11
<簡易人物紹介>
カッコ内は会話内で使用されている愛称です。
アルレイシア(シア):ファーブラー公爵令嬢。ヒロイン。
アストラス(アスト):ソーラ伯爵家の次男、元騎士で現在は宰相補佐官。ヒーロー。
フェレンティーア(ティーア):シアの下の妹。
とりあえず気分を変える意味も込めて、アルレイシアは香草茶を淹れなおすことにした。アストラスの手にはつい先日書きあがったばかりの論文があり、室内には香草茶の爽やかでどこか甘い芳香と紙を繰る音だけが響いていた。それらが今日は一日混乱と動揺に揺れ動いていたアルレイシアの心をすっと落ち着けていく。
しっかりと蒸らし終えた香草茶を茶器に注げば華やかな香りが鼻腔を擽り、思わず口元に笑みが浮かんだ。
「どうぞ」
香草茶を注いだ茶器をアストラスの前に置いた。カチャリ、と陶器が触れ合う音に惹かれるようにアストラスの翡翠の瞳がそちらに視線を向けて、ふわりと流れた朱色の一筋に誘われるように手が伸ばされた。
茶器を机に置くために前かがみになった姿勢を戻そうとした途端、くんっと髪が引っ張られてアルレイシアは思わず動きを止める。驚いてそちらに目を向ければアストラスの手が肩から零れた髪を掴み取っていた。そして彼はまるで無造作にその髪に唇を寄せる。
「香りが……」
「え?」
アストラスの呟きの意味が分からずに首を傾げようとしたアルレイシアだったが、髪を掴まれているため思うように動けず、ただ僅かに頭を動かしただけに終わった。そんな彼女の様子に気づいたのか、アストラスは掴んでいた髪の先にくちづけを一つ落としてから放した。そしてアルレイシアに柔らかな笑みを向ける。
「いいえ、何でもございません。突然申し訳ございませんでした。大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫、ですけれど……」
一連の行動の意味が分からず、アストラスの手から髪を取り戻した後もアルレイシアは微かに頬を染めて首を傾げたが、彼はそれ以上説明するつもりはないようにただ小さく首を振っただけだった。すぐにその視線を再び紙の上に戻したアストラスに、釈然としない思いを抱えながらもそれ以上問うことはせずにアルレイシアは自身の茶器を持って長椅子へ腰掛けた。
温かい香草茶の香りを楽しみながらそっと口に含むと、すぐに口いっぱいに広がる馥郁とした香りと優しい渋みに満足して微笑んだ。ほっと息を吐いて茶器を机の上に戻すと、真剣な表情で紙の束を繰っているアストラスの表情を窺うように見詰めた。その視線の動きと紙を繰る速さからも彼が随分と読書に慣れていることが分かる。
(それにしても……どうして神学なのかしら?)
もちろんアルレイシアの研究している神学は貴族たちには一般教養として嗜まれてはいるが、それでも決して専門的に勉強しようなどと考える人間が多い分野ではない。アルレイシアの書く論文などは貴族の一般教養のレベルを遥かに超えた、興味のない人間にとっては手にとってみようと思うことすらない類のものであるはずだ。それなのに彼はそれを読んでアルレイシアの研究に興味を持ったと言っていた。
そんな小さな疑問を抱きながら、小首を傾げて論文を読むアストラスの研ぎ澄まされていっそ優雅にすら感じられるその姿を眺めた。
まるで一本芯でも通っているようにすっと撓むことなく伸びた背筋。膝の上に置かれた紙の束を見下ろすために少し俯いた顔の額にかかる髪は、夜を集めて造られた宝石を溶かし込んだようなしなやかで硬質そうだった。目にはかからない長さながら時折気になるのか、その前髪を紙を繰る手が少し乱暴にかきあげると、秀でた額が現れる。腕も足も長く、ゆったりとした大きめの長椅子にもかかわらず彼の体躯には少し窮屈そうだった。
そうして少し距離を置いて眺めてみれば、アストラスという青年は実に見栄えのする容姿をしていた。幼い頃から父親や国王、ラウダトゥールにウィルトゥースと言った容姿に秀でた男性ばかりを見て育ってきたため、アルレイシアの審美眼は本人が自覚していなくともとても厳しかったが、そんな彼女が目を奪われるのだ。研ぎ澄まされた刃のように無駄のない体つきも端整な顔立ちも、とても人目を惹く容姿であることは間違いなかった。
それでなくとも一般的に貴族にとっては男女ともに容姿の美醜というのは重要な要素なのだ。だからこそアルレイシアも幼い頃からその事が原因で蔑まれてきたわけだが、彼女にとっては他人を判断する基準に容姿はそれほど重要ではなかったため、こうして改めてアストラスという青年を観察して思わずほうっと感嘆の息を漏らしていた。
