笑みのまま長い足を活かしてあっという間に彼女の目の前まで歩いてきた。
「おはようございます。本日は殿下とお約束ですか?」
「あ、ええ。あの……おはよう、ございます。その――――お花を、毎朝ありがとうございます」
アストラスの笑顔にぎこちなく笑みを返して、アルレイシアは戸惑いながらも何とか言葉を紡いだ。そんなアルレイシアの様子を穏やかな柔らかい眼差しで見詰めると、アストラスは少し可笑しそうにくすりと笑った。
「あの、どうかなさいました?」
決して彼女を笑ったわけではないだろうが、含むもののある笑いにアルレイシアは首を傾げる。そんな彼女の疑問にアストラスは柔らかい微笑を浮かべたまま首を横に振った。
「いえ、大したことではないのですが。実は今、殿下に書類を取りに来るように仰せつかった帰りでして」
「ええ」
アストラスは宰相補佐官としてラウダトゥールの部下であることを知っているアルレイシアとしては、彼のその言葉の意図が分からないながらも大人しく話を聞くべく続きを促すように相槌を打った。そんなアルレイシアの姿を見詰めながら、言葉を続けるアストラスの笑みが苦笑に変わる。
「ですが、その書類というのは別に今取りに来なくとも良いようなものでしたので。どういうことなのかと考えていた所に、貴女にお逢いできて嬉しく思ったのですが、そう思ったところで殿下の意図に気づいたのです」
「え?」
アストラスの説明を聞いても何が言いたいのか分からないとばかりに目を瞬いたアルレイシアに、すっと彼の手が伸ばされて自然な動きで手を取られた。
「恐らく殿下は貴女が訪ねてくる時間を見計らって私を呼んだのだと言うことです、姫。私が貴女にお逢いできる機会を下さったのでしょう」
再びくすりと笑みを零して、アストラスの唇がアルレイシアの指先に落とされた。柔らかな唇の触れる感覚と彼の言葉に、アルレイシアは頬が一瞬にしてカッと熱を持つのを感じる。
「あ……」
思わず手を引いたアルレイシアの意思に従って、彼女の手はするりとアストラスの手から逃れた。それを無理矢理捉えるようなことはせずに、アストラスは微笑んだままアルレイシアの青紫の瞳を見つめる。
「お逢いできて嬉しかったです、姫」
彼の唇が触れた手を胸の前で握り締めて戸惑うばかりのアルレイシアに頓着せず、アストラスは言葉を続けた。いつもいつも彼のペースに振り回されているような気がしつつも、言われたアルレイシアはどう反応を返すべきかと考えて、結局ぎこちなく微笑むことしか出来ない。そんな彼女を眩しげに見詰めると、アストラスはちらりと一度アルレイシアの背後の扉を気にしてから彼女に視線を戻した。
「本当はもう少しお話をしたいところですが、仕事中ですのでそろそろ失礼致します」
「あ、ええ。お引き止めしてしまってごめんなさい」
別に自分が引き止めた訳ではないにも関わらず思わずそう言ってしまったアルレイシアにアストラスが苦笑して首を振った。
「いいえ、お引き止めしたのは私の方でしょう。殿下とのお約束がありますのに申し訳ありません。それでは、失礼致します」
丁重に頭を下げてすれ違っていくアストラスの背を一瞬見送ったところで、そのまま立ち去っていくかと思われた彼がふと立ち止まった。そして僅かに訝しげな表情でアルレイシアを振り返った。
「香りが……」
「え?」
アストラスが呟いた言葉を聞き取れずに首を傾げたアルレイシアをしばし見詰めて。けれどアストラスはそのままふっと微笑を浮かべると、静かに首を横に振った。そして再度アルレイシアに礼をすると今度こそ歩き去って行く。
(どうしたのかしら?)
そんなアストラスの様子に後ろ髪を引かれるような思いになりながらも、約束の時間を思い出してアルレイシアもまた少し慌しくラウダトゥールの私室に向かって再び回廊を歩き始めた。