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<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
ラウダトゥール(ラウダ):ジール王国王太子。シアの乳兄弟。出張ってますが脇役。
フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。
アウタディエース(ディーエ):ジール王国王女。ラウダの妹。
窓の外はすでにとっぷりと闇に覆われているにもかかわらず、その場所は溢れるばかりの光に満ちていた。
神話の中でも最も人気の高い双女神を題材とした、美しい絵が描かれた天井に吊り下げられた豪華なシャンデリアから降りそそぐ光だけでなく、広間のあちこちには美しい色彩ガラスを填め込んだランプが置かれ、夜だというのに広間は昼間よりも明るかった。
(最も、煌びやかなのは照明のせいだけではないのでしょうけれど)
内心皮肉気にそんなことを考えながら、壁の花よろしく大人しく壁際に立っているアルレイシアは、手にしていた果実酒を口にした。眼鏡をしていないため遠い場所は多少ぼやけて見えていたが、元々それほど悪いわけではない。その分、視野が広く広間内を良く見渡すことが出来た。そんな彼女の視界には、色とりどりの豪奢な衣装を纏った人々が行き来している。
「騙されたわ……」
酒にあまり強くないため、薄めた少し甘めの果実酒で喉を潤すと、周囲に聞こえない程度の声音で苦々しげに呟いた。呟けばますます不愉快になって、手の中のグラスを握り締める。
王宮の舞踏会で出される酒。当然香りも口当たりも一級品のものだが、湧き上がってくるむかつきのまま、まるで酒場で出される安酒のように一息に呷った。そんなことをしたところで気が晴れるわけもなく、険を含んだ青紫の瞳が広間の中心を見据えた。
王宮内で最も豪華な大広間。今宵はそこで舞踏会が催されていた。
今日の舞踏会の主催はこのジール王国の王太子だ。主催者である彼は広間の中心部で訪れる人々ににこやかに挨拶をしていた。『光輝なる珠玉の君』の二つ名に相応しいその華やかさと美貌で、老若男女を問わず人々の視線を集めている。
そんな彼にこれほど刺々しい眼差しを向けているのは、この広い会場内でもアルレイシアぐらいのものだろう。それでも視線の先の人物は、ほぼ確実に彼女の剣呑な視線に気づいているであろうに、全く気にした様子もない。
揺らぐことのない笑顔で周囲の人々と会話を交わしているラウダトゥールの姿に、睨み続ける労力が馬鹿馬鹿しくなって、空になったグラスを中身の入っているものと交換した。
舞踏会や茶会などの社交の場に出るのも随分久しぶりなアルレイシアは、元々そういったものを好まないこともあって、酷く居心地の悪い思いを味わっていた。
最も、懸念したように広間に入るなり求婚者の群れに囲まれることがなかったのは、恐らく前もってラウダトゥールが何らかの手を打ってくれていたからであろう。おかげで楽しくもない場で更に不愉快になることは免れた。しかし、それ以前に受けた騙まし討ちのような仕打ちに感謝をする気も起きなかった。
何より、壁際で目立たぬように大人しくしているにもかかわらず、先ほどから珍しい彼女の姿に集まる視線が居心地の悪さに拍車を掛けていた。
早くこの場に連れ出された用件を済ませてとっとと立ち去りたいと考えているのだが、如何せん連れ出した相手の体が空かない。そのため、研究以外には全く発揮したくもない忍耐力を総動員して、諸悪の根源たる王太子を待つしかないのだった。
本来の社交場での立ち居振る舞いとして、周囲の人間との会話を楽しむという過ごし方もあるのだが、如何せん、社交性などと言うものとは全く縁のない性分である。結局、暇を持て余すように壁際に立ち尽くし、苛立ちを堪えるように再び手の中の果実酒に口をつけるのだった。
(だいたいこんな手に引っ掛かる私も私だわ)
一頻り内心でラウダトゥールを罵倒すると、今度は自分自身への自己嫌悪が湧き始める。そうしてアルレイシアの心は本日の夕刻、今ここに居なければならなくなった原因の出来事を思い返していた。