(何だか、信じられないわ)
初対面の人間ならばその容姿の端整さよりも纏う空気の鋭さや威圧感に気圧されてしまいそうだが、それに慣れてしまえば彼が周囲の人間に聞かされた通りにとても女性にもてるであろうことは疑問に思うこともなく納得がいった。恐らくアストラスならば引く手など数多に違いない。それなのになぜ、その彼が自分などに想いを寄せているのか疑問に思わないわけがなかった。
ぐるぐると巡る思考を持て余しながらアストラスを観察し続けていると、やがて論文を読み終えたらしい彼がほっと肩から力を抜いて開いていた紙の束を閉じた。そしてそれを丁重に机の上に置くと、既に冷めかけてしまった香草茶の入った茶器を手にする。
「折角淹れていただいたのに……申し訳ございません」
苦笑して詫びの言葉を言うアストラスにアルレイシアは微笑んで首を振った。そして彼が香草茶を口にし終えるのを待ってから、僅かに身を乗り出した。
「アストラス殿は、どうして神学にご興味を持たれたのですか?」
論文に対する感想を聞かれるのかと考えていたアストラスは、好奇心にきらきらと輝くアルレイシアの青紫の瞳に見つめられて思わず目を瞬いた。そしてそんな彼女の可愛らしい様子に小さく微笑む。
「なぜそのようなことを聞かれるのですか? 神学は一般教養として学びますから、それほど不思議なことでもないと思いますが」
「そんなことはありませんわ。貴族にとっては神学など、あくまでも教養。私の書くような論文にまで興味を持つ方などそれほど多くありません。それならば遥かに政治や経済の勉強をするほうが、後のためになるでしょう?」
話を逸らされたのかと僅かにむっとしたアルレイシアに気づかないようにアストラスが首を傾げた。
「それでは、アルレイシア姫はなぜ他に多くの学問がある中から神学を選ばれたのですか?」
その問いに今度こそアルレイシアは面白くなさそうに顔を顰めた。けれどすぐに気を取り直して仕方なく口を開く。
「尋ねたのは私の方が先ですのに。でも、まあよろしいですわ。私が神学を研究することを選んだのは、ティーアの――――妹のような、『アウグスタ・ウェーリタース』という存在に興味を持ったからです。彼女たちは明らかに普通の人間と異なっていますが、それは何故なのか。そもそも何故彼女たちのような存在が生まれてくるのか。そういったことを知りたいと思ったからですわ」
答えて、今度はアストラスの番だとばかりにその意志の毅い青紫の瞳がしっかりと彼を見据えた。
「そうですか。それで、貴女はそれに少しは近づけたのですか?」
ただ頷いただけで望む答えとは違うアストラスの言葉に再びむっとしつつ、アルレイシアはわざとらしく肩を竦めてみせた。
「いいえ、私の論文を読んでいただけたのなら分かっていらっしゃるかもしれませんが、まだまだですわ。如何せん、この分野の研究が滞っている最大の原因は神殿の秘密主義にありますから。神殿にしかない神々に関して記された様々な文献は、神殿に属するもの以外には見ることもできませんし、神官様や巫女様たちに話を聞くにしても神殿まで行かなければならず、中々難しいのです」
「そう、ですか……アルレイシア姫はトリミアの大神殿に行かれたことは?」
「残念ながら、ありませんわ。数年前にわが国の聖都・プロクエアントゥルには行くことが出来たのですけれど。いくら巡礼街道がそれなりに整備されているとはいえ、国境を越えて移動するのは大変ですから。正式に家を継ぐ前に一度は行っておきたいと思ってはいるのですが」
アルレイシアの言葉にアストラスは形の良い顎に手を当ててしばし何か考え込んでいたようだったが、すぐに顔を上げて二粒の煌きを秘めた翡翠がじっと彼女の瞳を見つめ返した。光を受けて深い緑に輝くその瞳の奥に一瞬何かが見えたような気がして、アルレイシアは思わず目を細めてじっとその瞳を覗きこんでしまったが、それを見出すより早くアストラスが口を開いた。
「私が神学に興味を持ったのも、アルレイシア姫と同じような理由ですよ。ずっと、子どもの頃から不思議に思っていました。『真理を知るもの』や、『聖女』、そういった存在が何を齎すものなのか。なぜそのような存在が必要なのか。私は貴女のようにわざわざそれを研究しようとまでは思いませんでしたが」
ようやっと聞けた最初の問いに対する彼の答えにアルレイシアは驚きに目を瞠ると、じっと探るようにアストラスの表情をつぶさに観察した。その瞳はまるで罪人の嘘を見破る力を持つという星女神の宝石のように力強く毅然と輝いている。