その日、アルレイシアを呼び出したのはラウダトゥールの妹、アウタディエース王女だった。彼女はアルレイシアの妹フェレンティーアより一つ年上の十四歳。まだ幼さは残るものの、兄と同じく光り輝くばかりの美しい王女だ。
だが、そんな彼女は己の美貌や立場などにあまり関心がなく、華やかな世界よりも部屋で大人しく読書をするなど、自らの知識を深めることを好んでいた。年こそ離れているものの、そういった性質から学者であるアルレイシアと実に良く気が合った。アルレイシアは月に数度王女に呼ばれて、彼女と本の話や研究の話をして過ごしていたのだ。
そういったことから、今日もまた同じように過ごすのだろうと、全く疑うことなくやってきたアルレイシアは、ラウダトゥールの張った罠にまんまと掛かってしまったのである。
「シア姉さまはとても肌が白いですし、御髪の色からもきっと黒が似合うと思いますわ」
「あら、ティーア。黒も良いけれど、この朱色も良いと思いませんこと? シアの髪の色と明度の違うこの色のドレスなら、きっと花のようにお美しくなられるわ」
「まあ、ディーエ様、確かにそちらもとても素敵ですわ。やっぱりラウダ殿下のお見立ては確かですわね」
美しいドレスを手に盛り上がる妹たちに、アルレイシアは言葉もなく頭痛を覚えた。
可愛らしい二人の少女に満面の笑みとともに差し出された豪奢なドレスは、到底着たいなどとは思えない窮屈そうな代物である。しかし、可愛がっている少女たちの期待に満ちた眼差しを裏切ることが出来ず、結局着てみせることになってしまったのだった。
丁寧に仕立て上げられた華美で豪華なそれらのドレスを着た姿を、アウタディエースとフェレンティーアは口々に褒めてくれたが、着ている当の本人は全く自分に似合っているとは思えなかった。ただただ苦行に耐えるように、鏡に映る自分の姿を睨みつけるだけである。
そもそも、何故急に呼びつけられドレスの試着などをさせられているのかと考えれば、どうしても嫌な予感しかしない。にこにこと悪気なく楽しげに微笑んでいる二人に水を差すのは気が咎めたが、それでもアルレイシアは確かめずにはいられなかった。
「ねえ、ディーエ様、ティーア。私はどうしてドレスの試着などをさせられているのかしら?」
上品に染められた黒の天鵞絨地に、襟元や裾に金糸で刺繍が施され、ゆったりと広めに開いた袖口から深紅のレースが覗く美しいドレス。
二人が絶賛したそのドレスを身に纏って、鏡の前に立たされながら、背後で楽しげに装飾品を選んでいる少女たちに問いかけた。
ドレスは肩を露出し、襟ぐりや背中が大きく開いている。胸元は袖口から覗いているのと同じ深紅のレースによって、下品にならないように隠されているが、こんなドレスは到底食事会や茶会に着ていくものではないのは、一目瞭然だった。
アルレイシアの問いに、可愛らしい少女二人は一瞬互いの顔を見合わせ、美しい翡翠のような大きい瞳を瞬かせながらフェレンティーアが口を開いた。
「だってシア姉さまは今夜の舞踏会に出られるのでしょう? ラウダ殿下に頼まれましたの。シア姉さまはきっと舞踏会に出るといっても自分ではあまり着飾ってきたりしないだろうからって」
「今夜は特別なのよ、シア。大丈夫、わたくしたちが今夜の舞踏会に出席する誰よりも、シアが一番美しいと知らしめて差し上げますから。きっとシアの婚約者も、一目で恋に落ちますわ」
少女らしい可愛いらしい憧れを、その星の煌くような澄んだ紫紺の瞳に浮かべ微笑むアウタディエースの言葉によって、アルレイシアはこの呼び出しの真意を知った。そしてどうやら、それを知らぬは本人ばかりだったらしい。
(やってくれるわね……)
これがラウダトゥール本人からの呼び出しならば、アルレイシアも当然警戒しただろう。
しかし、呼び出した相手は王女と妹だった。特にアウタディエースに私用で呼び出されることは、そう珍しいことでもないのだ。事実、全く疑問に思うことなく、のこのことやって来てしまった。今回に関しては、ラウダトゥールが一枚上手だったと言わざるを得ないだろう。
何よりも、相手はアルレイシアの弱点を的確についてきていた。彼女は、この可愛らしい二人の少女に実に弱いのだ。きらきらと邪気のない瞳と笑顔でお願い事をされて、断れたためしがない。
(諦めて舞踏会に出るしかないか――――)
今更目の前の少女たちを振り切って、研究室に帰ることは出来ない。ならば諦めが肝心だった。