「それでは、アストラス殿の身近にもどなたか『神の真理を知るもの』がいらっしゃったの?」
「ええ――――いえ、そう、ですね。いずれ……アルレイシア姫にはお話するときが来るかもしれません」
アルレイシアの瞳に気圧された訳ではない様子ながらも視線を逸らしたアストラスが、彼にしては実に珍しいことに歯切れの悪い口調でそう言った。その言葉にアルレイシアは首を傾げたが、それ以上追求することなく頷いた。
「分かりましたわ。いずれ、とアストラス殿が仰るのでしたら、そのときを楽しみにしております」
その言葉にアストラスはまるで光に解ける雪のように淡い微笑を浮かべた。
「ありがとうございます。そうですね、いずれ、必ず」
アストラスという青年に実に不似合いなその儚さすら感じさせる微笑にアルレイシアは一瞬目を奪われ。そして唐突に湧き上がってきた不安に顔を曇らせた。何かを言わなければならないと思うのに、何を言えばいいのか分からず言葉に詰まって唇を噛む。そんな彼女の仕種に気づいたアストラスはすぐにその微笑を消し、今まで通りの柔らかな笑顔を向けた。
「そのような顔をなさらないでください、姫。そのように不安に思われるような話では、恐らくありません。ただ、貴女が私を受け入れてくださるのであれば、いずれ必ずお話しなければならないことですし、そうでなくとも貴女には知っていただきたいと思っているのです。本当は今お話しても良いのですが、今日はあまり日が良くないので」
「日?」
「ええ……お話するには少し日を選ぶ必要がありまして。ご迷惑でなければ、後ほどその日をお知らせいたしますので、お時間を頂くことは出来ますでしょうか」
日を選ぶ、という言葉にアルレイシアは表情を改めて真剣な顔ではっきりと頷いた。アルレイシアとてその道ではそれなりに名の知られた学者である。そのため日を選ばなければならない話、と言うものには幾つか思い当たる節もあった。一瞬それを尋ねようかとも考えたが、すぐに思い直して口を噤んだ。それは話すつもりがある相手にわざわざ問う必要はないと思ったからでもあったし、話の内容がアルレイシアの想像した通りであるならばそう簡単に口に出せることでもないと思ったからでもあった。
結局アルレイシアはただアストラスの言葉に一つ頷いただけだったが、アストラスはそれに安堵したようにほっと息を吐いて再び茶器に手を伸ばした。その大きな手には小さく見える茶器を持つアストラスの手を見つめながら、アルレイシアはふと先刻の彼の言葉に引っ掛かりを感じてしばし考えるように唇に指を当てた。
ゆっくりと会話を反芻して、その内容に思い当たると今度は好奇心の赴くまま口を開いた。
「そういえば、アストラス殿はトリミア教国の大神殿に行かれたことがあるのですか?」
一見唐突にも思えるアルレイシアの言葉にアストラスは目を瞬いてから、けれど答えに迷う風もなくあっさりと頷いた。
「ええ。と申しましても、まだ随分と幼い頃に一度だけ、ですが。双女神の描かれた壁画がとても美しかったことを覚えています。聞いた話によると海の向こうのセイルズにあるエイムズ教主国の大神殿の双女神像とトリミア教国の大神殿の双女神の壁画は共に、大陸中探してもこれら以上のものはないと讃えられるほどの価値があるものらしいです」
「その話ならば私も聞いたことがありますわ。その女神像と壁画を見るためだけに、多くの神殿の信徒の方々が巡礼街道を渡って行くというほどのものらしいですから、よっぽどの美しさなのでしょうね。私も神学を研究するものとしてぜひ一度は見てみたいものですわ」
アルレイシアとしては自分があまり芸術に対して造詣が深い人間だとは思っていないが、それでもまさに双女神の写し絵と言われているほど見事だと伝え聞くそれらの存在には常々興味を持っていたのだ。
それから暫しの間、二人は互いに興味を持った双女神に関する伝承や、アルレイシアの論文についての議論を交わした。
そうして北国の遅い春のまだあまり長いとはいえない陽が傾き、黄昏色の光が窓から差し込むにあたって、アストラスは何とか重い腰を上げたのだった。
「長居を致しまして申し訳ございません」
見送りに立とうとするアルレイシアを押し留めて応接室の入り口で暇を告げたアストラスに、アルレイシアも笑顔を向けた。
「いいえ、こちらこそ、長々とお引止めしてしまって。とても、その……興味深い時間を過ごせましたわ」
楽しかった、と言い切ってしまうのは何だか躊躇われて、思わず言葉尻を濁したアルレイシアにアストラスはクスリと柔らかく笑みを零した。長い腕を伸ばしてアルレイシアの伸ばしっぱなしにしているオレンジがかった朱色の髪を一房手に取る。人参色と揶揄されるアルレイシアのコンプレックスの一つである髪を、だがアストラスの手はまるで高価な宝石であるかのように丁寧な手つきで押し頂いて、その髪の先に唇を落とした。
「なっ……」
二度目とはいえ、そのような事をされ慣れていないアルレイシアは驚きに思わず目を見開いて身を引いてしまう。それほど強い力で掴まれていた訳ではない髪の毛は、あっさりとアストラスの手の中から逃れて落ちた。
「あ、の」
はらりと胸元に落ちかかったくちづけされた髪の毛を思わず手に掴んで視線を彷徨わせたアルレイシアは、一度彼の唇が触れたところに視線を落としてから顔を上げた。
「髪は、次の休息日に切るつもりなんです。それで、あの」
次に顔を合わせるのがいつになるか分からないが、それでもこんなことがあった後に髪を切れば誤解をさせてしまいそうで、アルレイシアは何と言えば良いのか分からないながらも言葉を紡いでいた。そんなアルレイシアの言葉にアストラスがその切れ長の瞳をゆっくりと瞬いた。
「切られるのですか? なぜ?」
アルレイシアの髪の長さは今でも貴族の姫として決して長い方ではなかった。むしろ、常に結い上げられる最低限の長さに保っている髪は、貴族の姫としては短すぎるぐらいなのだ。その事で何度かユースティティアや公爵家の侍女頭などに注意されていたが、それでも自分の髪色が嫌いなアルレイシアにとっては、そんな髪を伸ばすことは苦痛だった。
アストラスのその問いにも自らのコンプレックスを晒すようで答えることを躊躇ったが、真摯に見詰めてくる瞳に誤魔化すことも出来ずに渋々と口を開いた。
「私は、その、あまり自分の髪の色が好きではないので――――私の髪の色がどのように言われているか、アストラス殿もご存知でしょう?」
言い難そうに告げられたアルレイシアの言葉にアストラスは再びその翡翠の瞳を瞬いて。それからそっと髪の毛を握り締めているアルレイシアの手ごとその髪を大きな手で包み込んだ。
「そのような言葉をそれほどまでお気になさる必要はありません。誰がどのように言っているのかまでは私は存じ上げませんが、それでも私には貴女の髪の色はとても優しくて温かい色だと思えます。髪の色が気になるのでしたら、着られる服の色を変えられたら如何ですか? 私も女性の衣装には詳しくありませんが、義姉がよく妹にそのように言っていました」
言われてアルレイシアは自分の着ている服を見下ろした。今日来ているのはやはり仕立てや生地は良いものながら、地味な印象の強い焦げ茶色の外出着だった。彼女の着る服は主に紺や焦げ茶などの地味な色合いの服が多いのは事実である。そのことも良く妹たちに注意をされていたが、アルレイシアは自分が若い娘らしい明るい色の衣装を着る姿など到底想像出来なかったのだ。
「ですが……」
反論しようとしたアルレイシアの言葉を止めるように握り締められた手に力を込められて、アルレイシアは困ったように眉を下げてアストラスの顔を見上げた。そんなアルレイシアの困惑が色濃い表情に取り合うことなく、アストラスは柔らかく微笑みかけた。
「よろしければ近いうちにぜひ我が家へお越しください。義姉ならばきっと嬉々として貴女に似合う色を教えてくれると思います。そうすれば、髪の色などそれほど気にならなくなりますよ。むしろ、私は貴女の髪は色などにかかわらず、とても美しいと思います。切ってしまうのは勿体ない。髪を切るのは、それまでお待ちくださいませんか?」
柔らかな微笑とは裏腹に真剣な翡翠の瞳にじっと見詰められて、アルレイシアは暫しの間逡巡したものの、最後には諦めて大人しく頷いた。彼女がしっかりと頷いたことを確認すると、ようやく握り締められていた手が放された。
「ありがとうございます。それでは、また、近いうちに」
「………ええ、お約束いたしますわ」
何だか最初から最後まで相手のペースに巻き込まれっぱなしだったような気がして、思わず苦笑しながらもアルレイシアは今度ははっきりと頷いた。そんな彼女にもう一度笑みを向けて、アストラスは以前もそうしたようにアルレイシアを見詰めたまま二歩、後ろに下がった。そしてやはりしなやかな見惚れるような仕種で礼をする。
「失礼いたします」
短く告げて踵を返すと長い足でやはりあっという間に去って行く広い背中を、アルレイシアははっきりとは分からないながらも、どこか以前とは違った心地で見送ったのだった。