そう腹を括ったものの、アルレイシアは差し出された装飾品の煌きに、こっそりとため息を零した。
そうしてされるがまま、楽しげな少女二人に着飾られ舞踏会の場に出た。しかし、首謀者たる王太子殿下は社交に忙しく、アルレイシアはすっかり忘れさられたように、舞踏会が始まってからずっと壁の花だ。
果実酒のお代わりも、もう片手の指の数を数えてしまった。お酒はあまり好む性質ではないし、何よりあまり強くないのだ。これ以上飲んでは酔っ払う可能性がある。
ラウダトゥールへの意趣返しに、一瞬このまま酔っ払ってやろうか、と剣呑な思考で考える。だが、それをした場合に被る痛手は、彼よりも彼女自身の方が大きいことを思えば、そんな短絡的なことは考えるだけで、実行することは出来そうにもなかった。
(全く……)
手持ち無沙汰に空になったグラスを弄びながら、広間を見回す。
するりと視線を滑らせれば数人の貴族と目が合い、相手は気まずそうに慌てて目を逸らした。恐らく、彼女のことを面白おかしく嗤っていたのだろう。
別に今更のことに気にすることなく、相手の存在を意に介さずに視線を動かした。それが逆に相手の気に触ったらしい。アルレイシアの視線が動いた途端に、再び顔を寄せ合ってひそひそと話している。
「退屈……」
いい加減、立ちっ放しで疲れていた。思わず漏れた一言も、誰に聞きとがめられることもなく広間の喧騒にかき消されていく。
ぼんやりと広間を行き交う人々を、見るとは無しに眺めていれば、ようやっと目的の人物が彼女のほうへと向かってきた。
(あら?)
てっきり、本日の目的である(であろう)婚約者候補を引き連れてくるのかと思っていたのだが。どれほどの人に紛れようと、決して埋もれるということのない美貌の王子殿下は、単身で彼女の元へと歩み寄ってきた。
「やあ、待たせてすまない、シア。思ったとおり、そのドレスは君にとても良く似合うよ」
にこにこと広間の明りにも負けない、輝く笑顔を振りまくラウダトゥールに、アルレイシアは凍りつくような冷たい眼差しを向けた。
「つまらないお世辞は結構よ。そういうのは聞き飽きてるの。正直に馬子にも衣装だと言えば? ――――それで、どこにいるの?」
美しい装いに似つかわしくない剣呑な表情と、愛想のあの字もない態度を、ラウダトゥールは苦笑するだけで咎めることなくやり過ごす。普段の社交の場では、ファーブラー公爵令嬢として、きちんと場に相応の態度を取るアルレイシアのそんな様子に、どうやら恐ろしく機嫌を損ねたことを、否が応でも察したのだ。
それでも長い付き合いでそんなアルレイシアへの対処法もきちんと心得ているラウダトゥールは、その美しい顔に実に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「騙すみたいな真似をしてごめん。でも、君だって面倒事は早く済ませたいだろう。長引けばその分、迷惑を被るのはシアなんだし」
「それは……そうかもしれないけれど」
素直に非を認めて謝罪され、正論を言われてしまえば、アルレイシアはそれほど強く出られない。学者としての論理的な思考回路と、感情よりも強い理性がそんな相手に怒り続けることをよしと出来ないのだ。
そんなアルレイシアの性格を良く知っているラウダトゥールは、実に鮮やかに彼女の怒りを収めると、にこやかに手を差し出した。すっと伸びた長い指を持ち、白い絹の手袋のはめた手をアルレイシアは目を瞬いて見下ろした。
「……まさか、あなたが私のパートナーだなんて言わないわよね。どういうつもり?」
「別に僕はそれでも構わないけれど。なんなら公爵家の跡取りではなく、王太子妃になる?」
「冗談も程ほどにしてちょうだい」
キッとばかりに睨みあげれば、ラウダトゥールは真意の見えない笑みを浮かべた。その白皙の美貌の中で、夜空の如く星を浮かべた瑠璃の瞳が楽しげに輝いている。子供の頃は、今よりも更に頻繁に見た――――それは、彼が何かを企んでいる時の表情だ。
「ラウダ?」
アルレイシアが呼びかけるよりも早く、その視線がすっと動き。彼の瞳が何かを捕らえた。
その視線を追おうとして、顔を動かした彼女の耳元に、潜めた呟きが落ちる。
「さあ、罠の始まりだ」
言葉の意味を理解出来ないアルレイシアは、追いかけた視線の先に見つけたその姿に、知らず眉根を寄せていた。